白鳥にお願い


                 ・・序章・・

 青い空を白い鳥が群をなして横切って行く。

 なんていう鳥かな……レックスは雪道を踏みながらぼんやりとそれを眺めた。
 鳥が消えた方向に、小さな林があった。
 その中の一番大きな木に人影が見えたような気がして、そちらの方へ歩いて
 行く。もともと気まぐれな散歩だった。決して大きくないセイレーン城で、
 いつも同じ連中と顔を付き合わせているのに、少々疲れてしまっていたのだ。

 林に近づくと、半分埋もれた大木の枝に登り、足をぷらぷらさせている少女の
 姿が見えた。やっぱり。なんとなくこいつのような気がしていたんだ。

 「おい、雷娘」
 枝を見上げて声をかける。
 「お前さ、仮にもフリージ家の公女だろう?そんなところに登ってはしたないと
 は思わないのか?」
 「あ、レックス。やあね、わたしはもうただの反逆者なんだから。フリージ家と
 とか公女とか関係な・い・のっ」
 「そんなことを嬉しそうに言うやつがあるか」
 樹上から何かが、ぽん、と飛んできてレックスの肩に当たった。雪だ。
 「こらっ、ティルテュ」
 ティルテュは笑って次から次へと枝に積もった雪を固めて投げる。
 「まったくしょうがないお姫さまだな!そこで待ってろ、お仕置きしてやる」
 「……あ、待って、待って!レックス!大変だわ」
 レックスが木に登ろうとすると、ティルテュは急にするり、ぴょん、と木の枝か
 ら下りた。
 「隠れて!」そう言ってレックスの手をひっぱる。なんなんだ、一体。
 言われるままに木の陰に隠れる。
 しばらくしてふたり連れが雪道の向こうから歩いてくるのが見えた。
 遠目にも誰かははっきりとわかった。
 アイラとホリンだ。仲良さそうに話しこんでいる。
 もう自分には関係のないことだ、と思っても、さすがに二人一緒にいるところを
 見るのは愉快ではない。
 あの時、もう十発くらい殴って、いや、肋骨の一本でも折っておけば良かった…。

 「どうして俺が隠れなきゃいけないんだ」
 二人が見えなくなってからレックスは不機嫌そうに呟いた。
 「だって、また喧嘩になるかもしれないじゃない」
 「なるもんか。あいつと殴り合うのはもうこりごりだよ」
 ティルテュの小さな手がレックスのこめかみにそっと触れた。ホリンに殴られた
 時の傷が残っているのだ。
 なんだ?と言って振り向いて初めて気がついた。
 ティルテュの大きな瞳から涙がこぼれようとしている。
 「レックスって可哀想……さんざん殴られた上に彼女まで取られちゃうなんて」
 「あ〜〜〜、だからってなんでお前が泣くんだよ。おい、泣くな。
 お前に同情されるほどまだ落ちぶれていないぞ、俺は」
 やれやれ。
 なんでこの少女に生涯最低最悪な修羅場を見られてしまったんだろう。

 一ヶ月ほど前の夜。レックスはホリンと城の中庭で会った。冬の始まりで、
 雪が花のように舞っていた。
 そこでホリンは言ったのだ。「アイラを譲ってくれ」と。

 アイラは長い間二人の男の間で気持ちを決めかねていた。もともと恋愛の得
 意な女じゃないのだ。だが、ここシレジアに来てからは、ホリンに心が動いて
 いるのは分かっていた。ホリンの、アイラに寄せる情熱が並々ならぬ深さで
 あることも。だが、レックスも、くれ、と言われて、そうですか、はいどうぞ、と
 言う程お人好しではない。
 「一発殴らせろ」
 ホリンは素直に殴られた。その素直さが余計に腹が立った。
 かえって何が何でもアイラを手にいれようという頑固な意志を感じた。
 もう一発殴る。やはり素直に殴られた。
 だがこちらは殴れば殴る程腹が立つ。
 「百発殴ったってお前には永久にやれん」
 そう言い捨てると、ホリンの目に静かな、けれど熱い怒りが宿った。
 それから、殴り合いの喧嘩になってしまったのだ。
 もしあのままいけば、シグルド軍は貴重な戦士をどちらか一人、失うことに
 なっていたかもしれない。
 二人を止めたのはアイラでも、指揮官のシグルドでもなかった。
 レックスの視界が血で赤く曇った。その時、突然、雷が落ちたのだ。
 ホリンの足元に。
 「レックスを殴らないで!!」
 ティルテュが叫んでいた。彼女は中庭のベンチに忘れた魔道書を取りに来て、
 二人の喧嘩に出くわしたのだ。
 レックスも驚いたが、ホリンはもっと驚いただろう。
 彼の中で暴走していた怒りは急に失速して行った。
 やがてホリンは元の静かな男に戻ると、「すまなかった」と二人に頭を下げ、
 去って行った。

 何がすまなかった、だ。
 俺は一生お前に謝らないからな。
 世界の終わりが来ても謝らない。
 地獄の業火に焼かれても謝らない。
 だが、アイラはやろう。
 アイラはあきらめてやる。

 なんだか、興奮してそんなことを口走ったような気がする。
 ホリンの背中に向かって。ティルテュの前で。
 以来、ティルテュは彼女なりに同情して、気を遣っているらしい。
 子供の頃、『ちびマージ』と言ってさんざんからかっていた相手に慰められる
 とは……ちょっと情けない。

 「あの時、レックス、死ぬかと思った」ティルテュが涙を拭って言った。
 「あれくらいで死ぬならとっくの昔に死んでいるよ」
 「だって、ホリン、いっぱい殴っていた」
 「俺も随分殴ったよ。おあいこだ。それに、あいつはそれだけアイラに惚れて
 たんだろ。俺を倒してでもアイラが欲しかったのさ」
 「レックスは?」
 「俺?うーん、俺はホリンよりも倒したい相手がいるからな」
 「そうなの?それって誰?」
 「シグルド」
 嘘だぁ、とティルテュが笑った。本当は『シグルド……の敵』と言いたいのだ
 が、さすがにそれは彼女に言えない。シグルドの敵というのはつまり、彼女
 の父親と、自分の父親のことなのだから。
 「でもレックスだってアイラのことがとっても好きだったんでしょ?」
 「まあ…アイラの話はやめよう」
 ティルテュはそれきり黙りこんだが、もう涙は消えていた。
 レックスは木にもたれかかり、何気なく東の方を見て言った。
 「あの森の向こうには何があるのかな。行ったことないんだが」
 ティルテュの顔がぱっ、と輝く。
 「湖! 湖があるの。すっごくきれいな白鳥がいるのよ。わたしいつも晴れた
 日には行っているの、すてきなの」
 「白鳥? なんだそれ。さっき飛んでいた鳥かな?」
 「あ、見た?きれいだったでしょ」
 「よくわからん」
 「えーきれいなのにぃ。ね、ね、今から行こう」
 「え!? 今から?」
 「いいじゃない、どうせ暇なんでしょ。ね、行こう」
 「でもなぁ…そういう所へは『大好きなクロード神父』と行った方がいいんじゃ
 ないか?」
 「うーん、それがね、クロード神父って体力ないのよ。この間一緒に行こうとし
 たら、湖に着く前にへたばっちゃって、途中で引き返しちゃったの」
 「気の毒に、お前の元気さに付きあいきれなかったのか」
 レックスが笑うとティルテュも嬉しそうにころころと笑った。
 白銀の道をティルテュが軽やかに歩き始める。さっきまで泣いていたくせに、
 もう白鳥が、湖が、とはしゃいでいる。

 まあ、いいか、とレックスは思った。
 あれこれ考えても今はどうにもならないことばかりなのだ。
 運命に答えが出る日まで、しばらくはティルテュの相手をしていようか。
 レックスもまたゆっくりと歩き始めた。


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