2011年5月9日15時21分
「どうか記事にしないでください」――。地震発生から2日後の3月13日、津波で壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町で、ある男性にそう頼まれた。
「私は今、いけないことをしているのです……」
「千葉英志」と名乗ったその男性は、がれきで埋もれた町のなかを、ふらふらと何かを求めてさまよい歩いていた。聞くと、「実は、私は隣町の小学校の教頭なのです」と答えた。
夕暮れ迫る町のなかを、寄り添うようにして約2キロ歩いた。教頭はぽつりぽつりと言葉を紡いだ。南三陸町で育ち、最近は自宅のある同町から、電車で同県気仙沼市の階上小学校に通っていること。学校は高台にあって津波の被害こそ免れたが、周辺は津波と火災で壊滅し、全校児童のうち110人の安否がまだわかっていないこと。今は車の中で寝泊まりしながら、祈るような気持ちで不明児童の保護者からの連絡を待っていること。それでもやはり、妻や近くで暮らす2人の姉が気にかかり、校長に頼んで半日間、南三陸に帰ってきたこと――。
「自宅は跡形もありませんでした。でも妻はヘリコプターで病院に搬送されたようです。姉2人についてはわかりません……」
宵闇のなかで、教頭の声が震えた。
◇
それから約2週間後の3月28日夜。翌日東京に帰任することになっていた私は、あの時出会った教頭に会いたくて、階上小学校を訪れた。被災を免れた同小は遺体安置場になっており、教頭はそこでただ1人、保健室で寝泊まりしながら電話の番を続けていた。私を見るなり、驚いた顔をして駆け寄ってきた。
「記者さん、生きてたんです。全員無事だったんですよ」。職員室の石油ストーブにあたりながら、教頭は、児童が奇跡的に全員無事だったことや、姉2人とも避難所で再会できたことを、半ば夢中になって話してくれた。
「会いに来てくれるなんて、感激だなあ。そうだ、今夜は私がごちそうしよう」。教頭はそう言うと、サンマの缶詰一つを職員室の倉庫から取り出してきてストーブの上にのせた。「これが今の私の最高のぜいたくなんです」
職員室で炊いた水気の多い白米を紙皿に盛り、たった一つの缶詰を2人でつつく。私の胸には複雑な感情がこみ上げた。多くの命と思い出が奪われた被災地では、子どもたちの心のケアが最重要課題になっている。でもその一方で、子どもたちを必死に励まし、導こうとしている教師たちもまた、多くが教頭のような被災者なのだ。
◇
子どもたちのために自らを滅して走り回っている教師たちの姿や声を、私たちはどこまで伝えることができているだろう――。
「今、一番気に掛けていることは何ですか」。そう尋ねてみると、教頭は缶詰の残り汁を白米にかけながら、少し考えて答えた。
「震災によってもたらされたあまりにも多くの『生と死』を、子どもたちに今後どうやって伝えていくか。寝ても覚めてもそればかり考えています」(三浦英之)