ラスト・リゾートめぐる闇、ベントという「最後の手段」はなぜ遅れたのか ― 2011/04/25 08:29
1979年のスリーマイル島原発事故。
この時は作業員判断ですばやくベントが行われ、原子力規制委員会(NRC)も追認。
一方、日本ではベントは「最後の手段」。
電力会社のトップや政府の判断を待ってから行う体制という。
確かに官邸は東電に対して再三ベントの指示を出していた。
どうしてそれが遅れたのか。なぜ「痛恨の出来事」につながったのか。
電源が失われていたために最終的には手動で開けるしかなかった。
その作業に手間取って実施が遅れたとの情報もある。
はたしてこれは本当なのか。
あの時、現地には判断を行なうべきトップが3人いた。
3人とは菅直人首相、斑目春樹・原子力安全委員会委員長、武藤栄・東電副社長。
現地にトップ3人がいたからベントができなかったのではないのか。
ベントによって菅首相らが被曝しかねないという懸念があったからではないのか。
ベントを行なえば、放射性物質が飛散する可能性が高かった。
常識的に考えれば、トップ3人を放射線に曝すリスクを伴うベントなどできるものか。
そのために彼らが福島第一原発を離れるのを待つしかなかった。
菅首相が福島第一原発を離れた1時間後の午前9時4分に東電はベント作業着手。
実際に弁の開放作業が始まったのは午前10時過ぎ。
真相はまだ闇の中。
徹底的な検証を求めたい。
<関連記事引用>
「1~5号機、全電源喪失!」 検証・福島第一原発事故
2011/04/10 朝日新聞 朝刊
東日本大震災の発生から56分後の3月11日午後3時42分。東京電力福島第一原子力発電所の非常用ディーゼル発電機が1台を残してすべて止まった。14メートルを超す津波が6基の原発を直撃していた。
「福島第一原発1~5号機の全交流電源喪失! 6号機の非常用ディーゼル発電機Bのみ運転中!」。東京・霞が関の経済産業省別館。原子力安全・保安院の「緊急時対応センター」から飛び出してきた職員がメモを大声で読み上げた。
福島第一原発の中央制御室では照明や計器の表示がすべて消えた。運転員らは自動車のバッテリーを計器につなぎ、懐中電灯で照らしながら原子炉の状態を示すデータを必死で読みとった。
東京・内幸町の東電本店。清水正孝社長は関西に、勝俣恒久会長も中国に出張中で不在だった。「電源がないと原子炉を冷やせない」。本店に残っていた役員は血の気が引いた。
原発にいた7人の保安院職員は約5キロ離れた「オフサイトセンター」に向かった。原子力災害時にはそこに現地対策本部が置かれ、原発の状況も常時監視できる。だが、停電と通信回線途絶の影響でデータは見られなくなっていた。
午後5時45分、保安院の記者会見。中村幸一郎審議官が厳しい表情で話した。
「(原子炉への)注水は継続中だが、水位がどのくらいあるかわからない」
原子炉は制御不能に陥り始めていた。
(2面に続く)
報告うのみ、「万が一」強調 3・11緊急事態宣言 検証・福島第一原発事故
(1面から続く)
●報告うのみ、「万が一」強調 3・11 緊急事態宣言
地震発生当時、菅直人首相はまったく別の「危機管理」に直面していた。
参院決算委員会で、自らの資金管理団体の外国人献金受領問題の追及を受けていた。その最中に天井のシャンデリアが大きく揺れ、首相が見上げると、鶴保庸介委員長は「机の下へ隠れてください」。委員会はそのまま休憩になった。
枝野幸男官房長官は午後2時50分すぎ、首相官邸玄関で公用車を降りると、走って官邸地下の危機管理センターへ。数分遅れて菅首相も国会から戻った。
「これから全閣僚を集める」。続いて姿を見せた細野豪志首相補佐官は、記者団にこう説明した。直後から閣僚が到着し始めた。
だが、しばらくして枝野官房長官が「枝野、松本龍防災相以外は役所に戻って待機」と指示し、集まった閣僚をいったん帰すことに。江田五月法相は「だれからの指示かはわからない」と漏らした。指揮系統の乱れの予兆は出ていた。
福島第一原発は運転中だった1~3号機が地震直後に自動停止。その約1時間後に「1~5号機が全交流電源喪失」、午後4時半すぎには「1、2号機が注水不能」に陥り、原子炉が冷却できなくなった。
しかし、官邸には東京電力側から、こんな内容の報告が届けられていた。
「(原子炉の)冷却ができなくなっても、8時間までは問題ありません」。8時間とは、全電源喪失時も使える非常用バッテリーの使用可能時間。その間に冷却機能が復旧できるとの判断があったとみられる。
夕方、官邸を訪れた原子力安全委員会の班目(まだらめ)春樹委員長も「外部に放射能が出るような事態にはなっていない。電源に問題があるというだけで、連鎖反応は完全に止まっている。あとは冷やすだけ」と語った。
午後5時前、首相は国民に向けてメッセージを語った。「一部の原子力発電所が自動停止しましたが、これまでのところ外部への放射性物質の影響は確認されていません」。政府内の専門家の意見を踏まえたことは明らかだった。
午後7時45分、枝野官房長官は会見で政権が原子力緊急事態宣言を発令したことをこう説明した。「一定期間内に対応できれば不安、問題点は解消できる。現に被害が出るような状況にあるわけではない。万が一の場合の影響は激しいので、万全を期すということで宣言を発令して対応する」
福島県は「国の判断を待っていられない」(県幹部)と、午後8時50分に原発から半径2キロ圏内の住民に避難を呼びかけた。
冷却機能は東電がいう「8時間」がすぎても回復の見通しが立たなかった。「万が一」と強調した事態が近づいていた。
●「ベントなぜ始めない」 3・12 首相が視察
12日午前1時半、首相官邸。班目原子力安全委員長と東京電力関係者が、菅首相と海江田万里経済産業相に福島第一原発1号機の圧力上昇を伝えた。原子炉格納容器の内部に大量の水蒸気がたまっていた。班目委員長らは訴えた。「格納容器の健全性を確保するため、内部圧力を放出する措置を講じる必要があります」
格納容器内の圧力が高まり続ければ、壊れる恐れがある。回避策は内部の水蒸気を外へ排気(ベント)し、圧力を下げることだった。放射性物質が飛散する可能性は高いが、首相らは「やむを得ない」と容認した。
枝野官房長官は午前3時すぎに会見し、ベントの実施に言及。同時に首相の原発視察を発表した。視察までにベントが終わっているかどうかを尋ねられた枝野氏は「東京電力が最終調整しており、そんなに遠くない時間に措置する」。
午前6時になっても官邸に開始の連絡はなかった。東電をせかすと「ベントのための電源が切れている」「手動でやろうにも放射線量が高く現場に入れない」との答えだったという。
午前7時すぎ、首相は見切りをつけて自衛隊ヘリで福島第一原発に到着。迎えのマイクロバスで、隣に座った東電の武藤栄副社長に声を荒らげた。「なんでベントを早くやらないんだ」
武藤副社長の返答は要領を得ず、首相の怒りは非常災害対策本部が入る免震重要棟の会議室に移ってもやまなかった。机をたたきながら「私が何でここに来たのかわかっているのか」。
首相は福島第一原発の吉田昌郎所長から「きちんとやります」という言質を得て納得した。その後、官邸は吉田所長らと直接連絡をとるようになり、東電本店との距離は開いていった。
東電がベント作業に着手したのは、首相が福島第一原発を離れた1時間後の午前9時すぎ。実際に弁の開放作業が始まったのは午前10時すぎだった。1号機の格納容器内部の圧力は下がり始め、ベントは成功したかにみえた。しかし、午後3時36分に1号機で水素爆発が起こり、原子炉建屋の上部が吹き飛んだ。
福島県の佐藤雄平知事は13日夜の県災害対策本部会議で東電社員に怒りをぶちまけた。「電力業界全体の問題だからな。しっかりお願いしたい。命がけで」
ベントは結局、誰が、いつ判断したのか。
4月9日の東電本店での会見で、武藤副社長は「大変な状況の中、様々な動作が必要だった。これからだ」と明確な回答を避けた。「初動のミス」を指摘する野党は、今後もこの問題を国会で検証、追及していく構えだ。
●「撤退などあり得ない」 3・15 統合本部設置
福島第一原発近くの指揮所「オフサイトセンター」では14日夜、2号機の異常を知らせる連絡が入った。
18時22分「燃料棒が露出した可能性」
20時22分「炉心が溶融する可能性」
22時22分「原子炉格納容器損傷の可能性」
同じころ、官邸には、東電側の「福島第一原発から社員を撤退させたい」との意向が出ていることが伝わり、菅首相が大声を上げていた。「東電は電力会社の役割を投げ出すつもりか。社長を呼べ」
15日午前3時半、首相は一部閣僚や官邸スタッフを緊急招集し、「俺が東電に乗り込んだ方がいいのかどうか」。出席者から「法的な担保を取らなければいけない」との意見が出たが、枝野官房長官が「法律のことなんてどうでもいい。ここは乗り込むべきだ」と引き取り、事故対策統合本部設置が決まった。場所は東電本店とした。強引に足場を作ることにしたのだった。
ほどなく首相は東電の清水正孝社長と向き合った。
首相「どうされるつもりですか」
清水氏「福島は全力で守ります」
首相「政府と東電の統合本部を作りますよ。いいですね」
清水氏「結構です」
清水氏は「撤退」という言葉を漏らさなかったが、首相は午前5時半すぎに東京・内幸町の東電本店に乗り込み、会議室で居並ぶ幹部を前に大声を出した。
「撤退などあり得ない。覚悟を決めてください。撤退した時には、東電は100%潰れます」
滞在は約3時間に及んだ。別室に移った際、椅子に座ったまま居眠りをしていた。震災発生以来、公邸に帰らず官邸で過ごし、ほぼ徹夜の日々が続いていた。
このころ、首相は「俺に情報を集めろ。俺が判断する」「俺が直接連絡する」と、仕事を抱え込むようになっていた。これが、「情報はまず官邸に上げてからでないと他に出せない」(経済官庁幹部)状況につながり、省庁間の連携に影響を与えた可能性がある。
東電で寝入る首相を同行スタッフは見守ることにし、午前8時半過ぎになって首相らは官邸に戻った。
その間、福島第一原発の2号機では異音と白煙が発生し、圧力抑制室に損傷の疑いが出始めていた。
【写真説明】
3号機で水素爆発があった後、人工衛星で撮影された1~4号機=3月14日、米デジタルグローブ社提供
【図】
ドキュメント 3月11日~12日
(3面に続く)
「まずヘリでやってほしい」 3・16放水を決断 検証・福島第一原発事故
(2面から続く)
●「まずヘリでやってほしい」 3・16 放水を決断
福島第一原発では14日午前、3号機の原子炉建屋の上部が水素爆発で吹き飛んだ。翌15日には2号機の圧力抑制室で爆発音が響き、4号機も火災で原子炉建屋が損壊。3、4号機では使用済み燃料の保管プールも白煙をあげ、大量の放射性物質の放出が続いていた。
15日、防衛省。北沢俊美防衛相ら幹部が東電関係者の意見も踏まえ、自衛隊ヘリコプターによる放水作戦の是非を話し合った。
「放水による水蒸気のあがり具合で燃料保管プールに水が残っているかどうかも推定できる」「ただ、燃料プールが空に近いと、急な放水で水蒸気爆発を起こすのではないか」
賛否入り交じる中、大勢は「決行」に流れていた。ただ、北沢氏らにはためらいもあった。米国側から「上空からの放水は非効率」との指摘もあった。
背中を押したのは首相のひと言だった。16日昼すぎ、首相官邸を訪ねた北沢氏に首相は「まず自衛隊のヘリでやってほしい」。北沢氏も決意を固め、2人は「やるなら早い段階で」と確認した。
午後4時、水嚢(すいのう)をぶら下げた陸上自衛隊のヘリコプターが原発に接近した。しかし、予想以上に強い放射線に阻まれ、水の投下を断念。翌17日午前には3号機上空での滞在時間を約40分と決め、2機のヘリが計30トンの水を投下した。
17日午後7時過ぎには警視庁第1機動隊の高圧放水車が地上放水の先陣を切った。3号機に約10分間で44トンの水を放ち、自衛隊の消防車5台も加わった。
17日夜、首相は石原慎太郎東京都知事に東京消防庁の派遣を要請した。同庁は実はその前日の16日、出動を想定した放水訓練をひそかに東京・荒川の河川敷で実施していた。隊員を被曝(ひばく)から守り、最小限の時間と人員で活動する方法を検討するためだった。
18日午前3時20分、同庁の消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)を中心とする30隊、139人が東京を発った。原則40歳以上、任務を承諾した隊員だけで構成。3号機の放水は計13時間半にわたり、2400トン以上の海水をかけ続けた。
19日夜、帰京した部隊幹部3人が東京消防庁内で記者会見した。冨岡豊彦・ハイパーレスキュー隊長は「みんな一生懸命やってくれた。残された家族ですね。本当に申し訳ない。この場を借りておわびとお礼を申し上げたい」。涙を浮かべ、言葉を絞り出した。
●「これは形式的な会談ではない」 3・17 日米連携強化
「これは形式的な会談ではない」
17日午前10時すぎに行われた日米首脳の電話会談の冒頭、オバマ米大統領は菅首相にこう切り出したとされる。さらに、「原子力の専門家派遣や中長期の復興も含め、あらゆる支援を行う用意がある」と語った。12日未明の首脳電話会談は「お見舞い、お悔やみがあったが、具体的な支援の中身はない」(松本剛明外相)というだけに、大統領が踏み込んできたのは確かだった。
首相は当初、知人にこんな考えを漏らしていた。「困ったら米国任せでいいのか。日本の危機にはまず日本人が立ち向かい、それから米国に頼む」
原発事故当初、米側の支援申し出に日本政府高官は「最初から外国に頼るということにはならない」との姿勢で臨んだことを認め、「それが『断った』と受け取られたかもしれない」。原子力安全・保安院、東電と米原子力規制委員会(NRC)が会合を開いた際、東電側が「ここは情報交換の場」と、十分情報を出さなかったため、米側が激怒したこともあった。
こんな状況に米側は懸念を強めた。NRCの幹部が17日に北沢防衛相を訪ね、こう伝えた。「4号機の使用済み核燃料プールが空になっている。早く注水した方がいい」。無人偵察機グローバルホークで上空から撮影した映像をもとにした指摘だった。翌18日、ルース駐日大使も東京都内のホテルで首相に近い議員と会談。「我々には深刻な情報がシェアされていない」と訴えた。
19日夜、首相はルース氏を官邸に招き、「国際社会には引き続き情報を隠すことなく共有したい」と伝え、20日には側近議員に「日米協議の枠組みをつくってほしい」と指示。21日から米側は米軍やNRC、在日米大使館、日本側は官邸スタッフや原子力安全・保安院、東電、両国の原発関係者らの「福島第一原発事故の対応に関する日米協議」が本格始動した。
首相は4月1日の記者会見で、国際協調に軸足を移したのではないかと問われた際、強い口調でこう反論した。「米国からは非常に早い段階から色々な提案をいただき、私の受け止めでは、必要なものはほぼすべてお願いするという姿勢で臨んできた」
◆汚染水くみ上げ、きょうにも開始
福島第一原発の1~3号機では、いまなお原子炉圧力容器内の核燃料が熱を出し続けている。地震で外部電源が失われ、原子炉を安定的に冷やすシステムが動かなくなっている。
1号機では特に、圧力容器内の温度が高めで不安定な状況にある。外から注水して冷却を続けているが、その影響で水素爆発が起きて格納容器が損傷しないように、東電は7日未明から窒素ガスの注入を続けている。2、3号機でも窒素注入が検討されている。
東電は冷却システムの復旧を目指しているが、高濃度の放射能汚染水が1~3号機のタービン建屋の地下などにたまり、作業を阻んでいる。2号機では、汚染水の収容先を確保するために、復水器を空ける作業が9日完了した。10日にも、汚染水のくみ上げを始める。
4号機は地震時に定期検査中で、原子炉には燃料は入っていないが、使用済み核燃料のプール内の燃料が損傷した疑いがあり、真水の放水作業が続けられている。
やはり定期検査中だった5、6号機は冷却システムが動いており、3月20日に原子炉の温度が100度未満の「冷温停止」にこぎつけ、安全な状態になっている。
【写真説明】
自衛隊は消防車を使って3号機の使用済み燃料プールに放水した=3月18日、陸上自衛隊提供
【図】
ドキュメント 3月13日~
福島第一原発の状況(9日夕まで)
■特集――原発危機想定超す、3月12日7時11分、弁開放まだ始まらない。
2011/04/08 日本経済新聞 朝刊
東電対応に不信強まる
自衛隊のヘリに乗った首相が福島第1原発に着いた。マイクロバスから敷地内を巡回視察後、非常災害対策本部が入る免震重要棟に入る。建物内の廊下には疲れ切った職員の多くが毛布にくるまってへたり込んでいた。胸に簡易な線量計をつけた首相はその中をすり抜けるように会議室に入っていく。
出発前の午前6時8分。首相官邸3階のエントランスホールに防災服と防災靴で現れた菅は記者団に言った。「現地責任者ときちっと話して状況を確認したい」
現地は緊迫の度を増していた。原子力安全・保安院長の寺坂信昭と東電は記者会見で、福島第1原発の正門付近の放射線量が通常時の8倍に、1号機の中央制御室では通常の1千倍に達したことを明らかにした。「原子炉建屋の中でなんらかの損傷があり、放射性物質が漏れている可能性がある」。寺坂は震災で放射性物質が漏れ出たことを初めて認めた。
弁の開放はまだ始まっていなかった。「いつになったらやるんだよ!」と迫る菅。「もうじきやります。なんとか始めます」と答える東電副社長の武藤栄。
「ずっと、そればかり言っているじゃないか!」。菅はさらに激高する。同行した一人は「東電は自ら安全神話を壊すのをためらっているのではないか」とつぶやいた。
現地視察に同行したのは原子力安全委員長の班目春樹、首相補佐官の寺田学、SPや医務官ら総勢10人。最小限の規模にしたのは「大名行列ではだめだ」という菅の指示だ。それでも震災翌日の視察が妥当だったかどうか。「弁の開放など危機対応に東電を専念させるべきだった」との指摘が絶えない。野党は3月29日の参院予算委員会で「政治的パフォーマンスをしたかったのではないか」「現場の邪魔をした」などと批判を浴びせた。
東電社員が弁を開放する作業に向かったのは、菅が福島第1原発を離れた1時間後の午前9時4分。午前10時17分には弁の開放作業が始まった。経産相、海江田万里の発表からは実に7時間かかった。東電が格納容器の圧力降下を確認したのは、さらにこの4時間後の午後2時30分ごろだ。
「吉田所長の話で初めて状況が理解できた」。視察後に菅が謝意を示したのは、副社長の武藤ではなく、現場を指揮していた福島第1原発所長の吉田昌郎だった。首相官邸と東電幹部の間に生じた溝は誰の目にも隠しきれなくなっていた。
「排気の遅れ、水素爆発招いた」 米紙が原発事故分析
2011年4月23日21時20分
http://www.asahi.com/international/update/0423/TKY201104230312.html
23日付の米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)は、福島第一原子力発電所の事故について、放射性物質の外部放出を懸念し、東京電力が格納容器内のガスの排出をためらったことで水素爆発を招いたとする分析記事を掲載した。
同紙は、同原発1号機は地震・津波の発生から半日たった3月12日午前2時半に格納容器内の圧力が2倍に達し、東電は排気を決めたとしている。
しかし、準備などに手間取り、実際に排気できたのは同日午後。その約1時間後に水素爆発が起きて原子炉建屋が破壊された。これに伴う炉心の損傷はなかったが、「壁」の一つが失われたことでその後の大量の放射性物質の放出につながったほか、炉の冷却のための作業を妨げる原因にもなった。
同紙によると、日米の専門家は排気の遅れで水素爆発が起きやすい条件ができたと考えている。放射性物質と水素を含む格納容器内のガスは、排気専用のパイプを経由して建屋の外にある排気塔に導かれるが、圧力が2倍になるまで待ったため、パイプの継ぎ目などからガスが漏れやすくなり、建屋内に充満した可能性があるという。
専門家は「放射性物質の放出を心配するあまり排気に慎重になったことが、事態を悪化させたようだ」とみている。水素爆発の防止を重視する米国は、格納容器内の圧力が耐圧の上限に達する前でも早めに排気を行うことにしており、同様の方針は韓国や台湾でも採用されていると指摘している。
米国では、1979年のスリーマイル島原発事故で作業員の判断ですばやく排気が行われ、原子力規制委員会(NRC)が追認したが、日本では排気は「最後の手段」として、電力会社のトップや政府の判断を待ってから行う体制。記事はこうした考え方の違いも排気の遅れにつながった可能性を指摘した。(パナマ市=勝田敏彦)
福島第1原発、慎重な対応があだに=日米専門家
2011年 4月 23日 10:21 JST
http://jp.wsj.com/Japan/node_226938
【東京】福島第1原子力発電所の事故では、原子炉1号機の圧力が設計圧の2倍に達していたにもかかわらず蒸気放出が遅れたことが、状況の悪化につながった可能性がある。
ウォール・ストリート・ジャーナルの調査で、放射性物質の大気放出に関して日本の原発運営会社が米企業よりもずっと慎重であり、そのため原子炉の過熱でたまった蒸気の放出(ベント)に踏み切るまでに長い手続きと多くの承認が必要とされることがわかった。
こうした方針が初めて実際に試されたのは、先月11日の地震と津波で同原発が打撃を受けた数時間後だ。12日未明には1号機で事態が深刻化しつつあった。
同日午前2時半には、格納容器の内部圧力が設計圧の2倍に達していた。対応の遅れや技術的な問題から、この格納容器からパイプ経由で放射性物質を含む水蒸気の放出を完了するまでにさらに12時間を要した。
約1時間後、建屋が爆発した。日米当局によると、この爆発で放射性物質が原発の外に拡散したという。
日米の専門家は、ベントの遅れが爆発につながった状況の一因となった可能性があるとみている。圧力があまりに高くなったために、通気装置のガスケットなどが損壊し、そこから炉心の水素が建屋にもれたシナリオも考えられるという。専門家らは、事故を悪化させた要因が、深刻な放射能汚染を恐れるが故のベントに対する日本の慎重なアプローチだったと語った。
APRIL 23, 2011
Reactor Team Let Pressure Soar
Venting is a last resort.
The plant operator said of a decision to release possibly radioactive steam.
http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703922504576273234110896182.html?mod=WSJ_hp_us_mostpop_read
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