「韓国併合」100年市民ネットワーク
HOME

感想
「韓国『併合』100年写真展・第2回総会記念講演会

 共同代表の一人の増田都子です。
 10月10日(土)、龍谷大学大宮学舎で行われた「韓国『併合』100年、写真展」と第2回総会、記念講演会に参加しました。

<写真展>
 写真展の写真については、『 [聯合ニュース  日本の市民団体 「韓日合併100年」展示会』や、京都新聞の記事で、よく分かると思います。本当に『百聞は一見に如かず』!ですね。

 江華島条約をおしつけた日本軍艦『雲揚号』の写真から始まって、全部で104枚(だったと思います)の写真により、日本の朝鮮(韓国)侵略と差別、抵抗と戦いが一目瞭然に並んでいました。

 東学農民戦争・・・錦絵の「東学党猖獗(しょうけつ)図」は初めて見ました。日本軍による農民虐殺の様子が錦絵になっていたのですね。「猖獗」・・・たけくあらあらしいこと、わるいものの勢いの盛んなこと(広辞苑)・・・を極めたのは、日本軍であることが「絵」になっています。「農民軍指導者、全奉準逮捕」の写真は教科書などにも載っていますけど、全奉準の眼光の鋭さにたじろぎます。

 とても一枚一枚の写真の説明はできません。「植民地化の歴史過程」「植民地支配の実態と解放闘争」「戦後在日の差別状況」「植民地支配・朝鮮人支配に抵抗した日本人」の4部構成の写真は、ぜひ、集会などのイベントと結び付けて全国で見てほしい、と思いました! 

 欲を言えば、A3の大きさなので、もう少し大きなパネルにすれば、もっと見やすくなるかな・・・また、1冊の写真集にして全国で販売するのもいいのではないでしょうか?

<李泰鎮先生の講演>
 さて、李泰鎮(イ・テジン)ソウル大学名誉教授は、パワーポイントを用いて、条約原本などの写真や表を豊富に示しながら、説明してくださったので、たいへん分かりやすかったです。

 「1905年の第二次日韓協約(乙巳保護条約)は、そもそも国家主権を委譲するような重要な『条約』なのに、国家元首(主権者)である高宗の批准がないため、『条約』の要件を備えておらず、『条約として成立していない』こと、同じく1910年の『併合条約』についてもその純宗皇帝詔勅にはこれ以外の詔勅にはある皇帝自筆署名も国璽もないこと等、大きな説得力がありました。

 日本では高名な学者の方が「1905年の第二次日韓協約(乙巳保護条約)は、国家元首の批准を必要としない『略式条約』だから、不当だけれども合法である」と『略式条約』という概念を持ち出されます。これについては、1876年の日朝修好条規から1886年の漢城条約までは、日本・韓国とも批准がきちんとなされている「正式な条約」であること・・・特に漢城条約などは内容からは略式条約でも良かったのに、むしろ日本側が熱心だったこと、そして1904年の日韓議定書からは、同年第一次協約、05年第二次協約、07年第3次協約(内政権剥奪)は、日韓ともに批准がなく、1910年の『併合条約』は、韓国の批准がない『略式条約』であることを表にして示されました。

 1886年と1904年の間には何があったのか? 日清戦争ですね! 日本が日清戦争で勝利するまでは、朝鮮政府に対する清の影響力を退けるために「きちんとした条約である」という形を整える!?ことが絶対に必要だったのです。しかし、日清戦争に勝利し、日露戦争中、そして日露戦後は、もう、どこまでも!?軍隊による暴力によって強要し、しかし、主権者である韓国皇帝はそれを認めた=批准したことはない、というその事実を隠蔽して、さも、「きちんとした条約」であるかのように英語名称を操作して発表し、同じ植民地支配の欧米帝国主義諸国に認めさせたわけです。

 高宗皇帝は1906年1月29日作成の国書、1906年6月22日特別委員にアメリカ人のハルバートを任命し渡した親書、1906年6月22日にフランス大統領に送った親書、1907年4月20日ヘイグ特使・李相?に与えた委任状などで公に「05年第二次日韓協約(乙巳保護条約)は無効である」と宣言しているのですね・・・

 こういう歴史の事実経過を無視して、どうして「韓国併合にいたる全ての条約は当時は有効・合法だった」といえるでしょうか? 当時の「万国公法」に照らしてさえ、このような国家元首(主権者)の承認=批准のない「条約」は「条約」として成立していないことは明らかでしょう。

 以前、李泰鎮先生の著作の『東大生に語った韓国史』(明石書店)を読んで、なんとなくいわゆる『学者』タイプ!?の方で下手な質問をすれば怒られそう・・・というイメージを持っていたのですが、実際は、とても気さくでウィットに富んだお話をなさる本当にジェントルマン!?の方でした。やっぱり、「事実=実物」を見ることは重要ですね!


<中塚明先生の講演>
 「日本はなぜ『韓国併合』を正当化し過去を清算しないのか」、それは「(1)①日本による朝鮮支配を伝統的にアメリカが容認、②日本の対米従属→日本政府の責任回避と日本市民の能天気、(2)日米の朝鮮問題対応は一枚岩ではない。どんな違いがあるのか? 日本の市民が、韓国・朝鮮との過去をきちんと清算するには、何を考えなければならないのか」と、非常に明快な問題提起が投げかけられて、中塚先生の講演は始まりました。

 日露戦争当時のルーズベルト大統領の対日政策や伊藤博文の意見書を分析し、それが非常に切迫感に満ちているのは「伊藤が朝鮮民衆の激しい抵抗と戦いが欧米人ジャーナリストによって世界に報道され、列国の対日批判を誘発することを非常に恐れていたのではないか」「朝鮮の抗日運動は、いくら武力で鎮圧されても、次には前の規模を上回って再び起こっている」・・・なるほど・・・

 そして、結論は
「過去の日本とアメリカの朝鮮政策には、ともに大義はないが、現在、アメリカの対韓国・朝鮮に対する対応は日本と違い柔軟である。アメリカは韓国の自主的外交政策によって大きな影響を受けているし、たとえば閔妃暗殺事件でも当時の駐朝鮮公使アレンの対日批判報告書など、正確な事件記録を持っている。それに対して日本は同事件などでもニセ情報しか持っていない状態であり、現在の韓国・朝鮮問題をめぐる外交は、アメリカなどの柔軟な対応についていけず、もっぱら足を引っ張るだけになりかねない。日本政府が事実にもとづいた歴史認識に立つためには日本の市民一人ひとりが声を大きくする必要がある」


<戸塚悦郎先生の李泰鎮先生講演へのコメント>
 「1963年の国連国際法委員会報告書では、4つの条約を『無効』としましたが、その中に1905年の第二次日韓協約(乙巳保条約)は『絶対的に無効』と書かれていました。そして、同年11月18日の国連総会では、決議1902を採択して『これに留意し(take note)し・・・特に条約起草に関する仕事に感謝の念を表した』となっています。

 ところが、1966年の同委員会報告書では、同じ4つの『無効』とされた条約のうち、ナチスが結んだ条約だけは『無効』となっていますが、第二次日韓協約などの3つは消えてしまいました。同委員会にドイツ人の委員はいませんでした。」 ??? 不思議ですね!

 戸塚先生は実際にハーグに行かれて、1907年のハーグ密使事件で殺されたとも病死とも言われているイ・ジュンギ記念館(当時、密使たちが泊まったホテル)に、行かれて、当時の文書原本を探し出されたそうです。その当時のオランダ外交官によるメモには、第二次日韓協約について「高宗皇帝の署名があり、批准がなされた」と明確に書かれているそうです。不思議! ですね。戸塚先生の推理では「実際には高宗皇帝の署名も批准もなかったのに、なぜこのような誤信が生まれたか? 日本政府が高宗皇帝の署名批准があったかのような言動を繰り返したからではないか?」・・・

 しかし、この「メモ」は、「正式条約には批准が必要」ということを「裏付ける有力な証拠の原本」ではないか・・・ということです。

1