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学問は歴史に極まり候事に候

 投稿者:実存主義者  投稿日:2011年 5月 7日(土)23時49分48秒 24.154.150.220.ap.yournet.ne.jp
返信・引用
  ★小林秀雄の随筆、「徂徠」を読み返してみた。「見聞広く、事実に行き渡り候を、学問と申事に候故、学問は歴史に極まり候事に候」という徂徠の言葉を受けて、(ヒューマニズムに立脚した理性中心主義を退ける目的で誕生した)ヨーロッパ伝来の保守思想を日本史的文脈に位置付けて再考してみたい。

日本的な意味で言う、「保守的である」とはどういうことかといえば、歴史という連続した河の上流(過去)より流れきたった伝統(慣習という器に内蔵する歴史の英知)を、日常的に使用した後、その本質をなるべく変えずに下流(次世代)へと伝承していこうとする精神を有すことである。

地縁、血縁、社縁などによって有機的に繋がった感情共有体としての共同体には、今日の近代主義的な合理主義からみれば、矛盾や偏見といった悪習と思われる不合理も含まれてはいるが、そうした不合理と良習は不可分なものであって、混沌より秩序を、新奇さより無難を好むのが保守であるなら、その偏見すらをも楽しんでみようじゃないかと構えるのが「保守的な暮らし」というものだ。不完全でしかない人間に完全な社会など永遠に構築できないんだな。

歴史とは小林秀雄も言うように、過去・現在・未来と、遠近法に従って並んでいるものではなく、過去・現在・未来があるということは、空間に三次元があるようなものだ。その三次元すべてに共通する感覚としてあるものが、伝統というものだろう。俗論は、「常識や伝統という物差しは、時代の移り変りと共に変化するものだ」などとさかしらに言うが、こうした物言いは、時代の流行におのれの精神を無自覚にせよ迎合させているという自覚症状がまるでない者の物言いだな。伝統とは「運ばれ来たりしもの」の謂いであり、時代の移り変りに影響されないスタビリティーなものだから伝統と言うのですよ。

こうした普遍性を帯びた共通の感覚は、欧米メディアも賛辞を贈っていたが、この度東北を襲った大震災を郷土の「宿命」と引き受けた被災者の方々にも、その血脈は連綿と受け継がれている。こうした感覚は庶民の日常生活において、何ら「謀らい」もなく自生的に醸成されてきたものであって思想(体系化を必要とする学問)の問題ではない。

維新後、必要に駆られて取り入れた西洋文明を物質的な模倣にとどめ、精神文化の西洋化をかろうじて押さえ込んできたのもこの村落共同体という、我が国独特のある種疑似的な家観念だった。日本史的な意味でいう「保守的精神」とは、そうしたプラクティカルな経験に堆積した生活常識のことだ。たかが一回の敗戦などでびくともするものではない。しかし敗戦によってアメリカから持ち込まれた自由主義の帰結としての相対主義、その相対主義に基づいて意思決定が為されていく戦後民主主義(近代主義の中心にあるものとしての)を排撃するにはどうしてもこれだけじゃ足りないんだな。そこでバークやトクヴィルらが提唱した保守「思想」という学問が必要となってくるのだが、こうした議論の重要性を説く知識人は、西部邁らごく一部を除き非常に少ない。

西洋合理主義でいう「合理」と、朱子学でいう「窮理」とは意味がまるで違う。前者はテクノクラート的な論理主義で、後者は道理・真理主義といったところだ。宋学(朱子学)にかぶれた者は「漢意(からごころ)」で物を観るようになる。農民だろうと商人だろうと誰しもが聖人であらねばならないと、民を啓蒙
しようとする。ここではSHO氏にその病の軽い症状が観られるが、本人に罪はない。悪いのは「漢意」という病気のせいなんだ。何度も言うようだが、ロジックだけでも、思念(おもい)だけでも偏りというのは駄目なのですよ。

二度にわたる元寇を退け、仇敵清国、ロシアを撃ち払い、敗れたと雖も宿敵アメリカに一矢報いた歴史に観るように、伝統とは歴史的当然からやってくる。我が国の伝統を一言でいうなら適応の素早さにある。幕末の尊皇攘夷は思想的には正しかった。思想的には正しかったが欧米列強の近代文明と比べた場合、そのスピリチュアルな思想には実践的な合理性が致命的に欠如していた。そこで便宜的に欧米の科学文明を模倣し、独立という目的のための一手段として西洋の科学文明を取り入れようとする大国隆正の大攘夷論などが出てくる。必要に駆られて臨機応変に対応しようとするこうした精神と、無思想に「実体主義」へと流されていく精神はまるで違う。一国の独立という大事にあって「核」だけは例外という道理はない。「熱ものに懲りて鱠を吹く」が如く、たかだか一回戦争に負けたぐらいで「アメリカの腰巾着で居たほうが都合がいい」と言ってるような戦後の合理主義とこれらを同列視するわけにはいかないな。

真の意味での手段や術とは道徳とか倫理を超えた、宣長のいう「ただ物にゆく道」のことである。小林秀雄が「考えるという事」で面白いことを書いているのでそこを引用してみよう。

小林:彼(徂徠)の「弁名」によると、学問で貴ぶべきものは先ず「思」とか「思惟」とかの働きであるが、「思」とともに「謀」という働きを持たねば、学者としては駄目だ、と考えている。「思」とは主として心に関して言われる言葉だが、「謀」とは、人の為に謀る、人に就いて謀るというように、主として営為、処置、術を指す言葉だ。「思」が精しくなり、委曲を尽くせば、「慮」となり、「慮」を以て事に処せば、必ず「謀」となる。これは一貫した人間の働きであって、学者が、これを、ばらばらにしてよい訳はない。なるほど、これは全く常識に適った見解である。宣長も徂徠も、この常識的見解を取って動かなかった思想家で、二人の眼には、当時の学問の大勢が、空漠たる物知りの多弁と映じていた。何故そうなるのか、何故、学問が、生活常識から浮き上がって形式化し、「物知りたち」の業となるのか、学者が、その根底的な考え方のうちに、生活常識への侮蔑を秘めており、これに気が付いていないからである。

★今気付いたのだが、私の言う「実体(伝統の入れ物としての慣習)の護持」とは、「生活常識の護持」のことだったんだな。小林は続けてこうも言う。

小林:宣長の言う「物」には、勿論、精神に対する物質というような面倒な意味合いはないので、あの名高い「物のあはれ」の「物」である(略)宣長には、考えるという事は、情理ともに尽くして、物を対(むか)えるという事であったし、徂徠にも、「思謀慮」とは、「審問」に始まり、「営為」に終る一貫した動きであった。これは、考え事は、まずはっきりした物が無ければ適わぬ。物が無くても独り歩きする知性を批判できないような知性は何物でもないという確信の下に学問したという事である。

★宣長にしても徂徠にしても単なる朱子学的な道徳至上主義でないことはもはや明らかだ。「情理共に尽くす」バランス感覚が必要ということだ。SHOさんにはこのバランス感覚が致命的に欠落している。

徂徠は「書を読んで、理を求める」とか「書を読んで、理を講ずる」道を「学問の邪道である」とひどく嫌った。凡そ学問は、歴史に極まるのであって、理に窮まるのではないと。江戸期の朱子学者には立派な学者も多かったのだろうが、林羅山にみるように余りにも厳格な宋儒は過酷な年貢を民に課す幕藩体制を正当化する御用学問に利用されてきた。また近代ヨーロッパにおいて民衆は自由を妨げる伝統的権威を退ける目的で形而上学(宗教的自然権)を持ち出した。ヒエラルキーの上位者である王や貴族に優位する確かな根拠を持たない第三身分(大衆)が封建的支配から逃れるには、人権という歴史的根拠のない宗教的自然権を持ち出す以外に方法がなかったからだ。その一方で、支那宋学の儒学者どもは口を開けばやれ道徳だの真理だの天理だのと日がな窮理を叫び立て、万人が窮理を極めれば理想の社会が構築できるなどと言っている。しかし聖人なんて誰しもが簡単になれるもんじゃない。限られたごく一部の者だけが聖人になれるんだ。

徂徠は、「理は定準無きもの」だということをしきりに言ったそうだが、なるほど言われてみればその通りだろう。物の理、つまり人間のどういう行いが窮理かなどということはその者の置かれた立場や物の観方によって様々だろうから理に定準などあるはずがないし、仮にあったとしても理を究めるなど聖人でもないたかだかの凡人にできるはずがない。もともと成らぬ事を成そうとするようなものは学問とは言わないと徂徠は言う。こうした朱子学の傲慢さを徂徠は徹底的に嫌ったんだな。生活経験に基づかないものなど真理とは言えない。歴史感覚とは人間的経験によって育まれるんだと。人間的経験(生活経験)のない空想的な理想に対しては、常識は嘲笑を投げ付けて一向に構わないんだな。情理(感情と理性)共に尽くす。保守思想にはこれが大事なんだ。つまり、SHO氏のように道理や真理ばかりに拘る朱子学的な「窮理」というのは駄目とまでは言いませんがそれは「やまとごころ」じゃないのですよ。
 

Re: (無題)

 投稿者:SHO  投稿日:2011年 5月 7日(土)22時18分28秒 flets-210-167-82-156.harenet.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.3501[元記事へ]

ROM5年と8ヵ月殿

はじめまして。
貴殿が何を感想にもたれようと御自由ですが、何か勘違いをなさっておいでのご様子なので一言。
もともと、“寄らざれば斬らず”を誓いたる御仁が何ゆえ誓いを破って太刀を浴びせてきたかといえば、その名を呼ばれたからに他なりません。

もっとも、小生が呼んだ名は“保守を自認し、特攻精神を賛美しながら、今ある実体に執着し、死を拒む人々”です。要するに、獣の論理に脳髄を支配されたる面々を煽ってみたまでの話。

愚論に共感、あるいはこれを理解するなら、それを以って“得手勝手な講釈”などと評するはずもなく、呼ばれた名に返事をすることもない。
つまりは、特攻精神云々に関する難癖は瑣末な問題で、反核武装、反原発の主張にこそ異論があるに違いないというのが、小生の認識。

さすれば、そちらの主張に対して正々堂々、異論を唱えてくるなら、正面からお相手もいたそうというものの、国語の素養がどうの、辞書にあるだのないだのと、問題の本質から逸脱して個人の感想ばかりを述べ立てられたのでは、まともに取り合う気の起こる道理もあろうはずがない。ゆえに、イタチの最後っ屁が思わずとび出したという次第(笑)。

そもそも、大義なき小競り合いには興味がなく、あくまで敵は内なる獣の論理。
ちなみに、人様のやりとりに横からクチを挟むのはフェアじゃないというのが、小生の思う伝統精神。おっと、これも醜悪なる表現の一つかな(笑)。恐い恐い。
何せ理系のはしくれ、国語の素養がないもので、平にご容赦。

追伸:大きなお世話には違いありませんが、“ROM5年と8ヵ月”なんてHNじゃなく、“通りすがり”でよろしいのでは?
何にせよ、人様の吐瀉物を拾い上げ、これを品定めするのは良い趣味とはいえません。
ゲロは誰がどう見たってゲロなんですから(笑)。
 

(無題)

 投稿者:ROM5年と8ヵ月  投稿日:2011年 5月 7日(土)18時17分52秒 agrestic.vectro.com
返信・引用
  皆さん はじめまして
某衛星放送局の掲示板のころからのROMです。
よろしくお願いします

いきなりで恐縮ですけど、こういうやり方ってここではアリなんですかね。
-------------------------------------
<雑感>
投稿者:SHO  投稿日:2011年 5月 7日(土)08時59分3秒
ONI-202-70-244-89.oninet.ne.jp

その昔、幼子に尾を踏まれた犬がいた。
踏んだ幼子に悪気はなかったが、尾を踏まれた犬は幼子に復讐を誓い、終生、これを赦すことはなかった。
幼子がコトバを話すようになって話しかけ、悪気はなかったと釈明してみせたところで、所詮は吠えるだけの犬にヒトの気持ちが届くはずもない。
それは話す国語が拙いからではあり得まい。

電脳空間では、時折、格調高い感想文を目にすることがある。
しかしながら、感想に感想を重ねて論理を装ってみせただけの文には、そこに些かの理も見出すことはできぬ。
議論板にあっては、論理を伴わぬ感想文など、酔っ払いの吐瀉物にも等しい場合がある。
吐瀉物ゆえに、吐き掛けられれば、ただ洗い流すより他、応じる手立てはない。

無論、雑感ゆえに、本文も吐瀉物の類。
吐瀉物の腐臭にもよおしたがゆえの吐瀉物。
賢明なる方々にあっては、どうぞ捨て置かれていただきたい。

-------------------------------------
完膚なきまでに叩きのめされ、グーの音も出ない悔しさはわかります。
それでもまだ言いたい事があるんなら、何回でも正面からぶつかればいいではありませんか。。
自分だけを高みにおいた独りよがりの恨み節、この卑怯で姑息なやり口、イタチの最後っ屁の悪臭に目まいがしそうです。
この掲示板の趣意『物事の判断基準を時効の成立した「伝統」に依拠しようではないか』とは真逆のやり口だと自分は思います。

 

<浜岡原発に停止要請>

 投稿者:SHO  投稿日:2011年 5月 7日(土)12時56分11秒 ONI-202-70-244-89.oninet.ne.jp
返信・引用
  ネット・ニュースより
<引用開始>
浜岡原発:菅首相の緊急会見要旨

 ◇菅直人首相の6日夜の記者会見要旨は次の通り。
 首相として海江田万里経済産業相を通じ、浜岡原発のすべての原子炉の運転停止を中部電力に要請した。国民の安全と安心を考えた結果の判断だ。浜岡原発で重大な事故が発生した場合に、日本社会全体に及ぶ甚大な影響も考慮した。
 文部科学省地震調査研究推進本部の評価では、これから30年以内に浜岡原発の所在地域を震源とするマグニチュード(M)8程度の東海地震が発生する可能性は87%と、極めて切迫している。特別な状況を考慮すれば、東海地震に十分耐えられるよう防潮堤の設置など中長期の対策を確実に実施することが必要だ。対策完成まで、定期検査中で停止中の3号機のみならずすべての原子炉を停止すべきだ。
 浜岡原発は活断層の上に立地する危険性が指摘されてきた。先の震災と(東京電力福島第1)原発事故に直面しさまざまな意見を聞き、海江田経産相とともに熟慮を重ねて決定した。
 中部電力管内の電力需給バランスに大きな支障が生じないよう、政府として最大限の対策を講じる。電力不足のリスクは地域住民をはじめ全国民が一層、省電力の工夫をすることで必ず乗り越えられる。国民のご理解とご協力をお願いする。
 (停止は)基本的に要請だ。指示や命令は現在の法制度では決まっていない。(中部電力に)十分に理解いただけるように説得していきたい。
<引用終了>

些か遅すぎた感もある。英断というには判断の甘さも目立つ。
しかしながら、浜岡原発の危険を世間に知らしめた意義は大きい。
 

<雑感>

 投稿者:SHO  投稿日:2011年 5月 7日(土)08時59分3秒 ONI-202-70-244-89.oninet.ne.jp
返信・引用 編集済
  その昔、幼子に尾を踏まれた犬がいた。
踏んだ幼子に悪気はなかったが、尾を踏まれた犬は幼子に復讐を誓い、終生、これを赦すことはなかった。
幼子がコトバを話すようになって話しかけ、悪気はなかったと釈明してみせたところで、所詮は吠えるだけの犬にヒトの気持ちが届くはずもない。
それは話す国語が拙いからではあり得まい。

電脳空間では、時折、格調高い感想文を目にすることがある。
しかしながら、感想に感想を重ねて論理を装ってみせただけの文には、そこに些かの理も見出すことはできぬ。
議論板にあっては、論理を伴わぬ感想文など、酔っ払いの吐瀉物にも等しい場合がある。
吐瀉物ゆえに、吐き掛けられれば、ただ洗い流すより他、応じる手立てはない。

無論、雑感ゆえに、本文も吐瀉物の類。
吐瀉物の腐臭にもよおしたがゆえの吐瀉物。
賢明なる方々にあっては、どうぞ捨て置かれていただきたい。

 

Re: 偶感

 投稿者:SHO  投稿日:2011年 5月 7日(土)08時52分12秒 ONI-202-70-244-89.oninet.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.3497[元記事へ]

蜉蝣様

小生ごときのために、随分と長きにわたって貴重なお時間をさいていただいたようで誠に申し訳ありませんでした。
国語力のなさも傲慢さも自他共に認めるところ(笑)。
何卒、寛大寛容のお心でご容赦願いたいものです。
貴兄のご高説、ご指導はしかと賜りましたので、お返事はここまでとさせていただきます。
ありがとうございました。

 

Re: 偶感

 投稿者:蜉蝣  投稿日:2011年 5月 7日(土)01時05分59秒 ntoska507161.oska.nt.ftth4.ppp.infoweb.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.3496[元記事へ]

  SHOさん

こんばんは

>何をどう話しかけてみても、“喧嘩を売る”としか解釈できぬ読解力を支える国語
>力には到底かなうはずもございません。

きつとお手前なりに、精一杯の揶揄嘲弄を込めたつもりなんでせう。
どこまでも哀しいお方ですね。

>>特攻精神なぞと云ふ醜惡な言葉を捻り出した揚げ句

との拙文に對し

>特攻精神を醜悪と断ずる貴兄の主張に些か興味がわきました。

と返して憚らない・・・

某掲示板の粘着投稿者を彷彿とさせるやうな、その人も無げなる態度と言葉遣ひに、私は「此の方は見當ちがひな喧嘩を賣つてゐる」と感じました。
その氣持を正直に書いた、唯それだけのことです。

冒頭の「何をどう話しかけてみても」なぞと云ふ臺詞は、對手の言葉を的確に理解し、まつたうな國語で返せるやうになつてから、
すなはち、國語を一から學び直し、せめて基本的な國語の素養とお歳相應の表現力と一般常識を身に着けてからお使ひになるべきかと愚考します。

尤も 「疑念を抱く」といふ私の言葉を「嫌疑を掛ける」にすり替へたまま、誤謬を指摘されてから數ヵ月を經るとも、未だ訂正も謝罪もしないで平氣なお方ですから、もはや手後れかも知れませんけれど。


>ではあらためて、特攻精神なる語句の何処に醜悪さが潜んでいると仰せでありまし
>ょうか。

ほら、また(苦笑)

拙稿より再度 原文をお示し致します。

>>特攻精神なぞと云ふ醜惡な言葉を捻り出した揚げ句

私は『特攻精神なる語句に・・・・・・醜悪さが潜んでいる』などと書いてはをりません。

貴方が捻り出した「特攻精神」といふ言葉そのものが醜惡だと書いてゐます。

>>他人樣の言葉を勝手に捩ぢ曲げるのは止めなさい。

もうお忘れですか、先便で申上げたばかりです。
少しくらゐは”學習”なさつては如何?



さて
加減乘除も覺束ないお方に微積分の解法を説明したところで詮なきこととは思ひますが、これも猪喰つた報いと諦念して、最低限の囘答だけはお送りしませう。


そもそも「特攻精神」なんて言葉はまともな國語ではありません。

數多ある國語辭書の何處をどうひつくり返しても、斯樣に醜惡な言葉も用法も見當りません。

つまりは『まともな國語ではない』といふことです。

國語辭書に「特攻精神」なぞといふおぞましき言葉や用法が無いのは、人倫地に墜つる當節と雖も、その編纂者が多少なりとも正氣と先人と國語への畏れを有してゐる證左であると私は捉へます。


靖國の杜に鎭る在りし日の特攻隊員の心情と眞情・・・

祖國、郷土、肉親とすべての寄る邊の爲、延いてはそれが己の誠の爲と信ずるからこそ特攻隊に志願し、選拔され、訓練を受け、出撃から突入の瞬間を迎へるまでのあの方々の心境を些かなりとも慮れるなら(些かなりとも日本人の心を持ち合せるなら)それらを「特攻精神」なぞと云ふ醜惡で愚劣な言葉で括れる譯がありません。
また、手前勝手で陳腐な講釋を滔々と垂れることなど出來やう筈もありません。


「特攻精神」
何度讀んでも醜惡です。

今風に云へば珍走團・・・嘗ての暴走族か、實存主義者さんいふところの「ドサヨク」には如何にも似つかはしい言葉ではあると思ひますが。

以上です。



【附録】
>ご教授いただければ幸いです。

此の數年ネットでよく見掛ける典型的な誤用です。
はつきり申上げますが、これも全うな國語ではありません。
もし弊社の社員がこんな言葉遣ひをしたら、その場で張り倒します。

普通の國語感覺を持つ人間なら、斯樣な場合は「ご教示いただければ幸いです。」と書きます。



SHOさんの一層のご研鑽を切にお祈り申し上げます。


おやすみなさい。

 

Re: 偶感

 投稿者:SHO  投稿日:2011年 5月 6日(金)13時51分44秒 ONI-202-70-244-89.oninet.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.3495[元記事へ]

蜉蝣様

> 見當ちがひな喧嘩を賣る前に、國語を一から學び直されることをお薦めしておきます。

こちらが何をどう話しかけてみても、“喧嘩を売る”としか解釈できぬ読解力を支える国語力には到底かなうはずもございません。
ではあらためて、特攻精神なる語句の何処に醜悪さが潜んでいると仰せでありましょうか。
ご教授いただければ幸いです。
 

Re: 偶感

 投稿者:蜉蝣  投稿日:2011年 5月 6日(金)13時44分46秒 ntoska507161.oska.nt.ftth4.ppp.infoweb.ne.jp
返信・引用
  > No.3494[元記事へ]

  SHOさん

>特攻精神を醜悪と断ずる貴兄の主張

他人樣の言葉を勝手に捩ぢ曲げるのは止めなさい。

貴方が本當に目の玉をお持ちなら、それをひん剥いてもう一度私の投稿をよくお讀みなさい。

>>特攻精神なぞと云ふ醜惡な言葉を捻り出した揚げ句

解りますか、二つの引用の違ひが。


貴方に缺けてゐるのは最も基本的な國語の素養、そして國語に對する畏れだと思ひます。

見當ちがひな喧嘩を賣る前に、國語を一から學び直されることをお薦めしておきます。
 

Re: 偶感

 投稿者:SHO  投稿日:2011年 5月 6日(金)13時09分54秒 ONI-202-70-244-89.oninet.ne.jp
返信・引用
  > No.3493[元記事へ]

蜉蝣様

小生、感想文に応じる議論の作法を知らぬがゆえ、御貴殿のコメントには沈黙いたそうかとも思いましたが、特攻精神を醜悪と断ずる貴兄の主張に些か興味がわきました。
差し支えなければ醜悪の所以をご教授してはもらえぬでしょうか。
無論、小生ごとき不埒者に語ってきかせる講釈などないというなら、それも良しではありますが(笑)。
 

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