西漢武帝対匈奴反撃保衛辺疆作戦後編の附編
李陵 蘇武
さいごに『蘇武に答える書』(李陵答蘇武書)の全文訳 

  

 
 蒙古袍を着た近代蒙古人 手には銃
『中國西域民族服飾研究』


天漢元年(前一〇〇)

2武帝は匈奴単于(きょうどぜんう)の誠意を称賛し、中郎将(宮中護衛局長。光禄勲の下)蘇武に、漢朝に拘留していた匈奴の使者を匈奴に護送するよう命じた。同時に莫大な礼物を持たせて、匈奴単于の善意に答えようとした。蘇武と副使の中郎将張勝および使節団臨時団員の常恵たち一同が出発した。匈奴の地に着くと、礼物を単于に贈ったが、単于はひどく傲慢な態度で、漢朝の予想とは異なっていた。
 ちょうどそのとき、かつて(前一二一年に渾邪王に従って)漢朝に降服し(前一〇三年に趙破奴に従って再び匈奴にもどっ)た匈奴の緱(こう)王と、長水(陜西省藍田の西北)の人である虞常(同じく漢に帰順し再び背いた)、および衛律の部下で、匈奴に投降した漢人たちは、ひそかに陰謀をくわだてた。匈奴単于の閼氏(母親)を誘拐して漢朝にもどろうと企図したのだ。
 衛律の父は長水の匈奴人で、衛律は漢の協律都尉(音楽長官)である李延年(武帝後期の寵妃李夫人の兄)とたいへん仲が良かった。そのため李延年の推薦によって、漢朝から匈奴へ使節として派遣された。衛律が帰朝すると、李延年一家は逮捕された(弟の李広利はまだ将軍)と聞いたので、逃亡して匈奴に投降した。単于は彼を寵信し、彼と国家の大事を討議するほどで、丁霊王に封じた。虞常は漢にいたとき、副使張勝と友人だった。そこで、ひそかに張勝の宿泊所を訪ねて言った。
「漢の天子は非常に衛律を恨んでいると聞く。わしは弩手を伏兵としてひそませ漢のために衛律を射殺しようと思う。わが母と弟はみな漢朝にいるから、彼らに賞賜を得させたいのだ」
 張勝は応諾し、虞常に多くの財物をあたえた。一ヶ月余り後、単于が狩猟のため外出した。ただ単于の母親とわずかな子弟が残っていた。虞常ら七十余人が蹶起(けつき)しようとしたとき、その中の一人が夜に紛れて逃走し、虞常らの計画を密告した。そこで単于の子弟たちは兵を動かして虞常たちと交戦した。緱王らはすべて戦死し、虞常は生け捕りになった。単于は衛律にこの事件の処理を任せた。張勝はこの報せを聞くと、前に約定したことを虞(ぐ)常(じよう)が自白するのを恐れ、蘇武に報告した。
 蘇武は言った。
「このようなことが起きたからには、必ずや、わしの身におよぶだろう。匈奴に逮捕拷問されてから死ぬなら、国家の負託にそむくことになる」
 すぐさま自殺しようとしたが、張勝と常恵にむりやり止められた。虞常は果して張勝のことを告白した。単于は激怒し、貴族たちを召集して討議し、漢の使節団を誅殺しようとした。左伊秩訾(さいちつし)(匈奴の官名)は言った。
「衛律を謀殺すると死刑になるなら、もし単于を害するときは、どんな重罰にすればよろしいのですか!彼らすべてを帰順させるべきと存じます」
 単于は同意し、衛律から、その決定を蘇武に伝えた。蘇武は常恵たちに言った。
「もし節を屈して、われらの使命を辱めれば、たとえ生きていても、どんな面目があってわが中国にもどれるのか!」
 言い終えると佩刀を抜いて自分の身体に突き刺した。衛律は驚愕し、蘇武を抱きかかえながら、急いで医者を呼ばせた。そして地面に穴を掘り、煙だけで炎が出ないように小火を焚いた。蘇武を穴の上に置き、足で蘇武の背を踏み、悪血(おけつ)を流出させた。蘇武は気を失っていたが、半日たつとようやく息を吹き返した。常恵たちは慟哭しながら、蘇武をかついで幕営(ゲル。中国語では包パオ)にもどった。単于は蘇武の気節に感服し、朝晩、人に容体を問わせた。しかし、張勝を逮捕した。蘇武の傷がしだいに癒えてくると、単于は人を派遣して、匈奴に降服するよう説得させた。ちょうどこのとき、虞常の処刑が決まったので、この機会を借りて蘇武に投降を迫った。剣で虞常の首を斬り落とした後、衛律は言った。
「漢の使節張勝は単于の重臣(衛律のこと)を謀殺しようとした。その罪は死に当る。だが、単于は、降服する者は赦免すると申されておる」
 剣を抜いて張勝に斬りつけようとした。張勝は帰順を請うた。
 衛律はまた蘇武に言った。
「副使は有罪じゃ。そなたは正使として、連坐の罰を受けよ」
 蘇武は答えた。
「わたしはその件には関与していない。張勝とは親族でもない。どうして連坐するのだ!」
 衛律はまた剣を挙げて脅したが、蘇武はまったく動揺しない。
 衛律は言った。
「蘇先生!この衛律はかつて漢に背き、匈奴に帰順した。幸いにも単于の大恩を蒙り、王の称号を賜った。そして数万の民を擁し、馬と家畜は山野に満ちている。これほどの富貴を得られるのですぞ!蘇先生がもし今日帰順なされば、明日にはわしと同じ富貴を得られる。むなしく荒野に屍をさらしても、また誰が知りましょうか!」
 蘇武は口を閉ざして答えない。
 衛律はまた言った。
「あなたがもし、わしのために、匈奴に帰順してくれれば、わしはあなたと兄弟になりましょう。もし今日、わしの話しを聞き入れなければ、以後、わしに会おうとしても会えなくなりますぞ」
 蘇武は罵って叫んだ。
「そなたは漢の臣下でありながら、国の恩義をかえりみず、君主に逆らい一族に背き、蛮夷の異族に投降した。そなたなどにどうして会わねばならぬのだ!
 そのうえ、単于はそなたを信任し、他人の生死を決めさせたが、そなたは公平に処理しないばかりか、逆に両国の君主を挑発して互いに争わせ、どちらが勝つか傍観しようとしている。
 だがたとえば、南越国は漢の使節を殺したが、漢に滅されて九郡となってしまった(前一一一年)。大宛王が漢の使節を殺すと、王の首は長安城宮廷の北門に懸けられた(前一〇二年)。衞氏朝鮮が漢の使節を殺すと、すぐさま誅滅された(前一〇九年)。
 ただ匈奴だけが使節を殺すような争いをしたことがない。そなたは、わしが投降するはずがないとよく判っている。それなのに、この機会を借りて、両国の間の戦争を挑発している。匈奴の災難は、わしから始まることになるぞ」
 衛律は蘇武はどうしても脅迫を受け入れないと判り、やむなく単于に報告した。単于は、ますます彼を帰順させたくなった。そこで、蘇武を米粟貯蔵用に掘った大きな穴蔵に閉じこめ、蘇武の飲食を断った。そのとき、雨と雪が降っていたが、蘇武は地上に横たわったまま、雪と衣服上の氈毛とをいっしょに飲み込んで飢えをしのいだ。数日たっても死なない。匈奴は蘇武には神霊の加護があると驚き、蘇武を遥か北海(バイカル湖)の無人の地に放逐した。そして、一群の雄羊を放牧させ、蘇武に言った。
「雄羊が子羊を産んだら、国に帰してやる」
 常恵など使節団の中で投降しない官吏たちは、ばらばらにされて、他の地方に抑留された。

6犯罪者たちを徴発し、五原郡の開墾と辺疆防備のために移住させた。

7浞(さく)野侯趙破奴は匈奴から漢朝に逃げもどった(前一〇三年七節参照。後に趙破奴は前九一年の巫蠱大事件に連座して一族滅亡となった)。

 



4

後期対匈奴第四次戦役

天漢二年(前九九年)

 夏、五月、武帝は貳師将軍李広利に命じ、三万の騎兵をもって酒泉から出撃させた。
 李広利は、天山(祁連山)一帯にて匈奴右賢王を襲撃し、一万余人を捕虜または斬首し、帰還した。途中、匈奴の重兵に包囲され、漢軍は数日間も糧食が欠乏し、死傷者を多数出した。
 仮司馬(副統制官。校尉の属官)の隴西(陜西省臨洮(とう))の人、趙充国は精兵一百余人を率いて血路を開き、李広利は大軍を率いてその後に続き、ようやく脱出できた。今回の戦いでは、漢軍の戦死者は十分の六七に達し、趙充国の負傷個所は二十余創もあった。李広利が朝廷に上奏すると、武帝は趙充国を行在所(皇帝外出時の居所)に召した。彼の傷痕をみずから観察すると、嘆息して止まず、趙充国を中郎(近従)に封じた。
 武帝はまた、因杅(う)将軍の公孫敖に西河郡(陜西省府谷の西北)から出撃するよう命じた。公孫敖は強弩都尉の路博徳と涿(たく)塗山(ゴビアルタイ山脈)にて合流したが、なんの収獲もなかった。
 当初、名将李広の孫である李陵は侍中であったが、騎馬弩弓の術に精通し、士卒を愛し、士大夫にはうやうやしく接していた。武帝は李陵が祖父李広の風格を持っていると思い、騎都尉に封じ、丹陽(安徽省馬鞍山市東南)と楚の地方出身の兵士五千人を率いて、酒泉(甘粛省酒泉)、張掖(甘粛省張掖西北)一帯にて弩弓の射撃を教え、匈奴を防ぐよう命じた。貳師将軍の李広利が出撃するとき、武帝は李陵を召して、李広利の輜重部隊を護衛するよう命じた。李陵は叩頭して言った。
「わたしめが率いている辺塞駐屯の兵士たちは、みな楚の地の勇士と奇才剣客であります。手で猛虎を捕らえるほどの力があり、弩は百発百中と申せます。わたしみずからこの部隊を率い、蘭于山以南の地に進出します。目的は匈奴単于の兵力を分散させ、匈奴の全軍が集中して貳師将軍に向かわせないようにしたいと存じます」
 武帝は言った。
「そなたはほかの者の指揮下に入りたくないのか!今回、大軍を出兵させるつもりじゃから、そなたには馬の分配はないぞ」
 李陵は言った。
「わたしは騎馬隊によらず、少数をもって多数を撃ちたいと存じます。歩兵五干を率いて単于の王庭に踏み込みます」
 武帝は李陵を壮として、求めに応じた。李陵が帰還するとき、途中まで出迎えるよう路博徳に命じた。(かつて伏波将軍だった)路博徳もまた李陵の後援部隊になるならば恥辱であると考え、上奏した。
「今まさに秋たけなわであります。匈奴の馬は肥え、戦うには適しません。李陵を今しばらく待機させ、来年春にともに出撃させてくださいますよう」
 それと知った武帝は激怒した。李陵が怯えて出征を後悔し、路博徳に上書させたのではないかと疑ったのだ。武帝はすぐさま、詔を下した。
「路博徳は西河にて匈奴を討て。また、李陵は九月に居延(内蒙古・額済納旗[エチナ]東南)の遮虜障(額済納旗[エチナ]東。路博徳が築いた砦)から出撃し、東浚稽山の南の龍勒水あたりまで威力偵察をおこない、もし敵の影が見られなければ、受降城(内蒙古の烏拉特[ウラト]中旗の東陰山北。太初元年[前一〇四年]、公孫敖が築いた要塞)まで退き、士卒を休息させよ」
 そこで、李陵は五千の歩兵を率いて、居延を出て北へ進み、三十日後に浚稽山(ゴビアルタイ山脈の北方)にて宿営した。途中通過した山川の地形を描いて地図を作り、騎兵の陳歩楽に持たせて長安に上奏した。武帝は陳歩楽を接見した。陳歩楽は、李陵は強者どもを率い、国のために死力を尽くす覚悟ですと報告した。武帝はたいへん喜び、陳歩楽を郎官(護衛官)に封じた。
 ところが李陵は浚稽山まで進むと、匈奴の欒提且鞮(てい)侯単于みずから率いる主力軍と遭遇した。匈奴約三万騎は李陵の部隊を包囲した。李陵は二つの山の間に移動し、輜重車でぐるりと囲んで営塁を作り、みずから士卒を率いて営外に戦陣を組んだ。前列は戟と盾を持ち、後列は弓と弩を持った。
「軍鼓の音で前進、鉦の音で後退せよ」
 匈奴兵は漢軍が少数であると見ると、陣地の直前まで肉薄した。李陵は兵士を指揮して迎撃し、白兵戦を展開した。李陵軍が千張の弩を一斉に発射すると、匈奴兵は弦の音に応じてつづけさまに倒れた。匈奴が山の上に退くと、漢軍は追撃して数千人を殺した。単于は驚愕し、東西から八万余騎の大増援部隊を呼びよせ、李陵を攻撃した。やむなく李陵は士兵を率いて戦いながら南へ撒退し、数日後には、ある山谷の中に到った。李陵軍は休む間もなく戦い、士卒のほとんどは身に矢傷を負った。負傷三創の兵士は車上に横たわり、負傷二創は車を押し、負傷一創は武器を持って戦いつづけ、さらに匈奴三千余人を斬り殺した。

『中国成語故事』 「振臂一呼」
上海人民美術出版社


 李陵は兵を率い、さらに龍城への古道に沿って東南へ撤退した。四五日後、葦の茂る大きな沼沢の中(大沢)に到った。匈奴は風上から火を放ち、李陵たちを焼き殺そうとした。李陵もまた兵士たちに命じ周囲の葦に火を放って対抗した。李陵軍はつづけて南行し、ある山の下に到った。単于は南側の山の上におり、息子に騎兵を率いて李陵軍へ突撃するよう命じた。李陵軍は樹林の中で交戦し、さらに匈奴兵数干人を殺した。(十本あるいは三十本など多数の矢を同時に射ることができる)連弩を用いて単于を射撃すると、単于は下山して逃げた。この日、俘虜になった匈奴兵は李陵たちに言った。
「単于が申しますのには『これは漢の精兵だ。いくら猛攻しても撃滅できない。彼らは日夜、われらを南に導き、しだいに漢の要塞に近づいている。実は伏兵があるためではないか?』
 当戸、君長(いずれも匈奴官名)たちは口々に言いました。『単于がみずから数万騎を率いて漢軍数干人を攻撃したのに、彼らを倒せないなら、これからは匈奴に従っている他部族に号令することは、もうできませぬ。漢も更に匈奴を軽く見ることでありましょう。ですから山谷中で再度力戦をつづけ、四五十里行けば平原になります。そこでも勝てなければ帰りましょう』と」
 このとき、李陵軍の状況はますます悪化していた。匈奴の騎兵は多勢で、一日に交戦すること数十回、李陵軍はまた匈奴二干余人を殺傷した。匈奴は戦いが不利なため、兵をまとめて去ろうとした。
 だが、まさにそのとき、李陵軍の中に管敢という名の軍候(大隊長)が、校尉(連隊長)の侮辱を受け、匈奴軍に投降した。そして、李陵軍の実情をつまびらかに告げた。
「李陵部隊は後援なく、射るべき矢も尽きようとしています。ただ李将軍の直衛と校尉の成安侯韓延年(南越討伐のとき戦死した韓千秋の子)のそれぞれ八百人が先導して道を開いており、黄旗と白旗をもって旗印としています。精鋭なる騎兵で彼らを射殺すれば、李陵軍はすぐさま撃破できます」
 単于は管敢の告白を得て、大いに喜び、騎兵に李陵軍へ一斉攻撃をかけるよう命じ、同時に大声で叫ばせた。
「李陵、韓延年、疾く降服せよ!」
 ふたたび李陵軍の退路を断ち、猛攻をしかけた。李陵の部隊は谷の中に追われた。山の上に陣取った匈奴軍は、四方から射撃し、矢が雨のように降り注いだ。李陵はつづいて南へ退却したが、鞮(てい)汗山(居延の北)に着く前に、一日で五十万本の矢(一説に、一日は百の字の誤りで、車載百五十万本のこと)をすべて使い果たしてしまった。すぐさま輜重車を放棄し、つづけて進んだ。
 このとき李陵軍の士兵はまだ三干余人が生き残っていた。だが、(文字どおり、矢尽き刀折れ)ただ車輪の輻条(スポーク)を切り落として武器とし、本営事務官も手に(木簡刻字用の)小刀を持って戦列に加わった。李陵軍が渓谷に入ると、単于はみずから兵を率いて退路を断ち、匈奴兵を指揮して山上の巨石を谷へ落とした。李陵軍は多数死亡負傷し、進むことができない。陽が暮れると、李陵はただ一人私服に着替えて陣より出ようとし、部下を止めて言った。
「わしについてくるな。大丈夫たるもの一人で単于を生け捕りにする!」
 しばらくして、李陵は陣営にもどり、嘆息して言った。
「われらは敗れた。ここに死すのみ!」
 そしてことごとく旌旗を折り、褒賞のための珍宝を地下に埋めた。
 李陵はふたたび嘆いて、
「もしあと数十本の矢があれば、われらは包囲を突破できるのだが。今や、戦うべき武器もない。夜が明ければ坐して捕らわれるのみ。各々分散して走れば、敵の手から逃れえて、天子に報告できる者がいるやもしれぬ」
 そこで、将士に毎人二升の乾糧と、一片の氷を持たせ、遮虜障にて落ち合おうと約定した。夜半、李陵は戦鼓を叩いて将士らを起こしたが、戦鼓の皮革はすでに破れ、鳴ることはなかった。李陵と韓延年はともに軍馬にまたがり、十数名の壮士がつづいた。数千の匈奴騎兵が追撃し、韓延年は戦死した。
 李陵は言った。
「どの面下げて陛下にご報告できようか!」
 李陵はついに投降した。その他の兵士は分散して逃げた。包囲を突破し、辺塞の遮虜障まで逃げもどれた者は四百人ほどであった。李陵軍が崩壊した地点は遮虜障からわずかに一百余里(四十余キロ)であった。

 もし路博徳の出迎え部隊が来ていれば、李陵軍は全滅しなかったはずである。

 遮虜障の守将は朝廷に李陵軍の全滅を上奏した。武帝は李陵が死ぬまで戦うことを望んでいた。だが、後から李陵が匈奴に投降したと聞くと、はなはだしく怒り、陳歩楽を問い詰めた。やむなく、陳歩楽は自殺した。満朝すべての大臣は異口同音に李陵は有罪だと述べた。武帝は太史令の司馬遷にも考えを聞いた。
 司馬遷は、李陵のために口をきわめて弁護した。
「李陵は父母には孝順であり、士大夫には信義があり、つねに身を顧みずに奮闘しており、彼は国家の危難に殉ずると申しておりました。これがまさに彼の常日頃の志であり、すこぶる国士の風格がございます。今、出征してたままた不幸にも敗れましたが、じぶんの身と妻子を守るに汲々としている家臣たちが、彼の罪を捏造するのを見るのは、まことに心痛むものです!そのうえ李陵は五干に満たない歩卒をひっさげ、戦馬の地へ深く入り、数万の敵軍に抵抗しました。匈奴は負傷した兵士を扶ける暇もなく、弓を引けるすべての兵士を動員し、李陵を包みこんで攻めたてました。李陵は転戦すること千里、矢は尽き、道は窮まり、将士たちは空の弩弓を持ち、白刃を冒し、北へ向かって敵と生死をかけて戦い、部下は必死に力を尽くしました。たとえ古代の名将であっても、これほどではありません!李陵は兵敗れたりとはいえ、匈奴への打撃は彼の名を天下に知らしめるに足ります。李陵が死節を全うしないのは、機会を得て国家に報いるためであります(単于に近づいて刺殺するつもり)」
 だが、武帝は、司馬遷が嘘を述べて(武帝お気に入りの)李広利を貶め、李陵を弁護しようとしていると怒った。そこで司馬遷を宮刑(去勢。男性器切除)とした。
 ずいぶんと後に、武帝は李陵に後続部隊を送らなかったことを後悔して言った。
「李陵が出撃したときを見計らって、強弩将軍路博徳に、李陵の帰途に出迎えるよう命じるべきであった。だが、わしが早く詔書を下しすぎたため、老将の路博徳は恥と考え、わしをあざむきおったのだ」
 そこで使者を派遣し、逃れてきた李陵の残兵に慰労と賞賜をあたえた。

4本年、武帝劉徹は、漢朝に降服した匈奴の介和王成娩を開陵侯に封じ、楼蘭国の兵を率いて車師国を攻撃させた。匈奴は、右賢王を派遣し、数万騎を率いて楼蘭国を救援した。漢軍は、勝利できず、撤退した。

後期対匈奴第五次戦役

天漢三年(癸未、前九八年)
5秋季、匈奴が雁門郡に侵入した。雁門太守は畏縮して敵を恐れたため、棄市(民衆の面前で死刑に処し、死骸を市中にさらすこと)とされた。

 
この侵入をきっかけに、武帝は第五次戦役を発動した。

天漢四年(公元前九七年)

2武帝劉徹は、全国の「七科謫(七種の賤民。すなわち犯罪暦がある官吏、逃亡犯、金で買われた入り婿、商人だった男、父母が商人だった男、祖父母が商人だった男)」と勇士を徴発し、貳師(じし)将軍李広利に騎兵六万、歩兵七万をもって朔方(内蒙古烏拉特前旗東南)から出撃するよう命じた。また強弩都尉の路博徳は一万余人をもって李広利と合流し、遊撃将軍韓説は歩兵三万をもって五原(内蒙古包頭市西北)から出撃し、因杵将軍公孫敖は騎兵一万と歩兵三万をもって雁門(山西省左雲西)から出撃し、匈奴を襲撃するよう命じた。
 匈奴はその知らせを聞くと、家族と財産をすべて余吾水(外蒙のトラ川)の北に移し、それから単于はみずから十万の大軍を率い、余吾水の南岸にて李広利軍を迎撃した。李広利は単于の大軍とつづけて交戦すること十余日にして、撤退した。韓説軍はなんの収獲もなかった。公孫敖は匈奴左賢王と戦って敗れ、撤退した。
 そのとき武帝は公孫敖に匈奴の地に深く入り、李陵を連れもどすよう命じていた。だが、公孫敖は功なくもどり、上奏して言った。
「捕獲した匈奴の俘虜の話しでは、李陵は単于に兵士の訓練をさせ、漢軍を防いだそうでした。そのため、わたしはなんの収獲もなかったのです」
 激怒した武帝は李陵の家族、母、弟、妻、子を皆殺しにした。
 後に、漢朝の使者が匈奴に来たとき、李陵は使者を責めて言った。
「わしは漢朝のために歩兵五千人を率いて匈奴をなぎ払った。だが、後援部隊が来ないために敗れたのだ。漢朝に対し、どのような罪があってわが家族を誅殺したのか」
 使者は言った。
「漢朝は、李陵どのが匈奴に戦いのやり方を教えたと聞きましたので」
 李陵は言った。
「それは李緒だ。わしではない」
 匈奴に投降した漢の将軍李緒のことだった。
 悲嘆にくれた李陵は刺客に李緒を刺し殺させた。匈奴単于の母、大閼氏は(李緒を気に入っていたので)怒って李陵を殺そうとした。単于は彼を北方に隠した。大閼氏が死んでから、李陵はようやく王庭(単于の幕営)にもどった。単于はじぶんの娘を李陵の妻にやり、右校王に封じ、同じ漢の降将衛律とともに重用した。衛律は常に単于の身辺におり、李陵はつねに外地にいて、大事があれば王庭に来て諮問に答えた。

  


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後期対匈奴第六次戦役
その一


太始元年(公元前九六年)
1春季、正月、公孫敖は妻が「巫蠱(ふこ。呪いの人形)」をもって人を害した件によって腰斬となった。

4この年、匈奴の欒提(らんてい)且鞮侯(しょていこう)単于(ぜんう)が死去した。且鞮侯には二人の息子があり、長子は左賢王、次子は左大将であった。且鞮侯が死んだとき、左賢王は葬儀に間に合わなかった。そのため、匈奴貴族たちは左賢王が病気だとみなし、弟の左大将を単于に立てた。左賢王はそれを聞くと、王庭に来ようとはしなかった。左大将は使者を送って左賢王を招き、彼に譲位しようとした。左賢王は病を理由にして辞退したが、左大将は聞き入れず、彼に言った。
「もし不幸にも死んだら、わたしに位を譲ってくれ」
 左賢王はようやく応諾し、単于の位に即き、狐鹿姑単于と称した。左大将を左賢王に封じた。数年後、左賢王が先に病死すると、その子の欒提先賢
臣(せんけんたん)は左賢王の位を継げなかったため(左賢王は皇太子の位)、日逐王(匈奴の西側に住んだ。日が西に入るため)と改めた。単于は自分の息子を左賢王に封じた。

征和二年(前九一)
9匈奴は、上谷郡と五原郡に侵入し、吏民(吏は六百石以上の官僚。民は四百石以下の吏と平民)を殺掠した。


後期対匈奴第六次戦役
その二


征和三年(辛卯、前九〇)
2匈奴は、五原郡と酒泉郡に侵入し、両都尉(郡防衛司令官)を殺した。
 三月、武帝は貳師将軍李広利に命じ、七万人を率いて五原郡から出撃し、商丘成には二万人を率いて西河郡から出撃し、馬通には騎兵四万騎を率いて酒泉郡から出塞させて、匈奴を攻撃した。

4匈奴の単于は、漢の大軍が出撃したと聞くと、すべての一族と輜重を、北の郅【しつ】居水に移らせた。左賢王は、自分の部衆を駆り立て、余吾水を渡って、六七百里先の兜銜山に住まわせた。単于は自ら精兵を率いて、姑且水を渡った。漢軍の商丘成の部隊が到着して追撃した。早道を通ったが、足跡は見つからず、撤兵した。
 匈奴は、大将を出して李陵とともに三万余騎を率いて漢軍を追撃させた。転戦すること九日、蒲奴水に至った。匈奴軍は不利なため、兵を率いて退いた。
 馬通の軍は、天山に至った。匈奴は大将偃渠に命じ、二万余騎を率いて漢軍を邀【よう】撃させた。漢軍が精強なのを見て、撤退した。馬通は、収穫も損失もなかった。
 この時、漢朝は、車師国が馬通の軍を遮るのではないかと恐れ、開陵侯成娩に命じ、楼蘭・尉犂・危須等の六国の兵を率いて、連合して車師を包囲させ、車師王と民衆を捕虜にして帰還した。
 貳師将軍李広利は、五原郡の要塞から兵七万を率いて出撃した。
 匈奴は、右大都尉に衛律とともに五千騎を率いて、漢軍を夫羊地区の句山の狭間に邀撃させた。李広利は匈奴軍を撃ち破った。勝利に乗じ、北へ逃げる匈奴軍を追撃し、范夫人城(漢の将軍が城を築く途中で死亡したため、妻の范夫人が後を引継ぎ完成させたと言う)に至った。匈奴はさらに奔走し、再び漢軍に抵抗しようとはしなかった。
 初め李広利が出発するとき、丞相劉屈氂【ぼう】は、道祖神に旅の安全を祈って渭橋まで見送り、別れの宴を開いた(祖道)。李広利は言った。
『願わくは君侯(列侯の尊称)、早く昌邑王(劉髆)を太子に立てていただくよう、お上に奏請してください。もし昌邑王が皇帝になられれば、君侯はなにも心配はなくなりますぞ』
 劉屈氂【ぼう】は許諾した。昌邑王は、李広利将軍の妹である李夫人の子である。そして李広利の娘は、劉屈氂【ぼう】の子の妻である。そのため二人は昌邑王を立てようとしたのである。まさにその時、少府(山海地沢の税を掌り宮廷御用に供す官庁。皇帝衣食御物、医薬娯楽葬儀も管理)所属の内者令の郭穰が朝廷に告発して、
『丞相の夫人は、お上を呪詛し、そして李広利と共に神霊に祈祷し、昌邑王を皇帝に立てようと謀んでおります』
 武帝は事実を調査させ、その罪、大逆不道と判決が下った。六月、詔を下して、劉屈氂【ぼう】を食糧輸送車(厨車)に載せて引き回し、東市にて腰斬とした。妻子は華陽街にて、さらし首(梟首)にされた。李広利の妻子もまた捕らえられた。李広利は、戦場にてその知らせを聞き、憂いと恐れに襲われた。李広利の属官(掾)胡亜夫もまた罪を避けて従軍していたが、李広利を説得して、
『閣下の夫人と一家は、皆、投獄されました。もし長安に帰って、お上のご不興を買えば、自ら監獄に入りに行くようなものです。そのとき、郅【しつ】居水より以北を、再び見ることができましょうか(匈奴に投降するよう暗示した)』
 李広利は、そのため狐疑逡巡したが、やはり深く匈奴の地に入って戦功をあげれば、武帝はもしや赦すのではないかと考え、北進して郅【しつ】居水に到着した。匈奴軍はすでに逃げ去っていた。李広利は、護軍に命じ、二万騎を率いて郅居水を渡らせた。左賢王と左大将が率いる二万騎の匈奴軍に遭遇した。匈奴軍と血戦すること一日。漢軍は、左大将を殺し、匈奴兵は多数の死傷者を出した。漢軍の長史は、決眭【すい】都尉の輝渠侯雷電と謀って言った。
『李将軍は、異心を抱き、われわれを危険な目に遭わせても戦功を求めようとされている。恐らく必ず敗れるだろう』
 二人で李広利を生け捕りにして長安に護送しようと謀った。李広利はその知らせを聞くと、すぐさま長史を斬ったが、すでに兵士たちは動揺し、前進できないと判断、兵を率いて撤兵した。
 李広利軍が燕然山まで退いたとき、単于は、漢軍が疲労困憊しているのを知り、自ら五万騎を率いて、李広利軍を遮り攻撃した。双方に多大の被害がでた。夜、漢軍が前進する先の道に、深さ数尺の塹壕を掘り、漢軍の後から急襲した。漢軍は大混乱に陥り、潰敗した。李広利はついに投降した。
 単于は、以前から李広利が漢朝の大将であるのを聞いていたので、自分の娘を妻にやり、尊寵した地位は、衞律よりも上であった。武帝は、李広利の全族を皆殺しにするよう命じた。

蒙古婦女服装
『中國西域民族服飾研究』


 
武帝後期対匈奴作戦は、損害にみあう効果は得られなかった。膨大な軍費を消耗して、財政が破綻しただけではなく、武帝は凡庸な李広利を将軍に登用したためであると評されている。しかし、武帝は自分の寵愛した李夫人の兄、李広利を将軍に登用した。彼は将兵の信頼を得ていなかった。いっぽう、李広や李陵は代々将軍の家柄だったし、衛青は騎奴から出発したから、公孫敖のような友人もいた。彼らは軍に基盤があった。しかし、李広利はまるで落下傘のように武帝の指示で、はるか上から軍の中に飛び降りたので、最後の時点で、将兵の信頼を失い、失敗したのである。

 武帝は老境にいたり、猜疑心が強くなっていた。それを利用した臣下にあざむかれて、無実の皇太子に叛乱を起こさせ、死なしてしまった。前年のことである。そのようなこともあり、李広利軍の失敗は、武帝の心に大きな傷をあたえた。

 征和四年(前八九)に、宰相たちが輪台(新疆輪台。庫車クチャと庫尓勒クルラ市の中間)に屯田するよう奏上した。
 ところが、武帝は、
『貳師将軍が敗れると、将兵は戦死か、捕虜か、あるいは四散逃亡した。朕の心は悲痛が癒えることはない。今また、遙か遠く輪台に屯田したいと奏請し、亭隧を築きたいと望むのは、天下に動乱を起こすものだ。民百姓を豊かにするやり方ではない。朕【ちん】は、聞くに忍びない。(中略)まさに今の急務は、苛斂誅求を禁じ、勝手な徴税(擅【せん】賦法)を中止し、農業に励み、養馬免税法(馬復令)を復活して、軍馬の欠乏を補い、軍備を充分に調えることである。郡や国の二千石【せき】は、各々、畜馬の方略と辺境防衛の補充策を上進し、戸籍・土地課税台帳(計)と共に奏上せよ』
 それ以降、再び軍を出さなかった。そして田千秋を富民侯に封じ、民を休息させ豊かにする考えを明かにした。
 これが有名な、『輪台、おのれを罪する詔(みことのり)』である。武帝も始皇帝も暴政と連年の征戦で、天下の人びとを疲弊させたが、のちに『雄略大才』と評された武帝と、暴君と評された始皇帝の差は、ここにある。
 そして匈奴に降服した李広利の運命も暗転する。

6衞律は、貳師将軍李広利が単于(欒提狐鹿姑)から寵愛されているのを嫉妬していた。たまたま、単于の母大閼氏が病気になった。衞律は、巫師(胡巫)に指図して、単于に言わせた。
『先代の単于(欒提且鞮【てい】侯)が怒って申しました。「われら匈奴は、以前、戦いの時に神に祈り、常に李広利を生け捕りできれば、土地神に祭祀(社)すると誓った。どうして今、李広利を生け贄に献げないのか」と』
 そこで、李広利を捕らえた。李広利は罵って言った。
『わしが死ねば、必ず匈奴を滅ぼしてやる!』
 とうとう李広利を家畜のように殺して(屠)、神に祭った。

 
老いて病をえた武帝は、後元二年(前八七年)、二月十二日、詔を下して、末子の劉弗陵を立てて皇太子とした。ときに年八歳。翌十三日(丙寅)、霍光を大司馬・大将軍に任じ、金日磾を車騎将軍に任じ、太僕の上宮桀を左将軍に任じた。武帝の遺詔を受けて、幼主を補佐することとなった。又、搜粟都尉桑弘羊を御史大夫に任じた。皆、寝室の武帝の寝床の下で官位官職を拝受した。
 そして 二月十四日、武帝は五柞宮にて崩じた。遺体は入棺され、未央宮の前殿に運ばれて安置(殯)された。(享年数えで七十一歳)
 二月十五日(戊辰【ぼしん】)、太子劉弗陵(昭帝)が、皇帝の位に即いた。


 世はあらたまり、昭帝の御代になった。ここでさいごに、匈奴の地に捕らわれたままの蘇武と、匈奴に降服した李陵の行く末をみてみよう。


昭帝始元六年(前八一)

2当初、蘇武は匈奴に北海(バイカル湖)の湖畔に放逐されてから、食糧をあたえられなかった。そのため蘇武は野鼠(猫ほどのモルモット)の穴を掘り、野鼠が貯めておいた草や実を食べて飢えをしのいだ。彼は手に漢の符節を持って羊の群の面倒を見、寝ても覚めても手放さなかった。節杖の毛纓はとうとうすべて抜け落ちてしまった。蘇武は、中国では李陵と同じ侍中であった。だが、李陵は匈奴に投降した後、蘇武に会いに行こうとはしなかった。長いときが過ぎ、単于は李陵を北海の湖畔におもむかせた。李陵は蘇武のために酒宴を開き、楽隊で興を添えた。
 李陵は蘇武に言った。
「単于はわしとそなた子卿(蘇武の字)が古い親友であると聞き、そなたを説得し、誠心誠意もてなすよう命じられた。いずれにせよ中国にもどることは不可能だ。この荒漠とした人煙もない地で空しくみずから苦んでも、そなたの信義節操は、いったい誰にわかってもらうのだ!そなたの二人の兄弟は、すでに罪あって自殺した(兄は奉車都尉[車馬長官]で、武帝にしたがって雍の
拔(よく)陽宮に行ったとき、大門まで輦車を進めていたが、誤って躓き傘蓋の支柱に触れて、折れた支柱が大門を壊してしまった。不敬罪のため剣に伏して自殺。弟は騎都尉[騎兵長官]として武帝にしたがい河東の后土祠へ行ったとき、宦官騎兵と黄門藥馬(ふ)[皇帝御馬係]が小舟を争い、駙馬(ふば)を河に突き落として溺死させた。蘇武の弟は追捕するよう命ぜられたが、探し出せないため毒薬を飲んで自殺した)。わたしが匈奴の地に来たとき、そなたの母親は不幸にも世を去っている。子卿(蘇武の字)の夫人は年若いため、すでに他の男に嫁したと聞いておる。ただ妹二人と、娘二人、それに息子一人が残されたが、すでに十数年が過ぎ、まだ生きているか、それさえもわからぬ。人の一生は、朝露のように短い。そなたはどうしてそれほど長く自分を苦しめなければならないのか!わたしが匈奴に投降したばかりのときは、精神は恍惚とし、気が狂うかのようであった。自責の気持ちとわが祖国に申し訳がないという気持ちでどうしようもなかった。わが老母にも罪が及んで牢獄に繋がれてしまった。子卿が匈奴に降るのを願わぬ心情は、どうしてわたしを越えていようか!そのうえ陛下は高齢で、法令はたびたび変化し、罪なくして一族皆殺しにあった大臣は数十家にも達し、生命の保証はまったくない。子卿はいったい誰のためにこれほど苦しまなければならんのだ!」
 蘇武は言った。
「わしら父子は徳も功績もなく、すべてみな陛下のおかげで高位に昇り、列侯、将軍と並ぶことができた。その上、わしら兄弟は陛下の身近にお仕えもできた。だから、わたしはたとえ肝脳が地にまみれても、陛下の大恩にお応えしようと常々考えていた。今まさに身を殺して陛下に報いることができる。たとえ斧鉞が身に加えられようと、大鍋で煮られようと、わしは甘んじて受けよう!臣として君王に仕えるのは、子が父に仕えるのと同じで、子が父のために死ねるなら、なんの恨みもない。そなたはもう言わないでくれ」
 李陵は蘇武と数日間も飲みつづけ、また説得した。
「子卿、わたしの話しを一言でよいから聞いてくれ」
 蘇武は言った。
「わしは必ずここで死ぬものと前から知っている。大王(李陵は匈奴右校王に封じられた)、あなたが、この蘇武を絶対に投降させたいのなら、今日の宴会はここまでとし、あなたの面前で死んでみせよう!」
 李陵は蘇武がただ至誠あるのみを知り、長く感嘆して言った。
「ああ!そなたは真の義士であるなあ!わたしと衛律の罪の大きさは天にも達するほどだ!」
 李陵は涙を流し、衣の襟を濡らした。そして、蘇武に牛羊数十頭を贈り、別れを告げて去った。
 後に、李陵がふたたび北海に来て、武帝が死去したことを告げると、蘇武は数ヶ月も、毎朝晩に南へ向かって慟哭し、ついには血を吐いた。
 欒提壺衍醍単于が即位すると、その母の大閼氏(単于の母)は身持ちがよくなく、国内は分裂し、常に漢軍がふたたび襲撃して来るのではないかと恐れた。そこで衛律は単于のために計略し、漢朝と和親を結ぶことを求めた。漢の使節が匈奴へ来ると、蘇武たちを帰国させるよう要求した。だが、匈奴側は蘇武はすでに死亡したと偽った。後に漢の使節がふたたび来ると、常恵はひそかに使節と面会し、単于にこう述べるよう教えた。
「漢の天子が上林苑(皇帝専狩猟園)で鳥撃ち猟をしていたとき、一羽の大雁を射落とされた。大雁の足には白絹の布が結んであり、蘇武たちはある沼沢の地にいると記されてあった」と。
 使者は大いに喜び、常恵の言うとおりに単于を詰問した。単于は左右の近従たちを見回し、ひどく驚いたふうだった。そして使者に謝罪して、言った。
「蘇武はたしかに生きておる」
 こうしてようやく蘇武や馬宏たちは解放されたのだった。
 馬宏は、かつて西域各国に派遣された、正使である光禄大夫(宮中護衛副長官)王忠の副使で、匈奴部隊に遮られたとき、王忠は戦死、馬宏は俘虜となった。かれも匈奴に投降しようとしなかったので、匈奴は今回、蘇武、馬宏の二人を解放し、漢朝に対し彼らの好意を示そうと思ったのだった。
 そこで、李陵は酒席を設けて、蘇武の帰国を祝った。
「今、そなたは祖国にもどることになった。名声は匈奴にあまねく伝わり、功労は漢朝に顕彰された。たとえ史籍に載った人物、彩色画に描れた人物でも、そなたを越える者はない!わしは愚かで臆病ではあるが、漢朝がわしの罪を許し、わしの老母を殺さずに、この大きな恥辱を雪ぐ心願を果たさせて欲しかった。曹沫が柯邑の盟を結んだ壮挙(春秋時代に、小国魯の将軍曹沫が荘公のために、大国斉の桓公に迫って、奪われた領地をとりもどした)は、まさに、わしが一日として忘れられない志だった。ところが、陛下は、わしの一族を族滅してしまい、世の中で最も残酷な殺戮をおこなった。わしはすべてを失ってしまったのだ!だが、それもみな過ぎたことだ。今、そなたに、わたしの心情を知ってもらいたかっただけなのだ!」
 李陵は満面に涙を流し、蘇武と別れを告げた。
 単于はかつて蘇武に従って来きた漢朝の官吏および随従を集めた。すでに匈奴に降った者と死去した者を除き、合計九人が蘇武とともに漢朝へ帰国した。蘇武一行は長安にもどると、昭帝は詔令を下し、蘇武のために太牢(牛、羊、豚各一頭)という最高の儀式で、武帝の陵廟にて祭祀をおこなった。そして蘇武を典属国(属国管理長官)、品秩は中二千石とし、さらに銭二百万、公田二頃(約二百八十坪)、住宅一棟を賜った。
 蘇武は十九年も匈奴に抑留されていた。出発したときはまさに壮年の黒髪であったが、帰朝したときは、頭髪も髭もすべてまっ白になっていた。

 そのとき、国政を握っていた霍光と上官桀は、かつて李陵とは親友の間柄だったので、李陵の旧友、隴西人の任立政ら三人を匈奴に派遣し、李陵に帰国するよう説得した。
 李陵は彼らに言った。
「もどるのは容易なこと。だが大丈夫たるもの、二度も恥辱を受けることはできぬ!」
 ついに匈奴の地で老いて死んだ(享年六十余歳)。

  「蘇武に答える書」(答李陵蘇武書) 李陵

 シルベスター・スタローン扮するアメリカ映画「ランボー」をご存じのかたは多いと思います。ランボーは身命を賭してベトナム戦争に従軍しました。ところが、夢にまで見た祖国に帰ると、身の置き所もありません。ランボーはアメリカ社会に受け入れられず、しだいに追いつめられ、ついに独り反抗します。ランボーは最後に「わたしが国を愛するように、国もわたしを愛して欲しい」と叫びます。
 今、日本でも多数の中高年サラリーマンがリストラのうきめにあっています。今まで家庭を犠牲にし会社に尽くしてきた人生は、なんの意味があったのでしょう。
「わたしが会社を愛してきたように、会社もわたしを愛して欲しい」そう叫んでも、なんの罰が当たるものですか。

 西漢(前漢)の李陵はわずか五千の歩兵と共に、匈奴(きょうど)単于(ぜんう)(最高君主)率いる十万余騎の大軍と戦いました。李陵の部隊は、援軍もない、文字通り、孤立無援で矢尽き刀折れて全滅しましたが、李陵は、ついに屈して匈奴に降りました。武帝劉徹は、李陵の投降を怒り、長安に残っていた彼の留守家族を皆殺しにしました。
 蘇武は字(あざな)は子卿、匈奴に使いしたところ、十九年も抑留され、苦難を嘗めたが屈しませんでした。李陵と蘇武は胡地で知りあい、心底を語りあう友人となりました。蘇武は、武帝の子、昭帝が位を継いだおり、ついに節をまっとうして漢に帰り、典属国に封じられました。
 当時、李陵と蘇武の共通の友人である霍光と上官傑が国政を担当しており、李陵も帰国させようと考えました。そこで、蘇武は、李陵にも漢に帰れという書簡をあたえたので、李陵がこの書簡をもって答えたのです。
 この書簡は後世の人が託した偽作と評されていますが、李陵の心情をよく表した名文です。

 尽くしても尽くしても応えてくれないわが祖国、忘れようとしても忘れられない懐かしいわが祖国。
「わたしが国を愛するように、国もわたしを愛して欲しい」というランボーの悲しい心からの叫びが、ここからも聞こえてくるようです。

 蘇武は黒髪のときに匈奴に使いし、白髪になって漢に帰ります。蘇武の青春はバルト海で空費されたのですが、年輩の方には、ソ連によるシベリア抑留を思い出されるでありましょう。この文章の最後には、心を和ませるような一句があり、悲哀に満ちた手紙文にわずかな光明を見いだせます。

原文は梁王朝の昭明太子蕭統(しょうとう)が編纂した詩文集『文選(もんぜん)』に記載があります。中島敦の名作『李陵』を合わせ読めば、さらに深く理解できましょう。
 

蘇武に答える書

李陵 異域に死す

 子卿(蘇武の字)どの。
 そなたの美徳が世に宣揚され、この平和な時代に官職を得られ、その栄誉はいたるところ知られることとなった。わたしもまことにうれしい。わが身を遠く異国に託することは、昔の人も悲しんだものだ。南風を望んで、懐かしきわが祖国、わが友を想い、どうしても心乱れてしまう。昔の友情を忘れず、はるばるご返事をいただき、なぐさめ諭す熱情は、骨肉をうわまわるものだ。わたしは愚鈍ながらも、感慨なくして読むことはできない。

 匈奴に降ったその日から今日まで、身心ともに追いつめられ、孤独と苦しみに苛(さいな)まれつづけている。終日、見るべきものもなく、ただ眼に入るものといえば、異郷の異物だけだ。革製の衣服とフェルト製の天幕によって風雨をしのぎ、生臭い羊の肉、乳、酪(らく)(ヨーグルト)で飢えと渇きを満たす。眼をあげて談笑しようにも、いったい誰と歓びをともにすればよいのか。異国の地の暗い冬空に氷雪が降り、辺土は凍り裂け、ただ聞こえるのはヒョウヒョウと吹く悲しい風の音のみ。涼秋の九月には、塞外の草木は黄色く枯れてしまう。夜は眠れず、耳をそばだて遠く聞こえるものは、たえず流れる胡笛の音、牧馬の悲しげな嘶(いなな)きであり、両者の音がまざりあい、四方から漂う。早朝、坐してこれを聞くと、涙があふれてとまらない。

 ああ、子卿よ子卿、この李陵の心は他人と異なるはずはない、どうして悲しまずにおられようか!そなたと別れた後、ますます心癒されるものがなくなってしまった。わが老母は高齢にいたって斬首され、妻子は無実のまま殺害された。わたしは国の恩徳を受けながら、このようなはめになり、世人に惜しまれることとなった。そなたは長安にもどって栄誉を受け、わたしはとどまって恥辱を受けた。いったい、これはなんという運命なのだ!わたしは礼義の邦を出て、今、無知の風俗の中に入っている。父母と君王の恩徳にそむき、蛮夷の地に暮らしているのは、なんとつらいことだろう!(武将を輩出して名誉ある)李一族の子孫が夷狄(いてき)の一族となるとは、さらに悲しみにたえない。わが功績は大きく、罪は小さいが、陛下のご明察を得られず、わが一片の忠心を無にされた。このことに思いをいたすたびに、生きる意欲を削がれる。この李陵、胸を刺して忠心を明らかにし、首をはねて志節を明らかにするのは、なんとも容易である。だが、国家がわたしに対し、すでに恩義とも断絶したのを顧みれば、自殺したとて無益であり、恥辱を増すばかりである。それゆえ、わたしは無理にも気持ちを奮い起こし、生きながらえているのだ。わが左右の者たちは、わたしのこのような有り様を見て、聞きたくもない音楽で励まそうとする。だが、異国の音楽はただ人を悲しませ、苦痛を増すばかりなのだ。

 ああ、子卿よ子卿。人がたがいに知りあうとき、心が判りあうことより貴いものはない。前回の書簡では時間がなかったため、わたしの気持ちを言いつくせなかった。それゆえ、ふたたび略述する。

 以前、先帝(武帝劉徹)より、この李陵に歩卒五千を授けられ、絶域に出発した(前九九年参照)。同時に命令を受けたほかの五人の将軍はみな道に迷い、ただわが軍のみが敵(主力)に遭遇した。わたしは万里の糧秣をかかえ、徒歩の部隊を率い、わが大漢帝国を離れ、強敵の領域に入った。五千の兵をもって十万の大軍に抵抗し、疲労困憊した兵を指揮し、匈奴の新手の騎兵と戦った。だがそれでも敵の将を斬り、旗を奪い、敗退する敵を追って北上し、跡形もなく掃討し、勇将を斬り倒し、全軍の将兵は死を視ること帰するが如しであった。この李陵は不才ながらも大任を望み、このときの功績は比べものがないほどであると思った。
 匈奴は初戦に敗れた後、国を挙げて動員し、選抜した精鋭は十万を越え、単于(ぜんう。匈奴君主)はみずから陣前に臨み、われらを包囲した。彼我の兵数は比べものにならない上、歩兵と騎兵とでは戦闘力も懸絶している。わが疲労した歩兵は幾度も戦い、一人をもって千人にあたり、傷の痛みをこらえ、命を捨てて先を争った。死傷者は荒野に点々として倒れ、残余の兵は百人に満たない。みな傷病をかかえ、すでに武器も持てない。
 だが、わたしが肱(うで)を振るって一たび呼べば、満身創痍の兵士たちはみな立ち上がり、わたしが刃を挙げて敵を指せば、敵騎は頭をめぐらして逃走した。刀剣はことごとく折れ、矢はすべて尽き、兵士たちには一つの武器もないが、それでもなお徒手空拳にて奮闘吶喊(とっかん)し、先を争って突撃した。
 まさにそのとき、天地はわがために怒り震え、戦士等はわがために血涙を呑んだ。単于は李陵を俘虜にできぬと考え、また漢に伏兵あるを恐れ、兵を率いて撤退せんとした。だが、賊臣(漢の軍候の菅敢(かんかん))が(裏切って、援軍も武器もないことを匈奴に)教え、ついに再び戦うことになり、そのため、この李陵は敗れざるをえなかったのだ。

 かつて高皇帝(劉邦)は三十万の大軍を率い、平城(山西省大同の東)にて(四十万の匈奴に)包囲された。当時、猛将は雲の如く多く、謀臣は雨の如く数あった。しかれどもなお七日間も絶食し、ようやく俘虜を免れたのみであった。いわんや李陵が(わずか兵五千にて)、敵の十万に当たったは、どうして力及ぶところであろうか。しかし、執政の人びとは議論紛々として、ただ李陵が国のために戦死せぬことを罪であると非難した。もとより、わたしが死なぬのは罪である。だが子卿がこの李陵を見て、死を恐れ生をむさぼる人間と思われるか?君王と父母に背き、妻子を捨てても、叛逆に利があると思われるか?
 そなたの考えるとおり、わたしが死ななかった理由は、思うところがあったためである。すなわち前の手紙に書いたように、国君に大恩を報ぜんがためである(単于に近づいて刺殺すること)。まさしく無駄死には名節を立てるには及ばず、人知れず死ぬよりも、恩徳に報いるべきである。その昔、范蠡(はんれい)(註一)は会稽の恥に殉死せず、ついに越王句践(こうせん)の仇を討ち、曹沫(そうまつ)(註二)は三度の敗戦の恥辱に死せず、ついに魯国の恥を雪いだ。わたしの区々たる心はひそかに彼らを慕うのみ。この志がいまだ達せられぬうちに、恨み成るとは、だれが思い至ろう。策謀がまだ実現せぬうちに、骨肉の家族が死刑になろうとは。これが李陵が天を仰ぎ、胸を叩いて血の涙を流す原因なのだ!

 そなたはまた言う。「漢朝は功臣に対する待遇は薄からず」と。漢の朝廷にいる臣としてはそう言わざるをえないだろう。だが、かつて、蕭何(しょうか)(註三)、樊噲(はんかい)(註四)は監獄に捕らわれ、韓信(註五)、彭(ほう)越(えつ)(註六)は細切れの塩漬けとなった。鼂錯(ちょうそ)(註七)は誅殺され、周勃(註八)、竇嬰(とうえい)(註九)は処罰された。その他、皇帝を補佐し、大きな功績を立てた人々、賈誼(かぎ)(註十)、周亜夫(註十一)らはみな誠に傑出した人物であり、将軍宰相の能力がありながら、雑魚(ざこ)どもの讒言にあい、才能を発揮できなかった。賈誼と周亜夫の不遇なる死は、だれもが心痛めるものだ。李陵の祖父(李広)は、功労と才略は天地をおおうほどで、義勇は全軍に冠たるものであった。ただ権貴(武帝のこと)の歓心を失ったため、砂漠の絶域にて自刎(じふん)して果てた。これらが功臣義士たちが戟を執りながら長く嘆息する理由なのだ。どうして漢朝は功臣に対する待遇は薄からずと言えるのだろうか?

 そなたはわずか一台の車で、一万台の大国匈奴におもむいた。運悪く内紛に巻き込まれ、剣を抜いて自刎しようとして生命を顧みず、また北海(バルト海)に流されて苦しみを嘗め、あやうく朔北の荒野に死するところだった。そなたは青年時代に命を奉じて使節として出かけ、白髪になって帰国した。老母はすでに世を去り、妻は他家に嫁に行ってしまった。このようなことは天下に聞いたことはなく、昔も今も前例がない。匈奴の者たちでさえ、その節義に敬服しているのに、いわんや天下の主たる漢朝においてはだ。
 この李陵は、そなたが諸侯に封じられ、千台もの賞賜をあたえられるものと思っていた。ところが、そなたが帰国しても、銭を賜ることわずかに二百万、官位は典属国(属国管理長官)にすぎない。そなたの労苦を嘉(よ)みする一尺の土地も封じてはくれなかった。だが、功績を立てるを妨害し、賢能を陥れた雑魚どもは万戸侯に出世し、外戚と貪婪奸佞(どんらんかんねい)のやからは、ことごとく朝廷の高官要職に取り立てられている。そなたでさえそれほどの目に遭っているのだから、わたしなどはなにを望めるだろうか?

 漢朝はこの李陵が死ななかったため、わが一族を酷薄にも誅殺した。だが、そなたは節義を守っても、あたえられた賞賜はひどく薄い。このような方法で遠方の異民族を風を望んで帰服させようとしても、それは実際困難な話しである。それゆえ、往時を回顧しても後悔することがないのは、李陵はもとより国家の恩義に背いているが、国家もまた徳義が欠けているためである。
 昔の人は言った。「たとえ忠烈ではなくとも、死を視ること帰するようであった」と。だが、わたしが甘んじて死んだとて、陛下にふたたび惜しまれるだろうか。男たるもの生れて名を世に揚げられないなら、未開の蛮地に葬られんのみである。だれがまた身を屈し土下座して、未央宮(びおうきゅう)(皇居)の北大門に向かい、刑吏どもに勝手な罪状をつけさせるのか?どうかわたしが帰国することは断念して欲しい。

 ああ、子卿よ子卿、さらになにを言うべきことがあろうか!たがいに隔たること万里にして、人の往来は絶え、道さえ常ならぬところ。生きて別世界の人となり、死んで異域の幽魂となる。生死ともにふたたび会うことはない。永遠の別れなのだ。
 わが友よ、聖明なる君主(昭帝)に力を尽くして仕えよ。そなたの子(註十二)は、恙(つつが)なく育っている。心配は要らない。努めて自分を大事にしてくれ。ときには北風(匈奴への使節)に託し、また手紙をよこしてほしい。
                                  李陵頓首

 

註一:范蠡(はんれい)。春秋末、越の大夫。越王句践を扶けて最後に呉を滅ぼした。会稽の恥とは、一時、呉王夫差に首都会稽を包囲されて降服したことを指す。
 日本の『太平記』にも、笠置山の後醍醐天皇が捕らえられて隠岐に流される前、児島高徳(たかのり)が、深夜こっそり後醍醐天皇の行在所(あんざいしょ)を訪れ、桜の幹を削り、「天莫空句践、時非無范蠡(てんこうせんをむなしゅうするなかれ、ときにはんれいなにきにしもあらず)」 [越王句践の復国を范蠡がたすけたように、時がいたれば忠臣が現れますぞ]と墨書して去り、励ました故事がある。この句は節を付けて歌にもなった。
註二:曹沫(そうまつ)。春秋時の魯の大夫、将軍。大国斉と戦い、三戦三敗した。後、魯が斉と会見したとき、曹沫は斉の桓公に迫り、魯から奪った土地をすべて返還させた。
註三:蕭何。西漢建国の功臣。相国(上級総理)として国政を預かる。上林苑(皇帝用狩猟大公園)を農民に開放するよう提案したが、劉邦に賄賂を受けたと思われ、下獄。
註四:樊噲(はんかい)。西漢建国の功臣。劉邦が重病となったとき、叛乱をたくらんでいると讒言され、長安に護送されたが、劉邦が死去し、呂太后の妹が妻だったため助かった。
註五:韓信。劉邦とともに項羽を滅ぼした英雄。最後には劉邦に殺され、肉は塩漬けにされた。
註六:彭越。劉邦とともに項羽を滅ぼした英雄。最後には劉邦に殺された。
註七:鼂錯(ちょうそ)。政治家。景帝は鼂錯の献策に従い、諸王の領地を削減したが、鼂錯を誅するのを名目として呉楚七国の乱がおきると、景帝は彼を殺してしまった。
註八:周勃。太尉(国防大臣)。呂氏一族を誅滅して文帝を擁立した。叛乱をたくらんでいると誣告され、逮捕下獄。後、無罪放免。
註九:竇嬰(とうえい)。景帝時の大将軍。七国の叛乱に功績あり。後、灌夫が丞相田蚡(でんぷん)を罵る事件に巻き込まれ、誅殺される。
註十:賈誼(かぎ)。文学に秀でる。諸王の権力削減、中央政権の強化を主張。周勃の排斥に遭い、左遷。梁王劉勝の太傅(最高顧問官)となるが、劉勝が落馬して死亡すると、血を吐いて死去。
註十一:周亜夫。周勃の次男。景帝のとき、太尉として呉楚七国の乱を平定。後、景帝に疎んじられ、子が官器を盗買したと誣告された件で下獄。五日間絶食し、吐血して死去。
註十二:蘇武は匈奴にて嫁を取り、息子が生まれた。名を通国という。蘇武の子が死んだため子孫が絶えるのを哀れんだ昭帝の命により、のちに父のもとに行くことになる。
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