後期対匈奴第四次戦役
天漢二年(前九九年)
夏、五月、武帝は貳師将軍李広利に命じ、三万の騎兵をもって酒泉から出撃させた。
李広利は、天山(祁連山)一帯にて匈奴右賢王を襲撃し、一万余人を捕虜または斬首し、帰還した。途中、匈奴の重兵に包囲され、漢軍は数日間も糧食が欠乏し、死傷者を多数出した。
仮司馬(副統制官。校尉の属官)の隴西(陜西省臨洮(とう))の人、趙充国は精兵一百余人を率いて血路を開き、李広利は大軍を率いてその後に続き、ようやく脱出できた。今回の戦いでは、漢軍の戦死者は十分の六七に達し、趙充国の負傷個所は二十余創もあった。李広利が朝廷に上奏すると、武帝は趙充国を行在所(皇帝外出時の居所)に召した。彼の傷痕をみずから観察すると、嘆息して止まず、趙充国を中郎(近従)に封じた。
武帝はまた、因杅(う)将軍の公孫敖に西河郡(陜西省府谷の西北)から出撃するよう命じた。公孫敖は強弩都尉の路博徳と涿(たく)塗山(ゴビアルタイ山脈)にて合流したが、なんの収獲もなかった。
当初、名将李広の孫である李陵は侍中であったが、騎馬弩弓の術に精通し、士卒を愛し、士大夫にはうやうやしく接していた。武帝は李陵が祖父李広の風格を持っていると思い、騎都尉に封じ、丹陽(安徽省馬鞍山市東南)と楚の地方出身の兵士五千人を率いて、酒泉(甘粛省酒泉)、張掖(甘粛省張掖西北)一帯にて弩弓の射撃を教え、匈奴を防ぐよう命じた。貳師将軍の李広利が出撃するとき、武帝は李陵を召して、李広利の輜重部隊を護衛するよう命じた。李陵は叩頭して言った。
「わたしめが率いている辺塞駐屯の兵士たちは、みな楚の地の勇士と奇才剣客であります。手で猛虎を捕らえるほどの力があり、弩は百発百中と申せます。わたしみずからこの部隊を率い、蘭于山以南の地に進出します。目的は匈奴単于の兵力を分散させ、匈奴の全軍が集中して貳師将軍に向かわせないようにしたいと存じます」
武帝は言った。
「そなたはほかの者の指揮下に入りたくないのか!今回、大軍を出兵させるつもりじゃから、そなたには馬の分配はないぞ」
李陵は言った。
「わたしは騎馬隊によらず、少数をもって多数を撃ちたいと存じます。歩兵五干を率いて単于の王庭に踏み込みます」
武帝は李陵を壮として、求めに応じた。李陵が帰還するとき、途中まで出迎えるよう路博徳に命じた。(かつて伏波将軍だった)路博徳もまた李陵の後援部隊になるならば恥辱であると考え、上奏した。
「今まさに秋たけなわであります。匈奴の馬は肥え、戦うには適しません。李陵を今しばらく待機させ、来年春にともに出撃させてくださいますよう」
それと知った武帝は激怒した。李陵が怯えて出征を後悔し、路博徳に上書させたのではないかと疑ったのだ。武帝はすぐさま、詔を下した。
「路博徳は西河にて匈奴を討て。また、李陵は九月に居延(内蒙古・額済納旗[エチナ]東南)の遮虜障(額済納旗[エチナ]東。路博徳が築いた砦)から出撃し、東浚稽山の南の龍勒水あたりまで威力偵察をおこない、もし敵の影が見られなければ、受降城(内蒙古の烏拉特[ウラト]中旗の東陰山北。太初元年[前一〇四年]、公孫敖が築いた要塞)まで退き、士卒を休息させよ」
そこで、李陵は五千の歩兵を率いて、居延を出て北へ進み、三十日後に浚稽山(ゴビアルタイ山脈の北方)にて宿営した。途中通過した山川の地形を描いて地図を作り、騎兵の陳歩楽に持たせて長安に上奏した。武帝は陳歩楽を接見した。陳歩楽は、李陵は強者どもを率い、国のために死力を尽くす覚悟ですと報告した。武帝はたいへん喜び、陳歩楽を郎官(護衛官)に封じた。
ところが李陵は浚稽山まで進むと、匈奴の欒提且鞮(てい)侯単于みずから率いる主力軍と遭遇した。匈奴約三万騎は李陵の部隊を包囲した。李陵は二つの山の間に移動し、輜重車でぐるりと囲んで営塁を作り、みずから士卒を率いて営外に戦陣を組んだ。前列は戟と盾を持ち、後列は弓と弩を持った。
「軍鼓の音で前進、鉦の音で後退せよ」
匈奴兵は漢軍が少数であると見ると、陣地の直前まで肉薄した。李陵は兵士を指揮して迎撃し、白兵戦を展開した。李陵軍が千張の弩を一斉に発射すると、匈奴兵は弦の音に応じてつづけさまに倒れた。匈奴が山の上に退くと、漢軍は追撃して数千人を殺した。単于は驚愕し、東西から八万余騎の大増援部隊を呼びよせ、李陵を攻撃した。やむなく李陵は士兵を率いて戦いながら南へ撒退し、数日後には、ある山谷の中に到った。李陵軍は休む間もなく戦い、士卒のほとんどは身に矢傷を負った。負傷三創の兵士は車上に横たわり、負傷二創は車を押し、負傷一創は武器を持って戦いつづけ、さらに匈奴三千余人を斬り殺した。
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『中国成語故事』 「振臂一呼」
上海人民美術出版社 |
李陵は兵を率い、さらに龍城への古道に沿って東南へ撤退した。四五日後、葦の茂る大きな沼沢の中(大沢)に到った。匈奴は風上から火を放ち、李陵たちを焼き殺そうとした。李陵もまた兵士たちに命じ周囲の葦に火を放って対抗した。李陵軍はつづけて南行し、ある山の下に到った。単于は南側の山の上におり、息子に騎兵を率いて李陵軍へ突撃するよう命じた。李陵軍は樹林の中で交戦し、さらに匈奴兵数干人を殺した。(十本あるいは三十本など多数の矢を同時に射ることができる)連弩を用いて単于を射撃すると、単于は下山して逃げた。この日、俘虜になった匈奴兵は李陵たちに言った。
「単于が申しますのには『これは漢の精兵だ。いくら猛攻しても撃滅できない。彼らは日夜、われらを南に導き、しだいに漢の要塞に近づいている。実は伏兵があるためではないか?』
当戸、君長(いずれも匈奴官名)たちは口々に言いました。『単于がみずから数万騎を率いて漢軍数干人を攻撃したのに、彼らを倒せないなら、これからは匈奴に従っている他部族に号令することは、もうできませぬ。漢も更に匈奴を軽く見ることでありましょう。ですから山谷中で再度力戦をつづけ、四五十里行けば平原になります。そこでも勝てなければ帰りましょう』と」
このとき、李陵軍の状況はますます悪化していた。匈奴の騎兵は多勢で、一日に交戦すること数十回、李陵軍はまた匈奴二干余人を殺傷した。匈奴は戦いが不利なため、兵をまとめて去ろうとした。
だが、まさにそのとき、李陵軍の中に管敢という名の軍候(大隊長)が、校尉(連隊長)の侮辱を受け、匈奴軍に投降した。そして、李陵軍の実情をつまびらかに告げた。
「李陵部隊は後援なく、射るべき矢も尽きようとしています。ただ李将軍の直衛と校尉の成安侯韓延年(南越討伐のとき戦死した韓千秋の子)のそれぞれ八百人が先導して道を開いており、黄旗と白旗をもって旗印としています。精鋭なる騎兵で彼らを射殺すれば、李陵軍はすぐさま撃破できます」
単于は管敢の告白を得て、大いに喜び、騎兵に李陵軍へ一斉攻撃をかけるよう命じ、同時に大声で叫ばせた。
「李陵、韓延年、疾く降服せよ!」
ふたたび李陵軍の退路を断ち、猛攻をしかけた。李陵の部隊は谷の中に追われた。山の上に陣取った匈奴軍は、四方から射撃し、矢が雨のように降り注いだ。李陵はつづいて南へ退却したが、鞮(てい)汗山(居延の北)に着く前に、一日で五十万本の矢(一説に、一日は百の字の誤りで、車載百五十万本のこと)をすべて使い果たしてしまった。すぐさま輜重車を放棄し、つづけて進んだ。
このとき李陵軍の士兵はまだ三干余人が生き残っていた。だが、(文字どおり、矢尽き刀折れ)ただ車輪の輻条(スポーク)を切り落として武器とし、本営事務官も手に(木簡刻字用の)小刀を持って戦列に加わった。李陵軍が渓谷に入ると、単于はみずから兵を率いて退路を断ち、匈奴兵を指揮して山上の巨石を谷へ落とした。李陵軍は多数死亡負傷し、進むことができない。陽が暮れると、李陵はただ一人私服に着替えて陣より出ようとし、部下を止めて言った。
「わしについてくるな。大丈夫たるもの一人で単于を生け捕りにする!」
しばらくして、李陵は陣営にもどり、嘆息して言った。
「われらは敗れた。ここに死すのみ!」
そしてことごとく旌旗を折り、褒賞のための珍宝を地下に埋めた。
李陵はふたたび嘆いて、
「もしあと数十本の矢があれば、われらは包囲を突破できるのだが。今や、戦うべき武器もない。夜が明ければ坐して捕らわれるのみ。各々分散して走れば、敵の手から逃れえて、天子に報告できる者がいるやもしれぬ」
そこで、将士に毎人二升の乾糧と、一片の氷を持たせ、遮虜障にて落ち合おうと約定した。夜半、李陵は戦鼓を叩いて将士らを起こしたが、戦鼓の皮革はすでに破れ、鳴ることはなかった。李陵と韓延年はともに軍馬にまたがり、十数名の壮士がつづいた。数千の匈奴騎兵が追撃し、韓延年は戦死した。
李陵は言った。
「どの面下げて陛下にご報告できようか!」
李陵はついに投降した。その他の兵士は分散して逃げた。包囲を突破し、辺塞の遮虜障まで逃げもどれた者は四百人ほどであった。李陵軍が崩壊した地点は遮虜障からわずかに一百余里(四十余キロ)であった。
もし路博徳の出迎え部隊が来ていれば、李陵軍は全滅しなかったはずである。
遮虜障の守将は朝廷に李陵軍の全滅を上奏した。武帝は李陵が死ぬまで戦うことを望んでいた。だが、後から李陵が匈奴に投降したと聞くと、はなはだしく怒り、陳歩楽を問い詰めた。やむなく、陳歩楽は自殺した。満朝すべての大臣は異口同音に李陵は有罪だと述べた。武帝は太史令の司馬遷にも考えを聞いた。
司馬遷は、李陵のために口をきわめて弁護した。
「李陵は父母には孝順であり、士大夫には信義があり、つねに身を顧みずに奮闘しており、彼は国家の危難に殉ずると申しておりました。これがまさに彼の常日頃の志であり、すこぶる国士の風格がございます。今、出征してたままた不幸にも敗れましたが、じぶんの身と妻子を守るに汲々としている家臣たちが、彼の罪を捏造するのを見るのは、まことに心痛むものです!そのうえ李陵は五干に満たない歩卒をひっさげ、戦馬の地へ深く入り、数万の敵軍に抵抗しました。匈奴は負傷した兵士を扶ける暇もなく、弓を引けるすべての兵士を動員し、李陵を包みこんで攻めたてました。李陵は転戦すること千里、矢は尽き、道は窮まり、将士たちは空の弩弓を持ち、白刃を冒し、北へ向かって敵と生死をかけて戦い、部下は必死に力を尽くしました。たとえ古代の名将であっても、これほどではありません!李陵は兵敗れたりとはいえ、匈奴への打撃は彼の名を天下に知らしめるに足ります。李陵が死節を全うしないのは、機会を得て国家に報いるためであります(単于に近づいて刺殺するつもり)」
だが、武帝は、司馬遷が嘘を述べて(武帝お気に入りの)李広利を貶め、李陵を弁護しようとしていると怒った。そこで司馬遷を宮刑(去勢。男性器切除)とした。
ずいぶんと後に、武帝は李陵に後続部隊を送らなかったことを後悔して言った。
「李陵が出撃したときを見計らって、強弩将軍路博徳に、李陵の帰途に出迎えるよう命じるべきであった。だが、わしが早く詔書を下しすぎたため、老将の路博徳は恥と考え、わしをあざむきおったのだ」
そこで使者を派遣し、逃れてきた李陵の残兵に慰労と賞賜をあたえた。
4本年、武帝劉徹は、漢朝に降服した匈奴の介和王成娩を開陵侯に封じ、楼蘭国の兵を率いて車師国を攻撃させた。匈奴は、右賢王を派遣し、数万騎を率いて楼蘭国を救援した。漢軍は、勝利できず、撤退した。