陸軍南方作戦概要

 日本がアメリカ・イギリスと戦争状態に入った最大の原因は、石油をはじめとする戦略物資の輸入を禁止されたことにありました。そのため、ほっておけば石油が枯渇して戦う前に陸海軍は無力化して、抵抗する力を失ってしまいます。そのため、太平洋戦争開戦後真っ先に行わなければならなかったのは、東南アジアに点在する資源の供給基地を支配下に置くことでした。ここでは、陸軍の南方作戦についての概要を書きたいと思います。

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作戦計画の策定

 陸軍が南方作戦について具体的な研究に入ったのは、1940年(昭和15年)頃でした。当初は、蘭領インドネシアを奇襲占領して、必要に応じてマレー半島とシンガポール要塞を攻略するというものでした。しかし、1940年(昭和15年)12月、「台湾軍研究部」という現地における南方作戦研究機関が設立され、敵軍の情報や兵要地誌の作成を行う過程で、マレー半島とシンガポール要塞を攻略せずに蘭領インドネシアを攻撃するのは不可能という結論に達しました。
 そのため、1941年(昭和16年)初めには、マレー半島とシンガポール要塞を攻略した後に蘭領インドネシアを攻略するという2段階の作戦に変更されました。
 シンガポール要塞は海上に向かっては難攻不落を誇っていたので、比較的防御の手薄なマレー半島北部に上陸して陸路シンガポール要塞を目指すという案が採用されました。対米戦を避けるためこの時点ではあえてフィリピンは攻撃しないという考え方をとっていました。
 一方海軍側でも、当初は蘭領インドネシアだけを占領するという案でしたが、1940年(昭和15年)11月下旬に実施された連合艦隊図上演習の結果、蘭領インドネシアの占領は対米英戦につながり、その場合フィリピンのルソン島にあるアメリカ軍の航空基地が障害となるためフィリピン攻略を行わなければならないという結論に達しました。
 1941年(昭和16年)初頭、陸軍はマレー半島とシンガポール要塞攻略後に蘭領インドネシア攻略を主張し、海軍はフィリピン攻略後に蘭領インドネシア攻略を主張して対立しましたが、対米英戦に拡大してフィリピン、マレー両方を攻略しなければならないという点で一致しました。しかし、陸軍はシンガポール要塞の防備が強化されないうちに攻略してフィリピン攻略は後回しにすべきという考えで、海軍は対米戦のために真珠湾奇襲とフィリピン攻略を重視していました。

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航空優性の確立

 南方作戦の成否を決めるのは、いかにして制空権を確保するかという点でした。この問題を解決するために、海軍側は零戦に落下燃料タンクを搭載して台湾南部からルソン島のアメリカ軍基地を攻撃して制空権を確保するとともに、初期にルソン東北部を占領して航空機部隊を進出させることにしました。陸軍側は対ソ戦に備えて満ソ国境地帯に航続距離は短いものの運動性能に優れた戦闘機部隊を多数配置していました。しかし、海上での行動経験がない陸軍の航空部隊では長距離の海上飛行は難しいので、ミンダナオ・ボルネオ・セレベス・スマトラの敵航空基地を占領してそこに航空機部隊を進出させジャワ周辺の航空優性を確保することになりました。

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作戦計画の最終調整

 多数の目標に対して同時に上陸作戦を行うためには大量の船舶が必要となり民需を圧迫する恐れがあり、また中国やソ連に対しても備えが必要であったため、敵軍の多くが植民地軍で士気・装備・練度において劣っているため、少数精鋭の部隊を活用することになりました。
 1941年(昭和16年)9月から陸海軍統帥部は協議を重ねて、図上演習を行い細部の詰めを行いました。10月20日には真珠湾攻撃が決定され、これとおおむね同時刻にマレーの空襲と上陸を開始することになり、10月下旬の陸海軍中央協定で合意しました。
 11月7日は、東京で南方作戦全般に関する陸海軍最高司令官協定が結ばれました。この内容は、作戦日程を練り上げて開戦80日後にジャワ上陸を行うように修正が加えられました。海軍側はシンガポール要塞に急遽派遣された2隻の英戦艦相手にマレー半島上陸部隊を護衛するのは困難と難色を示しましたが、最後はこの作戦の必要性を認めた小沢南遣艦隊司令長官の決断で、小沢艦隊、陸軍航空部隊、海軍航空部隊の一部で援護することになり、マレー上陸問題も解決して、作戦計画が完成しました。


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