文 / 樺山紘一
古代ローマは、先を行くギリシアを打倒して、覇権を握りました。もっとも、文化という側面では、なかなか影響下を脱出できません。
けれども、ローマには底力がありました。ギリシア征服から1世紀もたち、長い内戦状態を克服して豊かな平和が訪れるころ、つまり最初の皇帝アウグストゥス(オクタヴィアヌス)時代、ローマにはにわかに文運の栄えが。卓抜の抒情詩人ホラティウスを筆頭に、ローマ建国の叙事詩『アエネアス』のヴェルギリウス、それにプロペルティウス、オヴィディウスといった名だたる奇麗星が、いっせいに輝きはじめます。紀元前1世紀の後半のことでした。
その詩才たちの群れのなかに、ひとりのユニークな男が立っています。ガイウス・マエケナスという大パトロンが。おそらくは、ロ-マの先住民族であるエトルリア人の、しかもその王族に連なるという名家の出身。巨富をもとに政略をも身につけ、ローマで重きなしつつある、あのアウグストゥスの内政外交の顧問として重用されます。内訌の難局を二人がついに乗りきったとき、ローマには未曾有の平和が訪れたというわけです。
マエケナスは、これで公的活動から引退。あとは詩人たちの支援に本身を入れます。豪壮な邸宅をしつらえ、詩人たちをそこに迎えて、力強く支えつづけることになったのでした。当人はといえば、いたって凡庸な詩作ばかりだったといわれますが。
史上最初の芸術支援者とよばれました。マエケナスというラテン名をフランス語読みしてメセナ。つまり、メセナ活動の発案者だというわけです。もちろん、発明者というのは、言いすぎでしょう。けれども、歴史上に燦然たるローマの文華をよびおこした支援者として、マエケナスの名が永遠に輝くことは疑いがありません。
個人の発意と負担をもって、芸術支援に向かうこと。義務による責務感や利益への強欲ではなく、ただひたすら芸術文化の創作・保全・保護・普及それ自体のために、財力と労務とを惜しげもなく投入すること。いま、わたしたちはこれをメセナの名でよびます。ローマ帝国は、はるか昔に姿を消しましたが、ガイウス・マエケナスの名は不滅のまま、いまもわたしたちに霊感を与えつづけています。
樺山紘一 (かばやま・こういち)
1941年、東京生まれ。1965年、東京大学文学部卒業。京都大学人文科学研究所助手。東京大学文学部助教授、教授を経て、2001年から国立西洋美術館長、2005年から印刷博物館館長、現在にいたる。東京大学名誉教授。専門は、西洋中世史、西洋文化史。専門領域を越えて、世界の歴史・文化全般にわたって、幅広く研究・著述を続けてきた。主要な著作には、次のようなものがある。『ゴシック世界の思想像』(1976年、岩波書店)『カタロニアへの眼』(1979年、刀水書房)『西洋学事始』(1982年、日本評論社)『パリとアヴィニョン』(1990年、人文書院)『異境の発見』(1995年、東京大学出版会)『ルネサンスと地中海』(1996年、中央公論社)『地中海 人と町の肖像』(2006年、岩波書店)。