【東日本大震災】No.61 死者ゼロ
   15.5メートルの巨大防潮堤と水門が救った村

2011.04.27

太田名部漁港を襲った津波 =3月11日午後3時27分頃(普代村提供)

壊滅的被害を受けた太田名部漁港(防潮堤の左側)と護られた集落。防潮堤の右側に浸水の形跡は見当たらない=3月11日午後、岩手県普代村(普代村提供)

引き波で海底のテトラポットがあらわになった太田名部漁港=3月11日午後(普代村提供)

津波から一夜明けた普代村太田名部地区。左側の漁港は壊滅的な被害を受けたが、防潮堤をはさんだ集落は被害を免れた =3月12日午前(普代村提供)

 東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸にあって、岩手県普代村は死者ゼロ、行方不明者1人にとどまった。被害を食い止めたのは、かつて猛反対を受けながらも村長が造った高さ15.5メートルの防潮堤と水門。そして震災当日の消防士の献身的な行動だった。

    

 ■ もう少し低かったら…

 久慈消防署普代分署の副分署長を務める立臼勝さん(50)は「水門の高さがもう少し低かったら、村にはすごい被害が出ただろう。もちろん私の命もなかった」と振り返る。

 3月11日の地震直後、自動開閉装置の故障を知った立臼さんは、村を流れる普代川の河口から約600メートル上流にある水門に向かって消防車を走らせた。故障したゲートを閉めるには水門上部の機械室で手動スイッチを使うしかないからだ。津波の危機感はあったが、「まさか、あれほど大きな津波がくるとは思っていなかった」。

 機械室に駆け上がって手動スイッチに切り替えると鉄製ゲートが動き、ほっと一息ついた。消防車に乗って避難しようとしたとき、背後から「バキ、バキッ」と異様な音がするのに気付いた。普代川を逆流してきた津波が黒い塊になって防潮林をなぎ倒し、水門に押し寄せてくる音だった。アクセルを踏み込み、かろうじて難を逃れた。

 津波は水門に激突して乗り越えたが勢いはそがれた。水門から普代川上流にさかのぼってほどなく止まり、近くの小学校や集落には浸水被害はなかった。

 立臼さんは「高い水門をつくってくれた和村さんのおかげ」と話した。

 ■ 名物村長の〝遺言〟

 和村さんとは、昭和22年から10期40年にわたり普代村の村長を務めた和村幸得さんのことだ。昭和8年の三陸大津波を経験し、防災対策に力を入れた村長だった。

 村では明治29年の大津波で302人、昭和8年の大津波でも137人の犠牲者を出した歴史があり、和村さんは「悲劇を繰り返してはならない」と防潮堤と水門の建設計画を進めた。昭和43年、漁港と集落の間に防潮堤を、59年には普代川に水門を完成させた。

 2つの工事の総工費は約36億円。人口約3千人の村には巨額の出費で、建設前には「高さを抑えよう」という意見もあった。だが、和村さんは15.5メートルという高さにこだわった。

 普代村住民課長の三船雄三さんは「明治の大津波の高さが15メートルだったと村で言い伝えられていた。高さ15の波がくれば、根こそぎやられるという危機感があったのだろう」と話す。和村さんは反対する県や村議を粘り強く説得し、建設にこぎつけた。

 村長退任時のあいさつで職員に対し「確信を持って始めた仕事は反対があっても説得してやり遂げてください」と語ったという和村さん。三船さんは「当時の判断が村民の命を守ってくれた、とみんな感謝している」と話している。

4月9日、上から2番目の写真とほぼ同じ場所から撮った太田名部漁港。防潮堤右側の集落の家屋に、津波による浸水の被害が無かった分、復旧は早かった。だが、漁業への甚大な被害から立ち直るにはまだまだ、時間がかかりそうだ (荻窪圭撮影)

15.5メートルの巨大防潮堤と水門の位置関係図(写真は東日本大震災前 普代村提供)

水門前で津波が襲ってきた様子を語る久慈消防署普代分署の立臼勝副分署長=23日午前(梶原紀尚撮影)

東日本大震災後の水門付近の様子(普代村提供)

三陸大津波で壊滅した普代村大田名部地区 =昭和8年(普代村提供)

和村幸得・普代村元村長(普代村提供)

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