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【プロ野球】

小笠原2000安打決めた 史上4位のスピード到達

2011年5月6日 紙面から

8回裏1死、小笠原が中前打を放ち通算2000安打を達成。捕手城島=東京ドームで(由木直子撮影)

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◇阪神2−1巨人

 巨人の小笠原道大内野手が5日、阪神戦で史上38人目となる通算2000安打を達成した。残り1本と迫って迎えたこの日、8回の第4打席に小林宏から中前打。開幕から続いた極度の打撃不振に苦しみながら、4万5313人で埋まった本拠地で決めた。通算1736試合目での到達は、日本球界では川上哲治、長嶋茂雄、張本勲に次ぐ歴代4位のスピード記録。高校時代は無名だった選手が、たゆまぬ努力で名球会までたどり着いた。

 代名詞のフルスイングから放たれた打球が二遊間の真ん中を破る。小笠原は反射的に「ヨシッ」と叫んだ。ついに2000安打。ここで打たなければ本拠地達成が絶望となった8回の“ラストチャンス”で決めた。スタンドは総立ち。チームメートの坂本、阪神の新井貴から花束を受け取ると目が潤んだ。

 苦しみ抜いた。打率はこの日を終えてリーグワーストの1割6分9厘。通算打率が現役トップの男が、重圧で打撃を崩していた。残り11本で今季を迎えながら、17試合、72打席を要した。「自然と意識して力が入っていたかも。チームに迷惑をかけた」。会見中も目は光ったままだった。

 平凡だった野球少年が超一流プレーヤーへと駆け上がった。たぐいまれな立身出世のストーリーは、人並み外れた努力で形作られた。

 暁星国際高には、スカウトされて入学したわけではなかった。監督だった五島卓道氏(56=現・木更津総合高監督)は言う。「千葉西シニアに欲しい選手がいたんだけどまだ2年生だった。代わりに『頼む』とお願いされたのが、どこからも声がかからない小笠原だった」。3年間で本塁打はゼロ。2年秋から転向した捕手としても目立たない。NTT関東には五島氏が「通算30本塁打」とうそをついてテストに臨ませた。ポジションはあくまで捕手。理由は「選手で駄目になってもカベ(ブルペン捕手)で残れるから。プロになる選手と思ったことはない」。

 ただ、NTT関東で臨時コーチだった元阪神・田宮謙次郎氏(故人)との出会いが岐路になる。その教えは「上体を突っ込まずに打て」。後に野球殿堂入りする田宮氏の指導を元に編み出したのが、現在とほぼ同じフォーム。日本ハムでも打撃センスはすぐに見いだされた。1年目の春季キャンプ。当時の上田利治監督はフリー打撃を見るなり「掛布(雅之)を超える打者になるぞ」と言った。チームメートだった落合博満(現中日監督)には「早く捕手をやめちゃえ」と打力を認められた。入団3年目、「実は一番嫌なポジションだった」という捕手から一塁手に転向して開花した。

 高校、社会人時代から練習量はチーム一。それは地位を確立した今も変わらない。自宅では座敷でくつろぐ時間を好んでいたが、07年に左ひざを手術すると部屋をリフォーム。いす中心の生活に変えた。食事の席ではテレビに向かって首を回す負担さえも嫌い、画面を真正面で見られるようにリビングの模様替えまでした。努力こそすべて。日々の小さな積み重ねで、球史に残るスラッガーに成長した。

 次の目標は3000安打になる。「先が見えない数字なので、2001本目を打てるように頑張る」。おごらず、偉ぶらず。どこまでも謙虚な37歳の戦いは続く。

  (永山陽平)

 

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