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32年前は〝企業戦争〟だったオールスター戦

2011年05月05日
スポーツ

関連キーワード :プロレスオールスター戦

【8・27オールスター戦「ALL TOGETHER」連載:2】
32年前の「夢のオールスター戦」は3団体がお互いに生き残りをかけた〝企業戦争〟だった。今回開催の新日本、全日本、ノア3団体による「東日本大震災復興支援チャリティープロレス」とはおのずから性質、目的が全く異なる大会だ。前者は「争」であり、後者は「和」の大会である。
1970年代のマット界。表向きは新日本、全日本、国際の3団体時代ではあったが、実態は2強1弱だ。
当時の年間興行数は新日本と全日本が200試合強、国際が150試合前後。営業力の差が「夢のオールスター戦」にも反映される。当然、国際の発言権は弱いわけだ。
大会運営のイニシアチブは常に新日本、全日本が握り、国際の場合は事後承諾のケースが多かった。カード編成ばかりではなく、実務面でもハンディがついた。
その実例はチケットの割り当て数、パンフレットの販売部数だ。パンフレットは主催者・東スポ発行(1部500円)である。チケット、パンフレットともに新日本と全日本で7割、国際が3割だった。故吉原功国際社長が「何でパンフレットの(割り当て)部数まで違うんだ。3団体平等のはずじゃなかったのか」とよく筆者に噛みついてきたものだ。
その弱い立場の国際は、新日本と全日本に挟み撃ちにされ、興行戦争からスポイルされる。
新日本には〝仕掛け人〟と言われたアントニオ猪木の知恵袋・新間寿営業本部長、全日本にはジャイアント馬場の軍師・故米沢良蔵渉外部長がいた。国際には看板選手だけでなく、トップを支えるブレーンがいなかった。
この「夢のオールスター戦」を境に経営体力をすり減らし、81年6月、東京12チャンネル(現テレビ東京)が放送を打ち切り。これが致命傷となって同年8月、北海道・羅臼大会を最後に消滅する。今回は3団体のバランスが取れており、このようなことは起きないだろう。調和の大会となるはずだ。
(門馬忠雄)
 紙面では毎週金曜掲載

※写真は32年前のオールスターで対戦した国際のエース・ラッシャー木村とストロング小林

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