2011-05-03
■津原泰水氏と川上未映子氏の件について
以下は、ツイッターでの応答として書いたものですが、長くなったのと字数調整するのが面倒なのでこちらにアップします。事情をご存じない方には不親切な内容ですが、そういう性質のものなのでご勘弁を。
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.@y_kurihara 栗原先生、お久しぶりです。先日、川上未映子問題に就いて御見解を求めた者です。先生の本を読みもせず失言を発したこと、改めてお詫び申し上げます。その節は、誠に失礼いたしました。御本を拝読し、大変な労作だったということが知れ自らの愚鈍さをを恥じている次第です。
http://twitter.com/ikamusumeM2/status/65046723847917568
.@y_kurihara 大変勉強になりました。早速ですが可能な限りこちらの素性を明かしたうえ、御本を拝読させて頂きましたので本件に就いての御見解を頂きたいのですがよろしいでしょうか。よろしくお願い致します。
@ikamusumeM2 お読みくださりありがとうございます。まず、あなたの素性に関してですが、「烏賊娘」というハンドル、「27歳」「男」「フリーター」「作家志望」ということしかうかがっておりません。ツイッターアカウントを見ても本名はおろかメールアドレスの記載もない。これでは実質的に匿名と変わりありません。
ざっと拝見したところあなたはツイッター上などで、市川真人氏らに対して応答責任を強調した追求を展開しておられます。いまこうして応答していることで私にも責任が生じています。市川氏らや私は名前を明らかにすることで責任の所在を示し負っているわけです(黙殺するにしても)。
当然ながら追求する側つまりあなたにも責任は生じています。その所在を明らかにするものがすなわち「素性」であるわけです。アカウントごと消せばバックレられる程度の個人情報など「素性」とは認められません。他人に対してこれだけ執拗に応答を呼びかけているのだから、最低限、本名と連絡先くらいは明示する義務があると考えますがいかがでしょうか。
というわけで、以下のメモは、烏賊娘氏の要請とは無関係に、私個人がすでに持っていた所感と一般論を開示するものです。これ以上なにか話せというのなら「素性」を明らかにした上でよろしく。そうでない場合は無視します。
なおこの件に関しては、津原氏BBSや2ちゃんねるの最新スレッドなどを拾い読みした程度で状況を把握しているとは言い難いので(ログが多すぎる)、津原泰水「黄昏抜歯」と川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』だけに話を絞ります。両作は読んでいますが(川上作は発表時、津原作は最近)、突き合わせるなどはしていません。
○市川真人氏らが、烏賊娘氏がツイッターで飛ばしているメンションを無視しているのは判断として妥当である。理由は上に述べたとおり。津原泰水氏による市川氏宛公開メッセージについては、応答義務は必ずしもないが(黙殺する自由というのもある)、作家がその名の下に発したものなのだから、文芸批評家/編集者という看板を掲げている以上、市川氏は応答するべきであったと思う。
○津原―川上問題は、ジャンルは違うが、黒澤明『天国と地獄』アイディア盗用事件に似たケースに表面的には見える(内実はまた別問題である)。石堂藍氏の見解は、川上作を必要以上に貶す感が強く、アイディアの取り扱いにもちょっと異論があるが、それら以外はおおむね妥当であると思う。田中和生氏の見解は氏特有の文学観ゆえか「疑わしきは罰す」になっており理解できないところがある。
○一般論として。文学をめぐる盗作問題には判例が数えるほどしかなく、巷間いわれる「盗作」はほぼ著作権侵害にはあたらない。したがって大抵の場合、「文学的」or「モラル的」に「盗作」であるか否かという話になるのだが、これといった基準がないので、各人の主観(文学観)やその時代のイデオロギーなどによって判定は揺らぐ。
○津原―川上の件も法的にはまず問題になるようなものではない。「文学的」「モラル的」に問題を求めるとすれば、中心となるモチーフの類似となるが、無意識であれ参照したか(依拠性)については、川上氏が津原作を読んでいた蓋然性は状況的に高いように思われる。ただし、川上―市川サイドが黙秘あるいは否定するにせよ、津原サイドが蓋然的事実とするにせよ、証明は難しいのでおそらく水掛け論に終わる。
○川上氏が津原作からモチーフを無意識にせよ借りたと仮定して(あくまで仮定ね)、「アイディア盗用」として「モラル的」「文学的」に問題とされるべきか否か。表現的には両作はまったく別物といえるが、川上作への評価のうち、中心となるモチーフ(歯に自我が宿る/自我を宿す)の発想への称賛が少なくなかったことを考えれば(たしか。ちょっと記憶があいまい)、川上作に対する評価には見直されてしかるべき面があると思われる(くどいが仮定の上での話ね)。
○著作権法的には、表現は保護されるがアイディアは保護されない、平たくいうとモチーフやプロットはパクってもOKというのが通念になっている。「盗作」についても著作権法にまつわるこの通念が流用されることが多いが(石堂氏もそうしている)、福井健策『著作権とは何か』(集英社新書)がいうように実際は程度の問題であって、アイディアと表現とのあいだに必ずしも明確に線を引けるわけではない。
○したがって、著作権法の考えを援用して「文学的」に「盗作」を問うのであれば、まず津原作のアイディア(モチーフ)の創作性を判定し(先行類例があるか、独創性があるかなど)、津原モチーフに創作性があると判断した場合、川上の類似モチーフが表現、作品をどの程度支配し規定しているかを検討するというのが文芸評論家といった人たちのするべき議論ということになるだろう。「見直し」とはそういう意味である。
○ただし以上は、川上氏が津原作を読んでおり参照していた、という仮定の上での話なので、とりあえずの落としどころとしては、津原氏と川上氏、市川氏が見解を交わすのがいいんじゃないかと思われる。が、これまでの経緯からするに実現は難しそうである。
○ざっと見たところまだ検討されていないこととして、川上氏が「歯に自我が宿る/自我を宿す」というモチーフにどうたどりついたか、というのがあると思った。彼女のデビュー時にはたくさんインタビューなどが出たはずなので、どうせ追求するのなら、細部の詰まらないあげつらいとかをやってる暇に、そういった発言をちゃんと拾うべきである。「自作を語る」的エッセイとかも(あれば。あるかどうか知らないが)。ぜんぜん別筋から来ている可能性だってあるわけだから。
○もっとも津原氏の意図はそもそも、川上未映子氏のあまりに早い新潮新人賞選考委員就任に象徴される「文壇」の状況を告発し問題として浮上させることにあったように見受けられ、その意図がどのくらい達せられたかは判断がつかないが、まあ「壇」ってもうどうしようもなくそういうもんだよね、というのがいちばんの感想ではある。田中和生氏にしたって、読者がその名前を認識するかしないかのうちという電光石火で群像新人賞選考委員にまで登り詰めているわけで。
○最後に、どうせ詮索されることになるだろうから前もっていっておくと、川上氏とは作家デビュー前から面識があります。飲みに行ったりとかそういうつきあいはない。作家デビュー後はこれといったやりとりはなくて、とある媒体のインタビューで会ったくらいか。津原氏にも一度お目にかかっている(津原さんがご記憶かはわからない)。『わたくし率 イン 歯ー、または世界』は書評で褒めた。評価した点は、モチーフと文体、および構成である。
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