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Exhibition 展覧会情報
《燃える人》1955年 東京国立近代美術館蔵
《燃える人》1955年 東京国立近代美術館蔵

生誕100年 岡本太郎展
開館日時の詳細はトピックスをご参照ください

Okamoto Taro ― The 100th Anniversary of His Birth
2011.3.8-5.8
会場

東京国立近代美術館 企画展ギャラリー

会期

2011年3月8日(火)~5月8日(日)

開館時間

10:00-17:00 (金曜日は10:00-17:00)
※入館は閉館30分前まで
※金曜日の夜間開館は中止いたします。なお状況により開館日時の変更の可能性もございます。

休館日

※開館日時の詳細はトピックスをご参照ください。

月曜日[3月21日、3月28日、4月4日、5月2日は開館]、3月22日(火)
月間カレンダーもご参照ください。

一般1300(1100/900)円
大学生900(800/600)円
高校生400(300/200)円

※( )内は前売/20名以上の団体料金。いずれも消費税込。

中学生以下、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料。
※それぞれ入館の際、学生証等の年齢のわかるもの、障害者手帳等をご提示ください。

※本展の観覧料で入館当日に限り、同時開催の「空虚の形態学」(ギャラリー4、2F)、所蔵作品展「近代日本の美術」(所蔵品ギャラリー、4-2F)もご覧いただけます。

※チケット取り扱い(前売/当日):電子チケットぴあ(Pコード:764-418)、ローソンチケット(Lコード:33340)、CNプレイガイド、イープラス、JTB、セブン-イレブンほか主要プレイガイド、東京国立近代美術館・川崎市岡本太郎美術館・岡本太郎記念館(各館ともに開館日のみ)

※前売券および早割りペアチケットの販売は終了しました

主催

東京国立近代美術館、川崎市岡本太郎美術館、NHK、NHKプロモーション

特別協力

岡本太郎記念現代芸術振興財団

協賛

みずほ銀行、三井住友海上火災保険

協力

NECディスプレイソリューションズ

2011年は、岡本太郎(1911-1996)の生誕100年にあたります。これを記念して、岡本太郎がめざしたものの今日的意義を探る展覧会を開催します。
 岡本太郎といえば、1970年の大阪万博のシンボル《太陽の塔》、そして「芸術は爆発だ」をはじめとするインパクトにみちた発言、数々のテレビ出演など、 20世紀後半の日本において、最もよく知られた芸術家のひとりといえるでしょう。1996年に没してからも、若い世代を中心に、再び彼に関心をもつ人々が増えてきています。1998年には生前のアトリエが岡本太郎記念館として公開され、1999年には川崎市岡本太郎美術館が開館、さらに近年は巨大壁画《明日の神話》がメキシコで再発見されて2008年に渋谷に設置されるなど、彼をめぐる話題はつきません。
 しかし、没後の再評価の中で彼のポジティヴなエネルギーが強調される一方、生前の彼が、さまざまな既成の価値観に鋭く「否」を突きつけ、ときには周囲を戸惑わせたりしたことは、忘れられつつあるように見受けられます。彼を再評価するには、単に受身の姿勢でその元気をもらうばかりでなく、彼の発した批判の矢を、私たち自身にも向けられたものとして正面から受け止めることが必要ではないでしょうか。
岡本太郎の人生は、まさに「対決」の連続でした。このたびの展覧会は、この「対決」をキーワードに、岡本太郎が立ち向かった相手を7つの章に分け、苦闘の中から生み出された絵画・彫刻・写真・デザインなど約130点の作品を紹介します。そして、今日に生きる私たちが、彼の「対決」をいかに受けとめていくべきか、考えてみたいと思います。

展覧会HP(外部ウェブサイト)

代表作が一堂に!

岡本太郎の作品の大部分は、川崎市岡本太郎美術館と岡本太郎記念館が所蔵していますが、本展ではそれらの所蔵する代表作をよりすぐり、また他の美術館などが所蔵する逸品もまじえて、岡本太郎の全貌を紹介するまたとない機会です。

ふつうの展示とは、ひとあじ違う?

岡本太郎の多岐にわたるエネルギッシュな活動を「対決」というキーワードで紹介する本展では、作品をご覧になる方ひとりひとりにも、作品と「対決」していただけるよう、展示も工夫しました。具体的には?……ぜひ、会場で体験してください。

代表作の展示替があります! お見逃しなく

戦後まもない時期の代表作、《重工業》《夜》は以下の期間のみご覧いただけます。

《重工業》展示期間:3月8日(火)~4月4日(月)
《夜》展示期間:4月5日(火)~5月8日(日)

《重工業》1949年 川崎市岡本太郎美術館(4月4日まで展示)
《重工業》1949年 川崎市岡本太郎美術館(4月4日まで展示)
夜》1947年 川崎市岡本太郎美術館(4月5日から展示)
夜》1947年 川崎市岡本太郎美術館(4月5日から展示)
プロローグ:ノン!
《ノン》1970年
川崎市岡本太郎美術館
《ノン》1970年
川崎市岡本太郎美術館

最初の展示室の正面で観客を出迎えるのは、彫刻《Non》。岡本太郎の、さまざまなものへの「否定」の意志を、まずはご覧いただきます。

第1章:ピカソとの対決 パリ時代

1930年にパリに渡った岡本太郎は、しばらくしてピカソの作品と出会い、感動して抽象的な絵画の制作に取り組みます。しかし彼はピカソをお手本にするのではなく、感動したからこそピカソに挑み、乗り越えようとしました。抽象絵画、シュルレアリスムの画家たちと肩を並べて活動するとともに、絵画制作にとどまらず、パリ大学で民族学を学びました。

《傷ましき腕》1936/49年
川崎市岡本太郎美術館
《傷ましき腕》1936/49年
川崎市岡本太郎美術館
第2章:「きれい」な芸術との対決 対極主義
《森の掟》1950年 川崎市岡本太郎美術館
《森の掟》1950年 川崎市岡本太郎美術館

1940年に帰国し、兵役と抑留を経て1947年から活動を再開した岡本は、日本の美術界の旧態依然とした状況を否定し、新しい芸術運動を始めました。彼は矛盾した様々な要素を矛盾のまま画面上でぶつけあう「対極主義」を提唱し、数々の問題作を発表していきます。

第3章:「わび・さび」との対決 日本再発見
《縄文土器(富山県出土)》岡本太郎撮影 1956年 川崎市岡本太郎美術館
《縄文土器(富山県出土)》岡本太郎撮影 1956年 川崎市岡本太郎美術館

奈良や京都の寺社、あるいは雪舟の水墨画など、人々が日本の伝統という名で重んじてきたものをことごとく攻撃した岡本。一方でそれまで考古資料としてしか見なされていなかった縄文土器に、積極的な美を見出しました。また、日本各地の風習や祭りをルポルタージュし、日本近代が忘れ去ってきた、力強い文化を再発見していきました。

第4章:「人類の進歩と調和」との対決 大阪万博

「人類の進歩と調和」をテーマに謳った1970年の大阪万博。しかし、テーマ館のプロデューサーを依頼された岡本は、そのテーマに真っ向から対立するかのような、原初的なパワーのみなぎるモニュメント《太陽の塔》を作り上げました。本展では縮小版の立体、素描、当時の映像などをご紹介します。

《太陽の塔》(1/50)1970年
川崎市岡本太郎美術館
《太陽の塔》(1/50)1970年
川崎市岡本太郎美術館
第5章:戦争との対決 明日の神話
《明日の神話》下絵(部分)1968年 川崎市岡本太郎美術館
《明日の神話》下絵(部分)1968年 川崎市岡本太郎美術館

いま渋谷駅を行きかう人々を見下ろしている長さ30mの巨大壁画《明日の神話》は、原子爆弾に焼かれる人々と、その悲劇を超えてゆく人間の力を表したものでした。またベトナム戦争に際しては、ワシントンポスト紙への意見広告のために「殺すな」の文字を提供しました。こうした活動の背後には、自身の過酷な戦争体験がありました。

第6章:消費社会との対決 パブリックアート、デザイン、マスメディア
《こどもの樹》1985年
川崎市岡本太郎美術館
《こどもの樹》1985年
川崎市岡本太郎美術館

美術作品を限られた人だけのものとせず、誰の眼にも触れることのできるように、岡本は積極的に壁画や野外彫刻を制作しました。また家具やグラスなどの日用品のデザインも、数多く手がけました。さらにテレビにもしばしば出演し、奇矯な芸術家として晩年は一種の「お笑い」として消費されたようにも見受けられます。彼の真意はどこにあったのでしょう。

第7章:岡本太郎との対決

晩年はテレビタレントと見なされがちだった岡本ですが、最後までアトリエでの絵画制作は執拗に続けられました。これまで、あまり顧みられることのなかったこの時期の作品を改めて見直すと、「眼」のモチーフの多さに驚かされます。テレビの中の彼を笑いながら見てきた私たちが、今、彼の描いた「眼」たちに見つめ返されたとき、彼の孤独な闘いに気づかされることでしょう。

《疾走する眼》1992年
川崎市岡本太郎美術館
《疾走する眼》1992年
川崎市岡本太郎美術館
エピローグ:受け継がれる岡本太郎の精神

岡本太郎は1996年に没しますが、その後の再評価はめざましいものがあります。再評価の立役者は、長年彼の秘書を勤めた岡本敏子でした。敏子は、太郎の生前から彼の著述活動を支えていましたが、太郎の没後、その力強い言葉を改めて、人々に広めました。

岡本太郎略歴

1911(明治44)年 漫画家・岡本一平と歌人で小説家の岡本かの子の長男として生まれる。
1929(昭和4)年 東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学するが、まもなく中退。
1930(昭和5)~1940(昭和15)年 パリに滞在し、抽象絵画やシュルレアリスムの運動に参加する。またジョルジュ・バタイユと交流したりパリ大学で民族学を学ぶなど、美術の枠を超えて活動。
1942(昭和17)~1946(昭和21)年 現役初年兵として兵役ののち、一年間の収容所生活をへて復員。
1947(昭和22)~1961(昭和36)年 二科会会員。
1948(昭和23)年 花田清輝らと「夜の会」を結成。また「対極主義」を提唱。前衛芸術の旗手として活躍。
1952(昭和27)年 「縄文土器論」を発表。
1954(昭和29)年 『今日の芸術』ベストセラーになる。
1956(昭和31)年 旧東京都庁舎(丹下健三設計)に陶板壁画を制作。
1961(昭和36)年 『忘れられた日本〈沖縄文化論〉』毎日出版文化賞受賞。
1970(昭和45)年 日本万国博覧会のテーマ館プロデューサーとして《太陽の塔》を手がける。
1981(昭和56)年 「芸術は爆発だ」の名台詞でCMに出演。
1996(平成8)年 急性呼吸不全で死去(享年84歳)。

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