安藤美姫選手のインタビュー
スポーツ紙「エキスプレス」の記者エレーナ・ヴァイツェホフスカヤが安藤美姫選手にインタビューを行う記事が掲載されていましたので、ご紹介します。ヴァイツェホフスカヤさんは、高飛び込みの元オリンピック金メダリストで引退後、スポーツ記者に転身されました。ロシアの歴代のフィギュアスケート選手のことを描いたノンフィクション「スリョース・ナ・リドゥ(仮訳:氷上の涙)」等の作品があります。
以下、ヴァイツェホフスカヤ記者と安藤選手のインタビュー記事をご紹介いたします。
ニコライ・モロゾフの教え子、安藤美姫選手が、今シーズン2勝目をあげた。1勝目は、昨年11月末に開かれた「ISUグランプリシリーズ」ロシア杯、2勝目は、同じモスクワのスケートリンクで開かれた今回の世界選手権である。実は、2年前のロシア杯でも安藤選手は優勝している。こうなると、彼女がいつもモスクワで運に恵まれていることを確かめるしかない。
―美姫、1年間、休養を取ろうとしているのは本当ですか?もしかしたら、アマチュアスポーツからの引退を考えていらっしゃるのでは?
今は、そんなことは考えていません。バンクーバーオリンピックが終わったら、1年間休もうと思っていたんですが、オリンピックが終わった後で、考え直したんです。ニコライ(モロゾフコーチ)が、休みを取るのはあまり賢明でないし、ご存じのとおり、当初、2011年の世界選手権は東京で開かれる予定だったので、日本のファンに対して誠実でないと言って、私を説得したんです。
―じゃ、どうして、1シーズン休もうという考えが生まれたのですか?
ただ、疲れたんです。私の人生、フィギュアスケート一色だと感じ始め、新鮮味がなくなったんです。だから、一旦スケートを中断することが休養となって、再び、練習と演技への興味を感じられるのではないかと考えたんです。
―既に、2007年の世界選手権でも優勝していらっしゃいますね。前回と今回の優勝を比較していただけますか?
今回の優勝の方が大変でした。2007年の世界選手権が開かれる直前に怪我をしてしまい、2週間、全く滑れなくなりました。だから、メダルを目指して戦う計画を立てることができず、優勝は本当に思いがけないことでした。
今シーズンは、表彰台に上がれるだろうとわかっていました。これが目標となって、私を練習へと駆り立てました。だけど、精神的に、私は、この練習で、非常に多くの努力を強いられました。
―昨年の秋から、「グランプリファイナル」以外の試合で、出場した試合すべてに優勝しましたね。世界選手権の場合、「メダルのことだけ」考えていらっしゃったとのことですが、「金メダル」については考えていなかったのですか?
正直言って、メダルのことを考えるのはあまり好きではありません。自分のプログラムをいかにうまく滑り切ることができるかということだけに、意義があるのだと思います。つまり、クオリティです。自分が出来ることすべてを試合で発揮できたならば、審判が私にどんな順位をつけようと大したことではありません。演技に対して何点得られたかは、重要ではないのです。クオリティの高い演技によって、内的な満足感を得られることの方が、何かの状況が重なっただけで、メダルを取るよりも気持ちが良いものです。
今、私にとって大切なのは、日本で私のことを誇りに感じてくれることです。と言うのも、日本は今大変な状況にあるからです。多くの人々が犠牲となり、たくさんの人々が今でも自分の肉親を見つけることができないでいます。私たち選手が日本人に出来ることは、私たちの演技に喜んでくれ、誇りに思ってくれるきっかけを与えることだけです。日本選手団は、あなた方記者に対して同じことを言うと思います。こうしたことの方が、金メダルよりもはるかに大きな意味があると思います。
―このモスクワのリンクで、あなたを見た時、ぎこちない印象を受けました。一見、強い感情を抱いているようですが、それがあまり幸せではないように見えたのです。
大体、試合では、あまり幸せそうに見えなかったり、笑わなかったりするものだと思います。選手はみな、非常に神経質になっていて、自分の演技に常に集中しています。私もまた笑おうとはしませんでした。これは、全く個人的なことですが、私は、今、非常に大変な時期にあります。実は、世界選手権が開催されていたこの1週間、私は毎日泣いていました。恐らく、こうした状態の一部が、私の演技の中にも表れたのだと思います。もちろん、そうしたくはなかったですが。
―優勝したことで、この点について何らかの変化がありましたか?ほかの言葉で言い換えるならば、これからも泣き続けることになるのでしょうか?
そうはならないようにと、強く願っています。
―あなたは優勝しましたが、フリーの演技は、最高のものではなかったですね。どうしてでしょう?
非常に疲れていました。すべてのことに。練習に、そして個人的な悩みごとに。でも、今できる最高の演技を見せることができました。大きなミスを一つも犯さなかったことは良かったです。世界選手権のような試合では、これは非常に重要ですから。
―キム・ヨナ選手が演技でミスを犯したことに、驚きましたか?
もしかしたら、おかしなことと思われるかも知れませんが、私は他の選手がどういう滑りをするかということに注意を払っていません。キム・ヨナ選手も含めて。私のスケートとは関係ありませんから。誰がどういう演技をしたか、評価するのは、正しいことだとは思いません。フィギュアスケートは、「誰より下手」とか「誰より上手」といった比較に陥りがちだと思います。世界選手権のようなレベルになると、各選手には、他の選手にできない何かを持っています。人、国、言葉、伝統が異なるように、私たち選手もまた一人ひとり違うのです。
―モロゾフコーチは、ある時期から、ロシアでトレーニングを行うようになりましたね。あなたにとって、異国の地で生活するのは大変でしょう?
大変です。私はロシアが好きですが、ロシア語を話せません。自分の分からない言葉を話している人々に、常に囲まれていること、これは大きな試練です。これまでにも同じような経験がありました。それは、アメリカでモロゾフコーチの下、トレーニングを始めた時です。当時、一言も英語を理解できませんでした。ニコライは、まず最初に私に言葉の勉強をさせました。かなり後になって、彼がどんなに正しかったかが分かりました。と言うのも、新しい言葉を知る度に、新しい友人ができ、自分にとって新しいことを学び、新たな文化を開くことができたからです。
今も、できるだけ早くロシア語をマスターするよう努力しています。ロシア語を話すようにし、周りの人々が何をどう言っているか注意深く聴くよう努めています。
―もう、何年くらいモロゾフコーチの下でトレーニングをしていますか?
5年です。
―でしたら、モロゾフのグループに高橋大輔選手、その後、織田信成選手が練習していた時代を覚えていらっしゃるでしょうね。恐らく、精神的には、日本語を話す相手のいた当時の方が楽だったのではないでしょうか?
実は、とてもおかしな話なんですが、今、私たちは大部分を英語で話しているんです。小塚崇彦選手とも英語です。
―なぜ?
わからないんですが、そうなりました。今、日本語で話すのは、日本で演技会がある時だけです。或いは、日本に用事があって帰る時です。
―最初のテーマに戻りましょう。あなたは、これまで考えていたとおり、休養を取るご予定ですか?
自信を持って言えることは、ソチオリンピックまでがんばって滑り続ける予定だということです。もし、休養を取るとしても余り長くない休養という意味を含めています。そして、必ず戻ってきます。その後、人生で何をしていくか考えるでしょう。小さな子どもたちに教えるとか、別の分野で働くとか、プロのアイスショーで滑るとか。
―ソチオリンピックに出場すると、あなたにとって3度目のオリンピックになりますね。これまでの2度のオリンピックはいかがでしたか?特別な経験となりましたか?
トリノオリンピックについては、あまりお話しすることはありません。当時、私は19歳で、周りで何が起きているか良く理解していませんでした。単に出来るだけ多くのことを見聞しようとしました。満足感を常に得ることができましたし、私はオリンピックの参加者だということを心から誇りに思いました。バンクーバーは、すべてこれとは異なりました。他の大会同様に、うまく滑り切るよう努めました。ただ、オリンピックと他の大会との大きな違いには気付きませんでした。5位と言う結果に終わりました。そう、5位だったんです。
―あなたの演技中、あなたを見ているのと、モロゾフが心配して、あなたのジャンプに合わせて飛んでいるのを見ているのと、どちらが面白いか、なかなか判断に困ります。スケートをしている時、フェンスの側に立っているコーチの方を見る余裕はありますか?彼の声が聴こえますか?
ただ一つのことだけ言えます。それは、ニコライがフェンスの側に立っていると、私が分かっていることが大変重要なんです。もし、彼が何かの理由でそこにいないなら、恐らく、私は全く滑れないでしょう。私は、滑っている時は彼がしていることを見ないようにしていますが、彼がそこにいることはわかっています。ニコライには、驚くべきエネルギーがあるのです。私はそれを感じ、より強く、より自信を持てるようになるのです。
それから、私は彼を全面的に信頼しています。コーチとしても、一人の人間としても。また私がリンクで滑っている時、私のことを100%信頼しているという彼の言葉を聞くのはうれしいことです。
―日本スケート連盟とモロゾフとの関係には、改善すべき点があるということについて、あなたにとって問題になっていますか?
いいえ。私とは関係ありませんから。
―でも、日本スケート連盟の幹部がコーチを替えるようあなたを説得しようとしたと聞きましたが。
そういうことはありました。ニコライは、ふさわしくないコーチで振付師だから、彼との協力関係は、大きな過ちだと突然言われるようになりました。
―それは、いつのことですか?
2009年、ロス・アンジェルスでの世界選手権が始まる少し前でした。正直言って、何が起きているのか全く理解できませんでした。と言うのも、それまでの2年間、日本スケート連盟とのコンタクトが実際全くなかったからです。2007年の世界選手権で優勝した時も、ヨーテボリで行われた世界選手権を怪我のため棄権した時も、日本スケート連盟は私に関心を示しませんでした。誰も私の練習を見に来ませんでしたし、私が支援を必要としているかどうかについても関心を示しませんでした。だから、ロス・アンジェルスの世界選手権の直前に、連盟の幹部の方たちからこのような注目を突然浴びることになり、ある種ショックを受けました。
―非常に多くのフィギュア選手らから、モロゾフは「独特な」コーチだと幾度となく聴いたことがあるのですが。
そうですね。
―「独特な」という言葉の概念にどのような意味を込めますか?モロゾフがあなたに教えたことの中で、何が一番大切なものだと思いますか?
ニコライは、大きな愛情を与えてくれました。フィギュアスケートを愛するために、闘うために、そして、なぜ私が滑らなければならないのか理解させるためにです。これは、言葉で説明するのは非常に難しいことです。ちょうど、私がフィギュアスケートを始めた時に抱いた感情に似ています。スケートリンクには、友達が連れて来てくれました。私が8歳の時、父が亡くなったので、母は、それどころではなかったのです。そして、最初のコーチが、私が滑りながら幸せな気持ちになるように教えてくれたのです。ニコライの隣にいると、私はまた幸せな気持ちになれるのです。
以下、ヴァイツェホフスカヤ記者と安藤選手のインタビュー記事をご紹介いたします。
ニコライ・モロゾフの教え子、安藤美姫選手が、今シーズン2勝目をあげた。1勝目は、昨年11月末に開かれた「ISUグランプリシリーズ」ロシア杯、2勝目は、同じモスクワのスケートリンクで開かれた今回の世界選手権である。実は、2年前のロシア杯でも安藤選手は優勝している。こうなると、彼女がいつもモスクワで運に恵まれていることを確かめるしかない。
―美姫、1年間、休養を取ろうとしているのは本当ですか?もしかしたら、アマチュアスポーツからの引退を考えていらっしゃるのでは?
今は、そんなことは考えていません。バンクーバーオリンピックが終わったら、1年間休もうと思っていたんですが、オリンピックが終わった後で、考え直したんです。ニコライ(モロゾフコーチ)が、休みを取るのはあまり賢明でないし、ご存じのとおり、当初、2011年の世界選手権は東京で開かれる予定だったので、日本のファンに対して誠実でないと言って、私を説得したんです。
―じゃ、どうして、1シーズン休もうという考えが生まれたのですか?
ただ、疲れたんです。私の人生、フィギュアスケート一色だと感じ始め、新鮮味がなくなったんです。だから、一旦スケートを中断することが休養となって、再び、練習と演技への興味を感じられるのではないかと考えたんです。
―既に、2007年の世界選手権でも優勝していらっしゃいますね。前回と今回の優勝を比較していただけますか?
今回の優勝の方が大変でした。2007年の世界選手権が開かれる直前に怪我をしてしまい、2週間、全く滑れなくなりました。だから、メダルを目指して戦う計画を立てることができず、優勝は本当に思いがけないことでした。
今シーズンは、表彰台に上がれるだろうとわかっていました。これが目標となって、私を練習へと駆り立てました。だけど、精神的に、私は、この練習で、非常に多くの努力を強いられました。
―昨年の秋から、「グランプリファイナル」以外の試合で、出場した試合すべてに優勝しましたね。世界選手権の場合、「メダルのことだけ」考えていらっしゃったとのことですが、「金メダル」については考えていなかったのですか?
正直言って、メダルのことを考えるのはあまり好きではありません。自分のプログラムをいかにうまく滑り切ることができるかということだけに、意義があるのだと思います。つまり、クオリティです。自分が出来ることすべてを試合で発揮できたならば、審判が私にどんな順位をつけようと大したことではありません。演技に対して何点得られたかは、重要ではないのです。クオリティの高い演技によって、内的な満足感を得られることの方が、何かの状況が重なっただけで、メダルを取るよりも気持ちが良いものです。
今、私にとって大切なのは、日本で私のことを誇りに感じてくれることです。と言うのも、日本は今大変な状況にあるからです。多くの人々が犠牲となり、たくさんの人々が今でも自分の肉親を見つけることができないでいます。私たち選手が日本人に出来ることは、私たちの演技に喜んでくれ、誇りに思ってくれるきっかけを与えることだけです。日本選手団は、あなた方記者に対して同じことを言うと思います。こうしたことの方が、金メダルよりもはるかに大きな意味があると思います。
―このモスクワのリンクで、あなたを見た時、ぎこちない印象を受けました。一見、強い感情を抱いているようですが、それがあまり幸せではないように見えたのです。
大体、試合では、あまり幸せそうに見えなかったり、笑わなかったりするものだと思います。選手はみな、非常に神経質になっていて、自分の演技に常に集中しています。私もまた笑おうとはしませんでした。これは、全く個人的なことですが、私は、今、非常に大変な時期にあります。実は、世界選手権が開催されていたこの1週間、私は毎日泣いていました。恐らく、こうした状態の一部が、私の演技の中にも表れたのだと思います。もちろん、そうしたくはなかったですが。
―優勝したことで、この点について何らかの変化がありましたか?ほかの言葉で言い換えるならば、これからも泣き続けることになるのでしょうか?
そうはならないようにと、強く願っています。
―あなたは優勝しましたが、フリーの演技は、最高のものではなかったですね。どうしてでしょう?
非常に疲れていました。すべてのことに。練習に、そして個人的な悩みごとに。でも、今できる最高の演技を見せることができました。大きなミスを一つも犯さなかったことは良かったです。世界選手権のような試合では、これは非常に重要ですから。
―キム・ヨナ選手が演技でミスを犯したことに、驚きましたか?
もしかしたら、おかしなことと思われるかも知れませんが、私は他の選手がどういう滑りをするかということに注意を払っていません。キム・ヨナ選手も含めて。私のスケートとは関係ありませんから。誰がどういう演技をしたか、評価するのは、正しいことだとは思いません。フィギュアスケートは、「誰より下手」とか「誰より上手」といった比較に陥りがちだと思います。世界選手権のようなレベルになると、各選手には、他の選手にできない何かを持っています。人、国、言葉、伝統が異なるように、私たち選手もまた一人ひとり違うのです。
―モロゾフコーチは、ある時期から、ロシアでトレーニングを行うようになりましたね。あなたにとって、異国の地で生活するのは大変でしょう?
大変です。私はロシアが好きですが、ロシア語を話せません。自分の分からない言葉を話している人々に、常に囲まれていること、これは大きな試練です。これまでにも同じような経験がありました。それは、アメリカでモロゾフコーチの下、トレーニングを始めた時です。当時、一言も英語を理解できませんでした。ニコライは、まず最初に私に言葉の勉強をさせました。かなり後になって、彼がどんなに正しかったかが分かりました。と言うのも、新しい言葉を知る度に、新しい友人ができ、自分にとって新しいことを学び、新たな文化を開くことができたからです。
今も、できるだけ早くロシア語をマスターするよう努力しています。ロシア語を話すようにし、周りの人々が何をどう言っているか注意深く聴くよう努めています。
―もう、何年くらいモロゾフコーチの下でトレーニングをしていますか?
5年です。
―でしたら、モロゾフのグループに高橋大輔選手、その後、織田信成選手が練習していた時代を覚えていらっしゃるでしょうね。恐らく、精神的には、日本語を話す相手のいた当時の方が楽だったのではないでしょうか?
実は、とてもおかしな話なんですが、今、私たちは大部分を英語で話しているんです。小塚崇彦選手とも英語です。
―なぜ?
わからないんですが、そうなりました。今、日本語で話すのは、日本で演技会がある時だけです。或いは、日本に用事があって帰る時です。
―最初のテーマに戻りましょう。あなたは、これまで考えていたとおり、休養を取るご予定ですか?
自信を持って言えることは、ソチオリンピックまでがんばって滑り続ける予定だということです。もし、休養を取るとしても余り長くない休養という意味を含めています。そして、必ず戻ってきます。その後、人生で何をしていくか考えるでしょう。小さな子どもたちに教えるとか、別の分野で働くとか、プロのアイスショーで滑るとか。
―ソチオリンピックに出場すると、あなたにとって3度目のオリンピックになりますね。これまでの2度のオリンピックはいかがでしたか?特別な経験となりましたか?
トリノオリンピックについては、あまりお話しすることはありません。当時、私は19歳で、周りで何が起きているか良く理解していませんでした。単に出来るだけ多くのことを見聞しようとしました。満足感を常に得ることができましたし、私はオリンピックの参加者だということを心から誇りに思いました。バンクーバーは、すべてこれとは異なりました。他の大会同様に、うまく滑り切るよう努めました。ただ、オリンピックと他の大会との大きな違いには気付きませんでした。5位と言う結果に終わりました。そう、5位だったんです。
―あなたの演技中、あなたを見ているのと、モロゾフが心配して、あなたのジャンプに合わせて飛んでいるのを見ているのと、どちらが面白いか、なかなか判断に困ります。スケートをしている時、フェンスの側に立っているコーチの方を見る余裕はありますか?彼の声が聴こえますか?
ただ一つのことだけ言えます。それは、ニコライがフェンスの側に立っていると、私が分かっていることが大変重要なんです。もし、彼が何かの理由でそこにいないなら、恐らく、私は全く滑れないでしょう。私は、滑っている時は彼がしていることを見ないようにしていますが、彼がそこにいることはわかっています。ニコライには、驚くべきエネルギーがあるのです。私はそれを感じ、より強く、より自信を持てるようになるのです。
それから、私は彼を全面的に信頼しています。コーチとしても、一人の人間としても。また私がリンクで滑っている時、私のことを100%信頼しているという彼の言葉を聞くのはうれしいことです。
―日本スケート連盟とモロゾフとの関係には、改善すべき点があるということについて、あなたにとって問題になっていますか?
いいえ。私とは関係ありませんから。
―でも、日本スケート連盟の幹部がコーチを替えるようあなたを説得しようとしたと聞きましたが。
そういうことはありました。ニコライは、ふさわしくないコーチで振付師だから、彼との協力関係は、大きな過ちだと突然言われるようになりました。
―それは、いつのことですか?
2009年、ロス・アンジェルスでの世界選手権が始まる少し前でした。正直言って、何が起きているのか全く理解できませんでした。と言うのも、それまでの2年間、日本スケート連盟とのコンタクトが実際全くなかったからです。2007年の世界選手権で優勝した時も、ヨーテボリで行われた世界選手権を怪我のため棄権した時も、日本スケート連盟は私に関心を示しませんでした。誰も私の練習を見に来ませんでしたし、私が支援を必要としているかどうかについても関心を示しませんでした。だから、ロス・アンジェルスの世界選手権の直前に、連盟の幹部の方たちからこのような注目を突然浴びることになり、ある種ショックを受けました。
―非常に多くのフィギュア選手らから、モロゾフは「独特な」コーチだと幾度となく聴いたことがあるのですが。
そうですね。
―「独特な」という言葉の概念にどのような意味を込めますか?モロゾフがあなたに教えたことの中で、何が一番大切なものだと思いますか?
ニコライは、大きな愛情を与えてくれました。フィギュアスケートを愛するために、闘うために、そして、なぜ私が滑らなければならないのか理解させるためにです。これは、言葉で説明するのは非常に難しいことです。ちょうど、私がフィギュアスケートを始めた時に抱いた感情に似ています。スケートリンクには、友達が連れて来てくれました。私が8歳の時、父が亡くなったので、母は、それどころではなかったのです。そして、最初のコーチが、私が滑りながら幸せな気持ちになるように教えてくれたのです。ニコライの隣にいると、私はまた幸せな気持ちになれるのです。
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はじめまして。くまねこと申します。
ツイッターから来ました。
私も真央ちゃんの翻訳ブログをやっています。
安藤さんの日本マスコミには語らない気持ち、読むことができてよかったです。ありがとうございます。連盟はあまり選手のこときめ細かく見ていないのですね・・・はじめて知りました。
モロゾフとの信頼関係で強くなった安藤選手、すばらしいと思います。
また記事楽しみにしています!
ツイッターから来ました。
私も真央ちゃんの翻訳ブログをやっています。
安藤さんの日本マスコミには語らない気持ち、読むことができてよかったです。ありがとうございます。連盟はあまり選手のこときめ細かく見ていないのですね・・・はじめて知りました。
モロゾフとの信頼関係で強くなった安藤選手、すばらしいと思います。
また記事楽しみにしています!