●渡辺プロでまず担当なさった仕事っていうのは? |
一番最初はグループサウンズ時代のワイルドワンズです。池田道彦さんという、今はアトリエ・ダンカンで根津甚八さんや木の実ナナさんを育てたり、ミュージカルを作ったりされている方の班に配属になったんです。池田班にはザ・タイガースとワイルドワンズと伊東ゆかりさんがいたんです。ザ・タイガースのマネージャーは先輩の中井さんがやっていて、ワイルドワンズは先輩の担当で、僕は最初そのアシスタントで配属になりました。それなのにこの先輩が5月には辞めてしまったんです!4月に入社したのに急に先輩がいなくなって、僕がいきなりチーフマネージャーになっちゃったんですよ。それでワイルドワンズで映画作ったり好き勝手なことやりました。 |
●あぁ…ワイルドワンズの映画ってありましたね。 |
「ザ・ファイブ」という映画とアルバムとツアーをやりました。そのころ羽仁進先生がアンデスに引っ越されるのをたまたま何かの理由で僕が手伝いに行った時にボレックスという有名な手巻きカメラをお借りしたんです。「羽仁先生、これ持って行かれるんですか?」「いや、どうしようかな…」「お帰りになるまで貸してください」って言って。それで、大学時代に一緒に映画を撮っていた今は画家の友達の小林豊さん(大里氏の会長室に大作が飾られている)と2人で、ワイルドワンズのために台本書いて映画を作ったんです。ほんと今のうちの社員に見せたい位面白かったですね。ビートルズの「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」みたいな映画です。16mmのフィルムは渡辺企画から拝借して、カメラマンは小林豊さんで、僕が演出兼プロデューサーをやりました。 |
●その映画は公開されたんですか? |
映画といっても16mmなのでワイルドワンズのコンサートツアーの、コンサートの真ん中で流していた21分の映画です。台詞もなくてもうギャグばっかりの「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」みたいな音楽映画でした。その頃はプロモーションビデオというのがないじゃないですか。「ワイルドワンズのイメージアップのために、アルバムの販売促進用として映画を1本作りました。見てください。」って会社には説明して。 |
●ははははははは(笑) |
だから、渡辺プロ時代はすごい楽しかったです。 |
●いや、聞いてるだけで楽しいですよ。 |
あんな楽しいところはないです。渡辺プロのOBが集まるといまだに、その思い出話だけで4〜5時間は持ちますね。今年も1月7日かな、京都のブライトンホテルに40人ぐらい集まって昔話をしました。 |
●ほんとに楽しかったんでしょうね。ワイルドワンズの次は誰を担当されたんですか。 |
梓みちよさん。それからザ・ピーナッツ、ザ・タイガース解散後の岸部四郎さんとか、2日ほど沢田研二さんもやりました。あとはあいざき進也さんをやって、それでキャンディーズです。 |
●渡辺プロにはどのくらいいらっしゃんったんですか。 |
9年と1ヶ月で辞めました。 |
●その後アメリカに行かれたんですよね? |
そうです。アメリカへ行く直前に原田真二君に出会ったのがアミューズを創るきっかけになったんです。ある人から「広島に天才的な男の子がいるんだけど」と言われたんですが「せっかく会社を辞めてこれからアメリカへ行こうとしてるのに」と思って丁重に断ったんです。そしたら「ちょっと事務所に来てくれませんか」って言われて行ってみたら、そこに18歳の原田真二君がいたんです。それで原田君が「アメリカ行きたい」って言いだして「じゃあ、大里さんに連れて行ってもらえ」ってことになったわけです。 |
●そんな簡単に…(笑) |
それから1ヶ月ほど、2人でラスベガス、ロス、ニューヨークをまわったんです。 |
●大里さんのそもそもの目的は何だったんですか? |
僕は元々ブロードウェイのプロデューサーになるか、映画プロデューサーになろうと思っていたんですが、その頃はそれよりミュージカルに燃えてたんです(笑)。「9年渡辺プロで働いたんだから」と、1年間だけまず僕がアメリカに先に行くと女房と契約したんです。ニューヨークでブロードウェイのプロデューサーになるにはもうギリギリだけど、まず英語を勉強して、家族を呼び寄せられるまで1年はかかると思ったので、それでその下見をするために行ったんです。でも、一緒に旅行したりするうちに、情がわいてきたし、日本に帰ってきて原田君の為にアミューズを創ったんですよ。 |
●アミューズの第一号アーティストってことですね。 |
本当はキャンディーズとかあいざき進也さんのバッグバンドをやっていたホーンスペクトラムの3人がアミューズの第一号なんですが、レコードは出してなかったので…ほとんど原田君が1号みたいな感じなんです。 |