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東日本大震災の死亡・行方不明者数は約2万6千人。戦後から昨年までの日本の災害犠牲者をすべて積み上げても、5万数千人だ。その爪痕の深さ、大きさが改めてわかる。
余震がやまない。首都直下地震や東海・東南海・南海地震は切迫している。地震列島に生きる私たちは、どう自然に向き合えばよいだろう。
午後2時46分の最初の揺れから津波到達まで30分前後。その間に生死を分けたのは何か。貴重な証言が集まりつつある。
■生死を分けたもの
気象庁は2時50分、最初の大津波警報で波高を岩手、福島3メートル、宮城6メートルと予想。防災無線で避難を呼びかける際、その数字を挙げた自治体がある。
「3メートルなら2階に逃げれば大丈夫」と考えた人がいた。「もっと高いと知っていたら山に逃げた」と話す人がいた。
気象庁の第一報は、揺れ始めのデータをもとに大急ぎではじき出したものだ。岩手と福島の警報が6メートルに引き上げられたのは3時14分。すでに最初の津波が街を襲いつつあった。
三陸地方は明治、昭和と、何度も津波被害を受けてきた。沿岸自治体はその記録をもとに、浸水の危険区域を示すハザードマップを作り、避難訓練を繰り返してきた。
過去の津波の高さを超えた今回は、ハザードマップの浸水区域外にいた人の逃げ遅れが目立った。昔を知るお年寄りが「ここまで水が来たことはない」と悠然としていた、といった話をいくつも聞く。
岩手県宮古市や釜石市では世界有数規模の防潮堤が崩れた。住民には「堤防があるから大丈夫」という過信もあった。
▼行政が出す情報▼経験による被害想定▼巨額資金を投じた堤防。それらに引きずられ、頼りすぎたため、想定を超える津波から逃れられなかった人がいたことがうかがえる。
ならば、その想定を見直せ。ハザードマップを作り直せ。堤防を高くし、あるいは津波が絶対来ない高さに街を移せ。気象庁は正確な予測を出せ、とだけ言っていればよいか。
■求められる自助
すべての災害を予測し、封じ込めるのは不可能だ。技術や資金の壁もある。原発のような人工システムは別として、自然災害の想定とは、いわば防御の目標を示すシナリオだ。
そうとらえた上で、想定を超えた事態でもギリギリ生き延びられるよう、人間の対応力をも鍛える。行政に過度に依存せず自らの命は自分で守る。できるだけ逃げる。それが、今回の津波の大きな教訓ではないか。
日本の防災体制は、1961年制定の災害対策基本法で確立した。その2年前、5千人余りの犠牲を出した伊勢湾台風が契機だった。同法は、国民の生命・財産を保護する国や自治体の責務を明記。以来、公共事業による治水・治山・海岸防護が進み、毎年の犠牲者は飛躍的に減った。行政主導の防災に効果があったといえる。
だが近年の日本は、震災前から「想定外災害」の時代に入っていた。温暖化の影響とされる局地的豪雨の急増だ。避難勧告の間もなく水かさが増え、住民が的確な行動を取れていない。そんな被災が増えている。
1年前、防災専門家が集まった内閣府の検討会で、大雨災害での避難のあり方をめぐる報告が出された。そこでは、防災は行政がやるものとの潜在意識が広がっていると指摘。行政の責任を重要としつつ、「住民の自発的な自助・共助意識の醸成が求められる」と提言した。
■教訓を受け継ぐ
津波から懸命に逃げ、多くの人が自ら命を守ったことにも、目を向けておきたい。
死者・不明が1300人を超えた釜石市では、小中学生約3千人はほぼ全員無事だった。
ある中学は、ハザードマップの浸水域外にあったが、先生の指示を待たずに生徒が「津波が来るぞ」と叫びながら走った。最初の避難場所が危険と分かると、さらに高台を目指した。
釜石市は数年前から群馬大の片田敏孝教授を中心に、実践的な防災教育に取り組んできた。子どもたちに教えたのは次のことだ――揺れたら、とにかく逃げろ。ハザードマップだけに頼らず、状況を見て判断しろ。
自然災害をおそれつつ、向き合う姿勢を社会に根づかせる。次の世代に教訓を受け継いでゆく責任が、私たちにはある。
もちろん、行政がすべきことがたくさんある。自助が難しい高齢者が増えていて、その安全確保には特別の支援が必要だ。高台への駆け上がり階段や、海近くの避難タワー整備のように住民が逃げやすくする工夫も要る。より安全な街をつくる手法は、様々に考えられる。
そのために避難行動の検証は欠かせまい。死者の無念の声にも耳を傾ける。あの日、なぜ逃げられなかったか。災害に強い社会への出発点である。