学校へ行こう!(放送大学大学院の日々)

 数年前から,自分の仕事,学会発表,そして研究などに関して,疑念をいだくようになってきた.特に,研究会や学会での発表を聞いたり,自分自身の発表内容を考えると,とてもまともではないと感じ始めた.これはとても学会とは呼べるものではない.学芸会ではなかろうかと感じることが多くなった.

 最近の政府の規制緩和政策により,大学院の社会人入学が大幅に緩和されてきた.これは,生涯教育を充実させるとか,中央教育審議会による「大学院における高度専門職業人の養成について」という答申によるものらしい.しかしその内部事情は,少子化による学生数の減少を,社会人入学により穴埋めしようという大学側のもくろみと思われる.私の周りには,すでに,大学院に社会人入学されて,学位を修得中の人や修得された人がいる.これらの人たちの大部分は,自分の勤務している病院の大学に通われているので,地理的,時間的に融通が利きやすく,一般病院に勤務する技師より有利な環境であるといえる.
学校を卒業し,四分の一世紀近く過ぎ去ってしまった.医療は,医学という科学の応用分野といえるが,人間という感情を持った対象を相手にするので,論理で割り切れない部分が多くある.長くこの分野に染まれば染まるほど,経験則がものをいうようになる.しかしながら,放射線医学,技術の領域は,他の医学の領域に比べ,経験則が幅を利かすことは少ないと思われるのだが・・・.ともかく,このあたりで,自分の頭の思考回路を整理し,再構築してはどうだろうか.もう一度,書物を丁寧に読み,論理的に文章を書くというプロセスを経験すべきである.

 さて,どこの大学に行くか,また,学費をどうするかということが問題である.国立大学の大学院でも2年間行くとして200万円程度必要だということがわかった.さらに,私立だとその倍は必要になる.手元にある使える金は50万円弱である.この金は,労災病院互助会に毎月2,000円を天引きで貯めていたのだが,バブル崩壊で互助会が潰れたため,返金となったものである.この金でパソコンを買うか海外旅行でも行こうかと考えていたのだが,自分の教育に使うことにした.また,入学試験であるが,経験者などに聞くと,ある大学では,あらかじめ受け入れ先の大学の指導教授と話をしておけば,試験はなんとかなるらしいことが判明してきた.しかし,家から遠いと,通うのに時間と交通費がかかる.それも回数が多いと大変である.そして,修士論文をどうするか….大学は岡山大学か,広島か,はたまた大阪か….2002年当時,岡山大学には大学院ができておらず,2003年春開学予定ということがわかった.ところで,2001年に放送大学に大学院が開学した.実はこの時,内容を調べたのだが,とても医療系の人間が行けるような学科がなく対象外と考えていた.岡山大学付属病院に勤務している同期の友人(当時は鳥取大学に人事交流で出向中)に話すと,なんと,放送大学大学院に行っていること,指導教授には鳥取大学の放射線科教授にお願いしたとの情報をもらった.修士論文のテーマは,MRI関係で,また,学費も安く,2年間で40数万円で済むということであった.これなら,なんとかなるかもしれないという気持ちになり,願書を取り寄せ,入学試験を受けることにした.この時,2002年の8月か9月頃であったと思う.

 試験は1次試験から3次試験まであった.といっても,1次試験は書類審査だったので,無いに等しい.2次試験は,筆記試験であった.いくつかの専門的な分野に関する設問と,英語の論文を要約するものであった.日頃から鉛筆を持ち字を書くということをしていないので(最近はキーボードばかり),思うように字が書けないので,答えを書くのに結構時間がかかった.英語論文には,難しい専門用語には日本語訳がついていたし,ここ10年ほど,プライベイトな勉強会で英語論文を読んでいたので比較的簡単に感じられた.さて,ここまで,なんとか合格した.
3次試験は面接である.なんとこの面接には千葉県幕張にある放送大学本部まで行かなければならないのだ.幕張といえば,10年近く前に,ISRRT(世界放射線技師大会)が開催された地でもある.ともかく,面接に千葉くんだりまで行かなくてはならない.しかし,予算も限られているので,ここは夜行バスで行くしかない.夜行バスではほとんど眠れないので,出発前に,酒,ビールを買い込み乗り込んだ.(結局,卒業するまで5回,千葉あるいは東京に行くことになるのだが,すべて夜行バスを利用した!)翌朝,ボーっとした頭で東京着.面接は午後からなので,午前中,千葉の稲毛海岸あたりをぶらつき,大学に行った.
受験生は,学科別に集められ,教室で待つことになった.結構年輩の方から若い人まで幅広い.私の面接官は3人であった.頭の完全に禿げ上がったおじいさん(後日わかったが,公衆衛生学では高名な先生だった!)が質問してきた.修士論文の計画書をあらかじめ提出しておいたのだが,それについてであった.私は,核医学技術に関するテーマで,「SPECTにおける撮像時間短縮の研究」というのであったのだが,研究の意義やらを説明させられた.しかし,このおじいさん,専門用語がさっぱりわからんとか,研究してなんの意味があるのか,メーカーがすればいいのではなどと言われてしまった.挙げ句の果て,当大学では指導できないと言われてしまった.他の面接官からは逆に,だれか指導できる教授を知っているかなどと言われてしまった.わずか10分程度の面接であった.この10分のために,わざわざ千葉まで出向かねばならないのか!?面接でボロボロに言われ,これで不合格かな…と思いながら大学を去っていった.(それにしても放送大学本部の建物,施設はすごかった.当時,放送大学は特殊法人であったが,国からの補助金が惜しげもなくつぎ込まれているのを強く感じた.特に,図書館には圧倒された.)
再び,夜行バスに乗り帰ることになるのが,すんなり帰るのも馬鹿らしいので,舞浜駅で下車し,東京デズニーランド近辺をぶらつき,子供への土産を買って帰った.


さて,それから数週間経過したとき,なんと合格通知が届いた.その頃,日本放射線技術学会の秋季大会が松江で開催され参加していたのだが,会場で偶然,岡山大学のN先生に会い,岡山大学保健学科の大学院のことについてお話を伺ったのだが,時すでに遅しであった.年が明け,2003年になった.問題は指導教授の件であった.大学院から連絡が来た.それは,ゼミの仙波教授(精神科医)からであった.私が放り込まれたゼミは,医療系のゼミで,看護師,保健婦,臨床検査技師,OT・PT,歯科衛生士の短大の先生(なんと教授!),そして少数派である2人の放射線技師などの社会人学生で構成されていた.ともかく,何人かの学生(私の事!)の研究は,あまりに専門的で放送大学では指導できないので,指導教授の心当たりがあれば知らせて欲しいとうい内容であった.すかさず,技師学校の先輩で,今や医学博士のH福祉大学のY教授にお願いした.これでよかったのだろうか?と思いながら,春がやってきた.

 2003年4月,入学式とオリエンテーションをするというので,またまた,千葉まで行かなければならなくなった.金がないので,再び夜行バスの旅である.今回はちょうど,横浜で日本放射線技術学会の総会があったので,ついでにこちらにも顔を出した.シカゴ会という土井教授を囲む会があり,参加すると,倉敷中央病院のK氏(現岡山県放射線技師会会長)にあった.話をしていると,なんとこの春から大阪大学大学院保健学科(博士課程)の学生になったそうである.なんと・・・! 驚いてしまった.ついでに,学費の高さにも驚いてしまった.入学式とオリエンテーションは,学生の数と教授陣の数に圧倒されてしまった.我々は2期生だが,1期生の様子を見ていると,2年間で卒業するのは大変困難であるという,教授陣のお話であった.仕事をしながら2年間で卒業はね・・・大変ですよ・・・と言われてしまった.ゼミの仙波教授とちっと話しただけで終わってしまった.またまた,何しに行ったのか訳の分からない千葉への旅だった.

 卒業するには,授業22単位(11科目)と,修士論文8単位を修得しなければならない.修士論文はなんとかなりそうな気がするが,授業が問題である.なんでも所属が総合文化プログラムの環境システム科(健康科学群)という怪しげなところである.医療系の科目といえば,健康科学(医と社会の接点を求めて)と精神医学(臨床心理士用科目)くらいで,あと生命環境科学なんとかかんとか・・・である.情報科学もなんとかなりそう.最悪の科目は数理システムであった.微分方程式からはじまり,線形代数,積分方程式…有限要素法などなど,1つの章が1冊の専門教科書という内容であった.おまけに講義はラジオ放送で教科書の朗読であった.少しくらい解説しろ!と言いたくなる科目で,途中で諦めた.途中,レポートを出さなくてはならず,これが積分方程式を2つ解くというのであった.図書館に行き,岩波の数学大辞典と格闘すること1日,何とか答えを導いた.丸1日の休日が費やされた! 試験は,答えが全くわからなかった.しかし五者択一だったので適当に答えを書いたら,なんと評価B(良)で奇跡的に単位がもらえた.

 さて,2年間の間に修士論文を完成させて審査に合格しなければならないのだが,途中,研究指導ということで,修士論文の進捗状況を発表しに大学本部に行かなければならない.私は,客員教授に研究指導をしていただいている事になっているので,参加は義務ではなかったが,仙波教授に対する印象をよくするためにすべて参加した.このゼミの発表会は,M1,M2(1年生と2年生)合同で行われた.さらに他職種の内容を聞くので,なんだかさっぱりわからない.しかし,さすがに短大や大学の先生をしている人たちは,しゃべりが旨いので感心してしまった.1年目が過ぎ,2年目になると,単位を取れそうな科目が無くなってしまった.しかし,単位を取らなければ卒業できないので,出来るだけ教科書が薄く,数式のない科目を探した.さらに,インターネットを駆使し,放送大学大学院生の作ったホームページなどを参考にし,出来るだけ単位の取れそうな科目を選んだ.(インターネットは情報の宝庫であった.過去の試験問題も載っていてかなり助けられた.)

 ついに修士論文を仕上げる時期が来た.論文の構成をどうするか,指導教授のY先生に教えて頂いた.データは,数年前より,日本放射線技術学会中国四国部会の核医学研究会(核医学夢工房)で行ってきたのをまとめ上げることである.さらに,その後追加実験した視覚的評価のデータを加えることにした.論文は,図・表を含めて50ページを越える程度となった.2004年の年末にやっと完成し提出した.後は,年明け1月に,論文審査会に行くのみである.
1月上旬の連休に,論文審査会が開催された.再び,夜行バスの旅となった.しかし,今回は,休みが取れず,帰路は朝7:05に丸亀に到着,そのまま,仕事に突入という強行スケジュールとなった.それはともかく,論文審査は15分程度であったが,副査の教授から見当違いの質問が出たり,主査の教授からは,相変わらず「専門過ぎでよくわかりませんな・・・」というような事を言われ,指導教授のY先生一任ということになったようである.なんだかんだで,むりやり審査終了した.仙波教授曰く,落とすための審査ではないというお話なので,なんとかなるなと思った.
 2005年3月,結局,30単位ぎりぎりを取り,大学院終了の通知が届いた.その1週間後,立派な学位記が宅配便で届いた.千葉で卒業式(なんと,ディズニーランドの横にある豪華なホテルで)があるらしいが,わざわざ行くのも交通費がもったいないので断った.


 忙しい2年間であったが,久々に学生気分に浸れた.本を読み,字を書き,図書館にも何度か通った.試験も受け久々の緊張感も味わった.修士論文を作っていく間の,発表会など,学会発表とは違う体験であった.
我々のゼミは,医療職の集まりであったが,放射線技師という専門職の領域は,医療の中では非常に狭い領域であると感じた.特に,看護師や保健婦が関わる領域は,広いものであり,その重要性も大きいと感じた.我々放射線技師が関わる研究,例えば,画像評価がどうのこうのといっても,患者さんを中心とした医療の世界では,まったく小さな事である.他の医療職からみれば,「そんなのどうでもいいよ」という印象をひしひしと感じた2年間であった.なお,当方が受講した科目を以下の表に示す.

授業科目 単位数 評価 印象
総合情報学 2 A ITの先端の講義
情報化社会研究 2 A ITにより社会がどう変わるのか
数理システム科学 2 B 画像工学に必須?超難解!朗読の時間でした
地球環境科学 2 B あまり憶えていないな・・・
生命環境科学T 2 B 生物学の基礎勉強になりました
生命環境科学U 2 ○A 地球上のきれいな風景に感動!
健康科学 2 B 「患者から見た医療」の大学院版
精神医学 2 A 臨床心理士必修!メンタルヘルスに強くなる?
環境マネジメント 2 A あまり憶えていない・・・
環境工学 2 ○A 放射性廃棄物の問題もちょっと出てきた
技術社会関係論 2 ○A 電子カルテのお話しもありました
修士論文 8 A SPECTにおける撮像時間短縮の研究(pfd 1.2MB)


(2005.3)

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