宝塚って嘘でしょ~~へたくそ!
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在米の元夫がぶちまける「鳩山新総理夫妻」が犯した35年前の原罪「略奪婚」
(週刊新潮2009年9月24日号)
▼恩人の妻に手を出した留学生と流し目の年上人妻
▼「友愛精神」が発揮されなかった慰謝料ゼロの離婚劇
▼勤め先で漏らした欲求不満と「玉の輿コンプレックス」
「とうとう由紀夫くんが総理になりましたね。まあ、いつまで続きますか。
私としては、彼には一国のリーダーとしてまったく期待していません。
彼自身がどこまでやれるのか分かりませんが、ワイフである幸がちゃんとした内助の功で支えられればいいんですが。
彼女にとって、サンフランシスコでの出来事は忘れてしまいたい過去なのでしょう。
きっと、当時知り合った人たちとは一切かかわりをもちたくないと思っているんでしょうね……」
今から40年ほど前の〝苦い〟思い出を振り返るのは田浦新一郎さん(72)である。
1960年、米国サンフランシスコで姉夫婦が日本料理店『蝶々』を開店する際、料理人として手伝うべく渡米。
以来、姉夫婦がリタイアして後も切り盛りし、98年に閉店した。
同店はハリウッド監督のフランシス・F・コッポラやジョージ・ルーカスらも贔屓にし、日本人ビジネスマンにも人気を博す。
平岩弓枝の小説『女の顔』にも、仮名ながら店が登場するほどだ。
その田浦さんの言う「幸」とは、言うまでもなくファーストレディ、鳩山幸夫人(66)のこと。
ご存じの通り、幸夫人は「若みゆき」の芸名で娘役として宝塚に6年ほど在籍し、パリ公演にも出演した経験をもつ。
そして67年に宝塚を退団し、渡米して田浦さんと結婚した。
「私に幸を紹介したのは、洋菓子店『アマンド』の滝原健之社長(故人)でした。
社長は宝塚を応援していて、冗談半分で私が〝誰か嫁を探してくださいよ〟と言ってたら本当に連れてきた。
それが24歳の幸でした。
幸は活発な女性でね。
やはり宝塚のような世界にいたのでハキハキしていたし、第一印象も綺麗だなあという感じ。
でも、私と暮らしている時はそんなに派手ではなかったですよ。
歌は上手く、英語の発音もよかったけど」
結婚直後から、幸夫人は田浦さんとともに『蝶々』で働き始める。
が、今でこそ料理本をものしたり料理番組にも出演するほどだが、当時は料理はダメ。
店ではもっぱらウェイトレス、というより客をテーブルに案内する係りだった。
「でもウェイトレス同士で仲が悪く、チップの多寡でよくトラブルを起こしていたと、後に姉や義兄から聞きました」
そんな結婚生活が3年ほど過ぎた70年、田浦さんはある人物と運命的な邂逅をすることになる。
他でもない、鳩山由紀夫新総理だ(62)。
「実は、私に由紀夫くんを紹介したのもアマンドの滝原さん。
たまたま私が日本に帰っていた時、今度アメリカに留学する青年がいるから、アメリカでの生活とか話して
やってくれと引き合わされまして。
第一印象は、世間知らずのお坊ちゃんという感じ。
その時は〝シスコに来たら連絡して〟という程度で、その後、実際にシスコの我が家に来たんです。
その時は弟の邦夫くん(元総務相)も一緒でした。
邦夫くんとは気が合って後にゴルフにも行くようになりましたが、由紀夫くんは弟と違うタイプでね。
暗いというか、あまりしゃべらない大人しい人でした」
その23歳の〝世間知らずの暗い青年〟が、ほどなくして自らを不幸のどん底に突き落とす所業に及ぼうとは、
無論、この時の田浦さんは夢にも思っていなかった。
◆家を出ていきます◆
鳩山新総理は東大工学部を卒業後、スタンフォード大大学院に留学。当時は、そのまま学究の道を目指していた。
スタンフォードからサンフランシスコまではおよそ60キロ、車で1時間ほど。
が、由紀夫青年は、田浦さんの店に頻繁に通うようになる。
「我が家でご馳走することもありましたし、店にもとにかくよく食べに来てました。
でも姉によると、いつもお金は払わない。
鳩山家からも〝これで食べさせてください〟とかお金をもらったことなどありません。
彼の世話はだいたい姉夫婦がやってまして、日曜ごとに彼に弁当を作って届けていたほどなんです」
やがて、幸夫人は『蝶々』を辞めさせられる。
前述のようなトラブルが続き、経営者である田浦さんの義兄から〝家事に専念しろ〟と言われてのことだった。
それからしばらく後、ある〝事件〟が勃発する。
「義兄の家のポストに〝弟さんの留守中、男がこっそり出入りしている〟と書かれた手紙が入っていたのです。
後で知りましたが、それは我が家の目の前に住んでいた邦銀勤務のご主人が書いてくれたものでした。
それでも、私はまさか幸が不倫をしているとは思っていなかったし、その相手が由紀夫くんだなどとも、まったく
疑っていなかった。
だから、幸にも〝こういう手紙が来たから疑われるようなことはするな、気を付けろ〟と言っただけで、
追求するようなことも一切しなかったのです」
しかし、この頃すでに当地の邦人社会では、由紀夫青年と幸夫人の〝怪しい仲〟が心配されていたという。
そして実際、それから1年もしない間に、第2の〝事件〟が起きてしまう。
何と、幸夫人が田浦さんの家から出奔してしまったのだ。
「ある日、私が帰宅すると、〝家を出て行きます〟という置手紙だけが残されていまして……。
その時初めて、ああ、2人はそうだったのかと知りました。
義兄はポストの手紙事件後、探偵を使って2人を尾行し、不貞の事実を確認していたそうです。
結局、幸からはそれっきり、今に至るまで一度も連絡はない。
もちろん、由紀夫くんも二度と店にも現れなくなりました」
結果、2年後の73年、田浦さん夫妻は正式に離婚する。
が、その手続きも、幸夫人の母親が突然、田浦さんのもとに現れ、一言〝協議離婚にしたい〟と言ったのみ。
慰謝料はもちろんのこと、謝罪の言葉すらまったくなかったという。
「私としては、何だか〝もういいや〟という気持ちでね。
ドライというか、冷めた気持ちになっていました。
姉夫婦はかなり頭にきてました。
そりゃあ、あれだけ由紀夫くんの面倒を見ていたわけですから、裏切られた思いが余計に強かったのでしょう」
出奔後、幸夫人は由紀夫青年のもとに走り、そのまま同棲。そして2年後、結婚する。
当時、本誌『結婚』欄で報じた際、28歳の由紀夫青年はこう語っている。
<僕も彼女も、なるべく円満に事を運ぶために、忍耐強く、時間をかけました。幸い、ご主人が話の
よくわかった方で、3年前、協議離婚が成立したのです>
円満どころか、恩人の妻に手を出した挙句の紛れもない〝略奪婚〟だったのだ。
ちなみに結婚式直後、ゴッドマザーこと新総理の母、安子さんが『蝶々』を訪れているが、やはり、
田浦さんには会わず終いだった。
◆車でも用意してちょうだい◆
田浦さん実姉、坂田哲子(のりこ)さん(83)も、憤懣やるかたない思いを吐露する。
「主人が生きていたら、由紀夫が総理、幸がファーストレディと聞いてどれほど憤ったことか。
彼は私たちが世話したことを当たり前のように思っている。
幸の方は、いつも自分が一番でないと気がすまない性格。
2人とも常識がなさすぎます。
こんな人たちが庶民の気持ちなど分かるわけがないし、リーダーになるなんて信じられません」
幸夫人は『蝶々』を辞めさせられて後、まだ田浦さんと離婚する前から、知人の紹介でシスコ市内の
宝石店に勤め始める。
そのオーナーで、今もシスコ在住のレタ・ターナー女史の述懐。
「私自身も恋多き女でしたから、幸さんもそこに共感したのか徐々に仲良くなり、よくお寿司屋さんでご馳走しました。
〝新さんに興味が持てない、あまりセックスもないの〟とご主人のことを憂鬱そうに話す一方で、
鳩山さんのことは〝とても気に入ってるの、運命の人かもしれない〟って嬉しそうに言ってました。
彼女が鳩山さんに恋をしているのは一目瞭然でしたね」
駆け落ちの相談もされたという。
「ある夜、2人で自宅に訪ねてきて、〝新さんのところから出たい〟っていうの。
鳩山さんは後ろに立ってるだけで、幸さんが彼を従えているような印象でした。
彼女が鳩山さんのもとに走ったのは、どこかお金に惹かれたからじゃないかしら。
当時は日本人はほとんど永住権をもらえない時期で、そんな時代に日本料理店で成功していると聞けば、
誰でもそれなりの資産を持っていると思います。
それが実際に新さんと結婚してみると、ウェイトレスの手伝いばかり。
幸さんは、アテが外れたように感じていたのかもね」
後に女史は2人の結婚を風の便りで知るが、今に至るまで、夫妻からはクリスマスカード1枚すらないという。
田浦さんを古くから知る知人の実業家もこう憤る。
「恩人の奥さんを奪い、その尻拭いを母親にさせ、自らは未だに謝罪の一言もない。
政治家という以前に、品性が卑しくモラルも何もない人間としか思えない」
田浦さんは、政治家の妻となった幸夫人の〝ある行状〟を当地総領事館の友人から伝え聞き、酷く哀しい
思いをしたことがある。
再び、田浦さん本人が語る。
「時期は忘れましたが、幸は一度、1人でシスコに遊びにきたことがあるそうです。
その歳、シスコの総領事館の人に大きな顔をしていたらしい。
私は鳩山由紀夫のワイフよ、車でも用意してちょうだい、て調子でね。
ショックだったね。
何でそういう常識に外れたことをするのか……」
さらに、米国で医師と結婚していた幸夫人の実姉からかつて聞いたこんな言葉を、いま思い出すという。
「当時、お姉さんはよく〝私は金持ちとしか結婚しない〟と言ってました。
妹の幸も派手な世界の出身ですし、やはり私の収入では物足りなかったのかも……」
そして最後に、元妻へこんな苦言を呈す。
「由紀夫くんは友愛って言うけど、それなら、ワイフである幸も自分が目立とうとするのではなく、本当に
愛があるなら、ボランティアをやったり困っている人をヘルプしなくちゃ。
それでこそ愛が見えるしファーストレディでしょう」
35年の昔とはいえ、新総理夫妻の〝原罪〟、決して軽いものではあるまい。
鳩山幸 元夫・田浦新一朗氏が実名告白 私を裏切った由紀夫くんと幸へ
週刊文春2009年9月24日号
小誌は9年前、鳩山幸夫人の前夫の義兄、ジェームス坂田氏の手記を掲載した。
そこには、義弟の妻を奪い、その家庭を壊した、およそ「友愛」とは程遠い由紀夫氏の行状が綴られていた。
そして今回、前夫の田浦新一朗氏本人が、ついに重い口を開いたのである――。
▲「お金がある人じゃないとダメなの」が口癖
▲昔から有名人好き
▲謝罪は母・安子さん任せ
「九州にいる親戚から昨日電話がかかってきました。〝幸がファーストレディになるからテレビに
出まくっているけど、相変わらずチャラチャラしてるよ、やだねぇ〟と……」
こう話すのは田浦新一朗氏(72)。
サンフランシスコ郊外に在住する田浦氏は、鳩山由紀夫首相婦人・幸さん(66)の前夫だ。
彼女の略歴を『朝ズバッ!』(TBS系、9月7日放送)ではこう伝えている。
●1961年 宝塚歌劇団入団
●1967年 宝塚を退団。ダンスの勉強をするためアメリカへ留学
●1975年 アメリカ留学中の鳩山由紀夫氏と出会い結婚
運命的に出会い、熱愛のすえ結ばれたように見えるが、この結婚はそんなに美しい物語では決してなかった。
なぜなら二人の結婚は不道徳な略奪婚だったからである・・・・・・。
実は小誌は9年前にも田浦氏に面会している。
田浦氏の義兄のジェームス坂田氏が
「総理を狙う男を告発!義弟の妻を奪った輩を許さない 初めて明かす鳩山由紀夫の不道徳な〝略奪婚〟」
(2000年10月12日号)に手記を寄せた。
そのとき田浦氏は、
「今は幸も私もそれぞれ家庭がありますから、昔のことはお話しするつもりはありません。それに男と女のことですから」
と言っていた。
そしてこう続けた。
「義兄と姉は、由紀夫君が30年以上前〝サンフランシスコでしたこと〟を現在も許せずにいます。
由紀夫君が市井(しせい)の人ならば、昔のことを公にする必要はありませんが、現在、由紀夫君は総理を
狙う政治家というではありませんか。ならば、過去のことを日本の方々に話したいという義兄の気持ちに、
反対する理由はありません」
当時、由紀夫氏は民主党代表。
森喜郎政権の支持率が低迷していたこともあり、次期総理の有力候補として名前が挙がっていた。
あれから9年の月日が流れ、いよいよ鳩山政権が誕生した。
◆間男に総理は務まらない◆
9年前の取材の折に、坂田氏は憤りを露わにし、「間男をするような男、泥棒に総理大臣は務まらないでしょう」
と吐き捨てていた。
その坂田氏も5年前に他界した。
「義兄があのとき発言したことを鳩山夫婦が真摯に受け止めてくれることを願っていたのですが、最近の様子を
聞くと、どうやらそういうこともないようですね」(田浦氏)
坂田氏の手記を簡単に振り返ろう。
70年、東京大学卒業後、スタンフォード大学に留学することになった鳩山氏。
知人の紹介で、日系2世の坂田氏一家が、鳩山氏の慣れない外国暮らしのアテンドをすることになった。
当時坂田氏はサンフランシスコで日本料理店「蝶々」を経営。
そこで手伝っていたのが、田浦氏と嫁の幸さんだった。
翌年、由紀夫氏と幸さんの密会が目撃されるようになる。
◆食事代もチップも払わない◆
坂田氏の夫人・ノリコさんが証言する。
「主人のもとに、弟の家の近所に住む日本の会社の駐在員の奥さんから、弟の留守中に不審な男が
出入りしているという内容の手紙が送られてきたのです。
散々考えた挙げ句、主人が元CIC(米軍諜報部隊)の情報局にいたシュワルツさんにお願いし、2人を尾行してもらいました。
1週間後に届けられた報告書には、幸と由紀夫君が、彼のムスタングでホテルに行ったなど詳細が報告されていました」
その後、幸さんは計画的に田浦氏の家を出て、鳩山氏と同棲。
以来、今日に至るまで、詫びはおろか連絡も一切ない。
坂田氏の手記より。
<昔から「添え膳食わぬは男の恥」という言い方もありますが、一宿一飯の世話になった男の嫁に関しては、
話は別というのが常識でしょう。(中略)由紀夫氏には、そういったモラルが完全に欠如している>
ノリコさんが続ける。
「当時お店の休みは日曜日だけでしたが、私たち夫婦は留学してきた由紀夫君のために車で一時間ほどかけて
スタンフォードのあるパロアルトまで行き、お弁当を届けていました。
ときどきは店にもみえてましたが、食事の代金もチップも一度も払うことはなかったです。
お金持ちのお坊ちゃまはそういうものなんでしょうか。
これでは庶民の気持ちなんてわからないでしょうね」
幸さんについては、
「店の従業員の女の子と、とにかくうまくいきませんでした。
いただいたチップの取り分が原因で揉めたことも一度や二度ではありません。
恐らく、いつでも自分が一番目立ちたいという性格が災いしたんでしょう。
店には有名人のお客様も多く、訪米時には空港まで迎えに行っていましたが、そういうときはいつも張り切っていましたね。
森繁久彌さんがいらしたときに、私の着物を貸しましたが、いまだに返してもらってません。
〝私お金がある人じゃないとダメなの〟と口癖のように言っていました」
ノリコさんも最近、テレビの国際放送などで、幸さんを目にすることが増えた。
「相変わらずのようですね。
幸は〝人生には無駄がありません。前夫の家が料理屋で、そこでお料理を学んだおかげで、今お料理の本を出したりできた〟
と言ってましたが、彼女が厨房に入って料理をしたことは一度もありません。
彼女の仕事はいらしたお客様をテーブルまで案内するのがほとんどでした。
もともと幸は知人と一緒に突然シスコにやってきて、3日目から弟の部屋に入り浸ってしまったんです。
困った弟は別の部屋で寝ていました」
翌年、田浦氏は幸さんに押し切られる形で結婚する。
しかし、前述のように従業員とのいざこざが絶えず、坂田氏は幸さんに店を辞めさせた。
当時のことを幸さんはこう振り返っている。
「私は家を出ます、って言ったの。
(中略)贅沢な話だと言われるんですが、それまでの結婚は自由でしたが生活感がないというのか。
お金を手にしないでもサインとカードで暮らせるアメリカ生活に物足りなさを感じていたんです。
自分で給料をもらって、その中でやりくりをするようなことがしたかった」
(『週刊朝日』95年12月15日号)
◆葬儀に花を贈った弟・邦夫氏◆
ノリコさんが続ける。
「当時のアメリカはまだカード社会ではありませんでした。
幸は昔から、自分をよく見せるために、ストーリーを作ることが多かったですね」
由紀夫氏との出会いについて、幸さんが語っていることにも、事実とは異なる点があるという。
幸さんの説明。
「今度この人がアメリカに行くからよろしくね、という感じで里帰りで初めて会ったのね。
あたし別に興味なかったんだけど。
世の中偶然がないからね、これが必然で赤い糸だったって思うのが、同じ飛行機で(シスコに)行ったのね。
1年くらいしてからダウンタウンを車で走っていたら彼を見かけて、これが2度目の出会いね。
それから毎週シスコに出てくるようになって、私が食事を作ってあげて・・・・・・」
(テレビ東京『美女放談』での発言より)
ノリコさんが言う。
「幸が初めて由紀夫君に会ったのは、私たちと一緒に由紀夫君を迎えに行った空港だったと思います」
◆前夫から最後のメッセージ◆
田浦氏も、
「偶然っていうのはそんなに重なるものなんですかね(苦笑)。
私が最初に由紀夫君に会ったのは、たしかに知人の紹介で東京でしたが、その時は幸はいませんでした」
自身の都合のいいようにストーリーを展開するというのは幸さんのみならず、由紀夫氏も同様のようだ。
75年3月、鳩山夫妻は結婚。
当時のマスコミには鳩山家の御曹司がバツイチの女性と結婚するというので、随分書き立てられた。
不義理の末の駆け落ちと報じられたが、由紀夫氏は、
<それは間違いです。僕も彼女もなるべく円満に事を運ぶために、忍耐強く、時間をかけました>
(『週刊新潮』75年4月10日号)
しかし鳩山夫妻は、幸さんが田浦家を出てから一度も、田浦氏はもちろん坂田夫妻と話し合う機会も持とうとしなかった。
「由紀夫君のお母さまの安子さんが、二人の結婚式のときにお詫びにおいでになっただけです。
主人が亡くなったときに、弟の邦夫さんからはお花をいただきましたが、由紀夫さんからは連絡すらありませんでした」
(ノリコさん)
坂田氏は手記の最後に自身の思いをぶつけている。
<モラルのない人間が政治をやると、それはただの『政治屋』になってしまいます。
先の大戦で無辜の民を苦しめた日本の政治家は、依然として同じ体質なのでしょうか。
(中略)こんな男に国をまかせておいていいのか・・・・・・>
渡米して50余年が経つ田浦氏も、遠い異国で日本の行く末を憂えている。
困ったことが起きると雲隠れし、挙げ句母親に詫びを入れさせる。
そんな男が日本の首相の座につく。
「最近読んだ『白州次郎 占領を背負った男』(講談社)という本に、こんな一節がありました。
〝主義主張を異にする自社両党が政権のために連立するのは政党政治の本領に反し、ひいては両党のためにもなるまい〟。
昭和22年、吉田茂の自由党が片山哲率いる社会党に第一党の座を明け渡したとき、片山は単独で政権を担う自信が持てず、
自由党からも閣僚を送ってほしいと申し出たのですが、そのとき吉田茂は、こう言って申し出を断ったのです」
田浦氏は、男なら由紀夫氏も、このくらいの覚悟を持ってほしい、という。
一方、幸さんはアメリカの新聞「サンフランシスコクロニクル」に、<エキセントリック・ファーストレディー>
として取り上げられている。
田浦氏が言う。
「幸夫妻が以前、テレビ番組『料理の鉄人』に出ている姿がこちらの日本語放送でも流れましたが、ああいうことは
これからどうかと思います。
アメリカのファーストレディーはボランティア活動にも積極的に取り組んでおり、また夫の外遊にも同行ししっかりと
内助の功を果たしています。
きちんとしたファーストレディーになってください。それが今の私が唯一彼女に言いたいことですね」
民主党が第一党になった翌日、スポーツニッポンの手記に「家庭を守れない者に国は守れません」と、幸夫人は書いた。
かつて人を傷つけた自覚があれば、こんな言葉が軽々しくでてくるはずがない。
<終了>
告白スクープ鳩山新総理(62)の異母弟(41) 午前7時出勤ビル清掃
女性セブン2009年10月1号
由紀夫には邦夫とは別にもうひとりの弟がいた。
午前7時、台東区浅草。
オレンジのチェックのシャツに大きなリュックサックを背負った男性が出てきたのは、
小さな古いスナックや小料理店が建ち並ぶ住宅街にある、マンションからだった。
元総務大臣の鳩山邦夫氏(61才)に瓜二つのこの男性に声をかけ、取材意図を告げると、
「鳩山さんとはいまは会ってません。小さいころのことですか・・・・」と短く答え、
立ち止まることなく大通りに向かっていった――
*1:TVだって電話だって数百年前のひとにとっては魔法でしょ☆