――結局、俺は、本物の覚悟なんて出来やしない人間なんだ。
百円ちょいのコンビニのおにぎりを、勢い良く頬張る。別に美味いわけでもないのに、一つ食べ終わると次が欲しくなる。三つほどおにぎりを平らげたところで、今度はもっとボリュームのある物、弁当が食べたくなった。半透明のビニール袋を凝視する。からあげ弁当があった。ああ、食べたい!
「…………」
はっ、と我に返る。突き刺すような冷たい視線が、俺の体を貫いた。そいつは羞恥心を刺激して、俺の全身を熱くさせる。未来でもパラレルワールドでもいいから、もう一人の俺がこれを見ていたならば、俺を殴りに来てくれ。今すぐにだ!
「その……人間だって、動物なんだぜ」
弁明してみた。通じてるかわからないけど。
背は低くて、歳は中学生くらい。エメラルドグリーンの、安っちい蛍光色のパーカー。その下にだぼだぼの、ブラウンのワンピース。クリーム色の短パンからは、ぽきっと折れそうな、白くて細い足が伸びている。沢山の食料と飲料水が入ったコンビニのレジ袋を持った少女は、二、三歩後退し「もうエサはあげない」と態度で示した。OK、OK、俺だってそんなのは本意じゃないんだ。ただ、その……
「な、何か、飲み物を――」
いつのまにか、俺は立ち上がっていた。少女から恵んでもらった500mlペットボトルに入ったサイダーを、腰に片手を当てながら、ゴクゴクと豪快に喉の奥に流し込む。今の俺をスナップすれば、そのままこのメーカーの広告として使えるぜ!
虫の鳴き声が大きくなった気がした。墓地にいるのかと錯覚させる、陰気だった生ぬるい風も、汗に濡れて、肌にじっとりと纏わりつくTシャツの不快感も、全て裏返った。そこにあるのはもう、期待感と解放感を集めた、心地よい夏の夜だった。
「ありがとう。助かったぜ」
人生を今振り返ると、心から他人に感謝したのは初めてかもしれない。やはり人間は、一度ギリギリの体験をしないと、心が養われないのだ。そう思うと、このバカ丸出しの俺のステイも、意味のあるものだった気がする。えらい人には笑われるだろうけど、きっと俺は今、成長したんだ。精神+1、みたいな。
俺に施しをくれた少女は、何も言わず俺を通り過ぎようとした。
「えー、あ、えーあぁ……」
ある意味正しい判断だ。こんな時間こんな場所で出会った怪しい大人とは、あまり関らないほうがいい。けれどそれは、相手が悪人だった場合。この俺のように、ZENNINだった場合、もう少し何かあってもいいのでは。エロゲ脳なのは否定しない。けど、何もかもを素通りしてしまうのが現実なんて、寂しい世の中だ。
「あの――お金、いいの?」
「いい」
すれ違い様、少女は、ぼそっと呟いた。暗いのと、暑くないのか、フードを被っているせいでイマイチ性別がよく分からなかったが、声でやっぱり少女だと確信する。まぁワンピースを着ているから女の子なんだろうけど、世の中には色んな趣味の人がいるからね。
まぁそんなことよりだ。あらゆる俺の煩悩を押し出すと、この状況で残るものは――。
携帯を最後に見た時、夜の十一時だった。それからだいたい二時間くらい彷徨って、この見渡す限り星空と田んぼしか無い場所に迷い込んだ。つまり俺は、こんな人気の無い場所で深夜に、一人で買い物帰りの少女と出会った。この地域の治安とか住人マップは知らんけど、俺が少女の父親だったら、夜にこんなところ一人歩きさせたく無い。――整いました。そうだ、お礼に彼女を家まで送ろう。そうしましょったらそうしましょう!
「君、怖くはないのかい。よかったら、お礼に家まで一緒に行くけど」
振り向いて、彼女の背中に善意の申し出をぶつけた。
「――ついて来ても、何もあげないよ」
ショックだ。下心があると誤解されている。それもかなりレベルの低い。
それでも今度は、立ち止まり、こっちに振り向いた。やっぱりちょっとは怖いんじゃないかな。正直言うと、俺だって人恋しくなるというか、不気味に思ってしまうよ、この夜のあぜ道は。途中にお地蔵さんあったし。
「心外だ、と言わせてもらおう。俺は君を心配しているだけさ」
まぁ、こんな場所で荷物も持たず、大の字にぶっ倒れていた男を信用しろというのが無理な相談だろうが。というか、よくこの娘は平然としているものだ。まず最初に、死体かと思って悲鳴をあげたりすると思うのだが。この暑さでフード被ってるし。普通じゃないオーラがびんびんだぜ!
「何で?」
きょとん、と首をナナメにかしげて、少女は問う。
「何でとは?」
聞き返す俺。ちょっと半笑いしている。今の動作は反則だぞ、少女。
「何で心配なの?」
おっとぉ――コイツは困ったぜ。この娘は、人間が持つ当たり前の良心とか、男のSAGAとか、分かってないようだ。どう説明するべきか。いやその前に、俺がそれを説明出来るのか。俺ってそんな立派な人間だっけ。学生時代、好きな女子が教師を目指していたから、俺も便乗して教師を志した時期があったけど、結局何も挑戦せずに諦めた。もしかして、今、俺の埋もれてしまった可能性を試す時なのか。よし、では金八や鬼塚顔負けの、心にズドンとくる言葉を、彼女の胸に投げてみよう。
俺は少女の顔をじっと見つめた。大切な話をする時は、目と目を見て話をしなければならない。俺は、彼女の大きな二つの瞳を、真剣な眼差しで見る。次に、着古してたるんだワンピースの胸元。少し骨ばっているが、美しい体の曲線……。ああ! 俺は思い出してしまった。俺は立派な人間どころか――
「君と、セックスがしたい」
“Lolita complex”だった!
「ッ――!」
俺の言葉は、少女の胸に響いたようだ。少女は驚いて口を半分開き、目と頬の筋肉を引きつらせて硬直すると、次の瞬間、全速力で、俺から遠ざかるように走り出した。これが、送る言葉というヤツか。
俺は、あまりにもアレな発言を生まれて初めて使ったという、ある種の達成感に浸っていた。核の発射ボタンを押した人間と、何かの雑誌で対談したい気分でもある。変な噂が広まっても、俺は別にここに住んでる人間じゃないし、気にしない。
そのとき、俺は気付いてしまった。俺の集音性能の高い耳が、ちゃりん、と駆け抜ける少女の体から小さな金属が落ちる音を拾った。少女は気付かず、買い物袋を抱えて必死に走り続ける。小走りでその地点に行って、少女の落し物を拾う。どうか、ストラップか何か、どうでもいいものでありますように!
ねがいは裏切られた。
「お嬢さん、お待ちなさい! たぶん大事な物を落としましたよー!」
声は届かなかった。少女はグングン俺から遠ざかる。もしこの声が聞こえていても、立ち止まる可能性は低いだろう。そりゃそうだ。これであっさり引き返して来るなら、ちょっとヤバいぜあの娘。これは純正の親切心だけど、今の俺は狼少年というか、性欲少年だし。
俺は手のひらの上に乗せた、一つのリングで連なる鍵の束を見て考えた。
(さて、どうしよっか)
おそらく、少女の家の鍵だと思われる。これではまるで“もりのくまさん”じゃないか。
選択肢は二つ。一つは、放っておく。後で気付いて、頃合を見て探しに来るかも知れないし、鍵が無くても、家に誰かいれば家には入れるだろう。もう一つは、追いかけて届ける。人道的にもこっちがおススメだ。だが、これはリスクもある。少女の中で、俺は完全に変質者。下手すれば、警察さんのお世話になってしまう。というか、既に携帯か何かで通報されてたり。
「あぁ――」
ぼさぼさと乱暴に頭を掻いた。
もう少女の後姿は夜の闇に消えている。今になって、どうしようもなく心配になる。いや、ホントは、それは最初から変わらないんだ。
俺はマラソンのようなスピードで、少女の後を追いかけた。
少女の気持ちを考える。怖いだろうな。罪悪感で潰されそうになる。
やはり俺は、生きていてはいけない人間なのか!?
子供の頃、六つ年上の従兄弟が、俺の家で『BIO HAZARD』をやっていた。小学生だった俺は、ふとんに包まりながら、おそるおそるそのプレイを見ていた。いきなり部屋の鍵が閉まって、トゲトゲの天井が迫ってきたり。突然ゾンビ犬が現れたり――。なんで今そんな話をするかというと、つまり、今、そんな気分なんだ。
ランニングスピードでは、成人男性と少女というハンデ(さらにあっちは荷物付き)があっても、全速力の相手には追いつかなかった。どっかでバテてるだろうという浅はかな考えで、少女が去っていた方に走り続けたけど、俺の追跡を避けるためにルートを変えたのか、俺は少女の影を掴む事は出来なかった。半分適当、半分は俺の『シックスセンス』を頼りにゆるゆると走り続け、なんとかそれっぽい住宅街にたどり着いた――のはいいけれど。ここに少女がいると限らないし、もう家に着いて、両親に俺のことを話し、警官が俺を捕まえるべく動いているんじゃないか――という恐怖心に襲われている。いつ曲がり角から警官が現れて「こんなとこにいたのかよ、ロリコン!」とこちらにダッシュしてくるか。俺にしてみれば、あの発言は一種の自己啓発なんだが、それを理解してくれる人が世界にどれだけいるだろう。そんなわけだから、この鍵を交番に預けてサヨウナラ、というのも出来ず。
(それにしても……)
恐怖を助長するのが、この暗い街だ。時間を考えれば仕方ないんだが、世間的に今は夏休みだし、若者がどっかではっちゃけていてもいいんじゃないのか。小高い丘にある閑静な住宅街に、俺はどーにもイヤな気配を感じる。都会と地方の差、といえばそれまでだが、息苦しいような、閉塞感を街中から受ける。それこそ、天井が迫るような、じりじりと、空間が縮んでいく感覚。まぁ、気のせいなんだろうな。俺のひねくれた人生が、あらぬ妄想を駆り立ててるだけ。それより、そろそろマジにどーするか考えないと。
さて、俺は何をどうしたいんだ?
乱れる胸の感情の渦から、一つ一つ正直な心を取り出してみよう。まず優先順位一位。警察にはお世話になりたくない。第二位。やっぱり少女とセックスしたい。第三位。少女の誤解を解きたい。第四位。少女に『いい人』と思われたい。第五位。少女の水着姿が見たい。第六位――ってダメッ……! これ以上は無意味だ。自分に正直になっていいのは、清く正しい人間だけだよ。どうして学校ではそれを教えないんだ! 俺は俺の感情を直視すると、自分の嫌なところしか無いんですが。このランキング、最低野郎だよ。
「おっ」
思わず声を漏らした。今日の俺は感情表現が豊かだ。自分のことを知る者がいない街というのは、人の心に羽を生やすもかも知れない。
そして俺は唯一、この街で俺を知る人間を発見した。相変わらずパーカーのフードですっぽり顔を隠したそいつは、とある家の鉄の門の前で立ち呆けている。その様子は、鍵を無くしたことに今気付いたっぽい。すると、ここに来るまでにかかった時間は同じくらいか。
ここでノコノコ彼女の前に出て行くほど俺は愚かじゃない。俺は物陰に隠れて、少女が気付くように、少女の足元を狙って落し物の鍵を投げた。よくコントロールされた鍵は、少女の足の手前にかちゃん、と落ちた。静かな夜だったので、少女もすぐその音に気付き、鍵の方に視線を向けた。
(ふっ。これで一件落着か)
と、俺は一息つこうとしたが――。
鍵は、一度地面にぶつかるも、ここいらのコンクリートは滑りが良いのか、停止せずに、するすると滑って少女の足の間を抜け、その先にある排水溝の穴にホールインワンしてしまった。
(ど、どうしよう)
滅茶苦茶焦った。が、まだ出て行かない。少し可哀想だが、なんとか少女に自力で鍵を拾い上げてもらおう。――しかし、若干とんまなのか、少女は鍵の行方をロストしたようで、回りをきょろきょろするだけで、排水溝を見ない。むむむ、万事休すか。というか、家の人はどうしてるんだ。俺は完全に責任転嫁して、少女が立っていた視線の先――たぶん少女の自宅だろう――を睨んだ。家族全員寝ていて、娘がいないことに気付いていないのか、死んだように真っ暗だ。少女は少女で、夜の外出がバレたくないのか、あくまであの鍵で家に入ることに拘るようだ。
それから、俺は五分くらい少女を見守った。あろうことか、あやつ、排水溝に落ちたかも、という発想に及ばなかったようで、鍵の捜索を諦めて、へたりと門の前に座り込んだ。そんでフードを外し、袋からパンを取り出して、体育座りでもきゅもきゅとそれを食べ始めた。
(なんか、和むな……)
なんて言ってる場合じゃない。あの娘はあのまま夜を明かす気なのか。天然にも程がある。家の人も、ご近所さんも、誰も気付かないのか。鍵の場所を知ってるのに、俺が出て行くと少女は逃げる。こうしてやきもきしてる間にも俺は、後ろから肩を叩かれて「ロリコンさん、交番までご一緒しましょう」なんて青い制服の人に言われるかも知れないというのに!
「排水溝を探すんだ。鍵は、そこにある」
迷った結果、俺は神様のお告げ策に出た。出来るだけ中田譲治を意識した、説得力のあるボイスを作り出す。
俺の声を聞いた少女は、びっくりしてパンをかじる動きを止め、しばらく人形みたいに動かない。だが信心深い少女は、パンを食べ終わると、もう一度立ち上がり、排水溝と格闘し始める。いいぞ。譲治効果はばつぐんだ!
が、すぐに別の問題が立ちふさがった。どうやら、少女の力では排水溝の蓋を持ち上げる事が出来ないらしい。流石にこれは遠隔操作ではどうにもならない。鍵の場所は教えたから、後は少女の知恵と行動力に託すしかない。俺自身の保身もある。あまりここに長く居ても仕方ない。俺はこの場を去る決意をした。そして最後に、少女の帰るべき家を眺めた。大きな家だ。中流以上の、裕福な家庭なんだろう。広い庭と、敷地を囲む白く高い壁。入り口には車が通れる幅の門。その傍で屈んで、一生懸命鍵を取ろうとする少女。彼女への罪悪感はまだあるが、羨ましいという気持ちもあった。俺には、どうしても帰りたい場所なんて無いのだ。
(すまんかった)
君に出会った時、俺は何か“持ってる”んじゃないかって、舞い上がってたのさ。どうしようもなく我侭なガキだよ。
俺は心の中で少女に謝罪し、くるりとターンした。行き先は、ここではないどこかだぜ――。
「オイ。てめぇ、ここで何してんだよ」
俺が振り向いた先には、坊主頭をキンキラキンに染めた、ゴツゴツとじゃがいもみたいに丸い顔の男のどアップ。口びるにピアス。頬にタトゥー。眉は神経質に細く整えている。
や、やっぱりいくらなんでもあの娘が可哀想だから、ちょっとイザコザがあるだろうけど、俺が出て行って排水溝から鍵を拾った方がいいよね!
俺は素早く回れ右をして、再び少女のいる風景に視界を向けた。だって後ろは、暴力の臭いしかしないんだもん。
「見ねぇ顔だな。おまえ、ナニモンだよ」
背後から肩を掴まれて、俺は無理やりまたターンさせられ、じゃが丸と向き合う。ここがスケートリンクなら、なかなか高難易度の技じゃなイカ。
「は、排水溝の神様です」
じゃが丸の、大根みたいぶっとい腕から繰り出された拳に、問答無用で殴られた。まだ俺の心はふわふわしてるようで、いくつか浮かんだ言動プランのうち、もっとも地雷っぽい選択をしてしまうようだ。俺は衝撃で、尻餅をつき、後頭部を地面に打った。
「殺されたくなけりゃ、坂咲さんには黙ってろよ」
サカザキ? 一体誰だよそりゃぁ。この地域の『グループ』なんて、俺にはさっぱり関係ないぜ。
俺を殴り飛ばしたじゃが丸は、そのままのしのしと一直線に、向かっていった。排水溝の前でごちゃごちゃとやっている、無防備な少女の背へと――。
(親しい知人じゃないよなぁ。どう見ても)
俺は逆さまの視界でそれを眺めながら、どうやら血をみなくてはならないこの先のシナリオに、身震いした。同時に、あまりに静かすぎる街に、なぜだか怒りを覚え始める。俺はとりあえず立ち上がって、シャキっとした。
勘違いしないで欲しい。この時、俺には選択肢が他にあった。逃げる、大声で助けを呼ぶ、などなど。
そして――お分かりの通り、俺はやっぱり一番地雷っぽい選択に決めました。
じゃが丸は少女に接近する。気配に気付いて振り向いた少女の口を、手で塞ぐ。
(ヤッパリナ)
俺の『エンジェル』に汚い手で触るんじゃねーよ。
俺は駆け足でじゃが丸との距離を縮め、そのままスピードを乗せた足のつま先を、じゃが丸の無神経にデカデカとしたケツの肛門にぶち込む。
「おぉぉうッッ!?」
ヒキガエルみたいに聞き苦しい苦悶の叫びを上げるじゃが丸。ざまをみよ。俺は、俺が我慢していることを他人に目の前でやられるのは大嫌いなのさ!
「てて、てぇぇめぇぇ!」
小さな目を血ばらせ、フーフーと荒い息を吐くじゃが丸。それはもう、理性をぶっとばした猛牛だった。ここまでやっといていまさらだけど、すんげー怖い。
「半年口のきけねー顔にしてやっかんな」
どうする。逃げるか。体型的に、追いかけっこなら負けないが――。少女をちらりと見た。驚いて、パニックになっている。彼女の行動にはあまり期待出来ない。人質が向こうにある状態に等しいか。なら逃げるのはマズイ。あいつがバカで、俺を追ってくればいいが……というか、男の心情的に、少女の目の前で他の男から逃走したくない。思い出せヤマト。俺の無垢な心の優先順位、二位を!
ピンチはチャンスだ。ここでじゃが丸をぶちのめせば、俺は変態から少しランクアップ出来るだろう。そうだ。俺のエロゲ脳が言っている。やつを倒せと轟き――いや待て、しかし、彼我の戦力差を冷静に考えろ。じゃが丸はコテコテのヤンキー。俺は大学中退の、オブラートにモンハンっぽくすると“バーサーカー”級のニート――
ガチのタイマンなら間違いなく負ける!
「うげふ!」
じゃが丸パンチが、俺の腹に突き刺さる。動きはそれほど速くなく、見えていたけど、ビビッて硬くなってる俺の運動神経じゃよけきれず、クリーンヒットする。鉛のように体が重くなる。呼吸が苦しい。これで、逃げるプランは完全に無くなった。
それからはずっとじゃが丸のバトルフェイズ。じゃが丸は身長が平均より小さく、手足が短い分、回転が速い。畳み掛けるようなラッシュで、俺はもうボッコボコ。こんな痛みの暴風に晒されるのは生まれて初めてです。カッコいいとか悪いとか、もうそんなこと考える余裕は頭にどこにもなく、死ぬかもしれない、という恐怖と、早く終わってくれ、という願いでガンガンアラート鳴らしまくり。俺に出来るのは、亀みたいに丸くなって被ダメージを軽減することだけ。か、顔はやめて!
「おまえたち、何をしている!」
意識を保つのが辛くなった頃、張りのある、舞台俳優みたいにやけに通る気持ちのいい男の声がした。
ちっ、と舌打ちの音。嵐が止んだ。じゃが丸は、撤退したようだ。
「君、大丈夫か!?」
ああ、と納得した。青い制服の人だ。崩れかける俺の体を支える警官は、びっくりするくらいイケメン。俺は安堵した。この人になら、一回くらいケツを掘られてもいいかも。
「こちら巡回の有田。○○の○○番地で不審な男を発見。男は○○方面へ逃走中。応援を頼む」
そうか、お巡りさん沢山来るのか。なら、少女のことはもう俺が何も案じなくていい。あれ? それより、もっと案じなくちゃいけないヤツが一人いたような。うーん、神経は痛みを伝えるばっかりで、そいつを教えてくれないぜ。まぁ、いいや――。
ぴんぽーんと、チャイムが鳴った。ぴんぽーん。二回目。まったく聞き覚えが無いが、音の大きさから察するに、我が家のチャイムに間違いないだろう。
(誰だよ。こんな朝っぱらから)
時計で確認したわけじゃないが、まだ全然寝足りないという己の睡眠欲の満たされ具合で、時刻は朝の六時から七時の間だと予測する。
秋陽セツナは、六畳一間の風呂無しボロアパートを借り、居酒屋でアルバイトし、生活費を稼ぎながら演劇学校に通う、二十二歳の苦労人である。月に数回、都内の小さな劇場で演じたり、オーディションを経験したりと、華やかではないが、夢に向かって着実に進み、充実した日々を送っている。彼女はいない。部屋にはカップラーメンのゴミと、空のペットボトルが散らばっている。ブンブンと五月蝿く回転する扇風機は涼を運ばず、生ぬるい微風を叩きつける。それでも、無いよりはマシ。所狭しとあちこちに吊るされた衣服は、貧乏を絵に描いたような空間に似合わず、洗練された、お洒落な彩を放っている。しかし部屋のスペースを大いに侵食し、外光も遮ってしまうめ、常にセツナの部屋は薄暗く、占い師の館のような怪しさしか与えない。
(居留守とキメ込もう)
俺の家にアポ無しで来るなんて、新聞の勧誘くらいだろう。セツナは糸のほつれたタオルケットを被り直し、まどろみの境界を遮るように瞳を閉じた。
ぴんぽーん。三度目。まだチャイムは鳴った。あちらさんもなかなかしつこい。セツナの額に、ぴくっと線が走る。
ぴんぽーん。四度目。セツナは立ち上がった。この家の主の沸点の低さを知らないことを、後悔させてやる!
「うっせーな、コラ」
怒りをぶつける先を間違わぬよう、ドアだけは慎重に開けた。何分家のつくりがボロいので、勢い良く開放すると、壊れてしまう。
そうやって扉を開けると、その前にいるだろう人物に、思い切り不機嫌な顔で汚い言葉をぶつける。セツナは、悪辣な表情には定評があった。学校でも、そういう役柄を前提として授業に臨んでいる。喧嘩で何人もを相手に立ち回れるほど腕っ節は強くないが、その鬼気迫る貌のおかげで、学生時代は不良グループからも一目置かれていた。セールスや宗教の勧誘野郎なんて、一睨みで追い返す自信がある。
しかし今回は、その目論見はやや外れた。
「朝早くに失礼します。秋陽さんのお宅で間違いありませんか?」
「そうだけど……」
振り上げた拳の着地点を見失い、セツナは怪訝な顔をして誤魔化した。早朝の訪問者は若い女で、社会人として最悪ともいえる対応をしたセツナにも動じることなく、しっかりとした声を発したのだ。大人びた顔に似合わぬ黒髪のツインテール。無地のシャツに青と白のチェック柄のスカート。立ち姿も品があって、清楚な、器量のある女だった。
(こんなのが同級生にいたらほっとかねーなぁ)
不躾に初対面の女性をしげしげと見るセツナ。
「あの、ここに兄……ヤマトは来ていませんか?」
「はっ?」
寝ぼけ眼が一気に覚醒した。
なんだったって、こんな可憐なお嬢さんが、あのど阿呆の名前を――というか、兄!?
「えーと……妹さん?」
ETみたいにふるふるさせながら指差して、セツナは女に確認する。
「はい。不本意ながら。宮葉カエデ、宮葉ヤマトの妹です」
はぁっ、とため息を吐きながら自己紹介し、憂いた瞳を伏せるカエデ。
ヤマトに妹がいるとは知っていたが、それがこんな上玉とは。今は七月下旬。まだ半分しか経過していないが、セツナにとってその事実は、既に今年一番の驚きとして、セツナの中で確定ランプが灯った。これを上回るのは、マイケル・ジャクソンが実は生きていた、くらいのビッグニュース、インパクトを要する。
「へぇー。てか、よく俺の家が分かったね」
セツナの自宅を知っているのは、演劇学校の仲間数人と、ヤマトを始めとした学生時代の友人数名だけ。ヤマトが自分のことをそこまで家族にオープンにしてるとは思わないし、セツナは純粋に疑問に思った。
「秋陽さんのファンの方から……。クラスメイトにいるので……」
こちらの質問を後回しにされたが、セツナが好奇に思うのも理解出来るので、カエデは、自分がセツナの家を知った情報の出所を、言いにくそうにしながらも、答える。
「――マジかよ。それが本当なら、めちゃくちゃハッピーだぜ」
よくよく考えれば怖い話だが、『秋陽さんのファン』というフレーズは、とにかくセツナを有頂天にした。さっさと用件に応えて二度寝する予定だったが、もう少し話をしてもいいな、と思った。
「ヤマトはいねーけど、話があるなら、上がってくかい?」
最初の泣く子も黙る形相は何処へやら、人懐っこい柔和な笑みを見せるセツナ。
(面白い人)
それを目にしたカエデは、こんな人が兄の友達なんだな、と優しい気持ちになった。と、同時に、この人が兄の秘密を知れば、どう思うだろうと考えると、すぐに暗くなってしまった。
一人暮らしの男の人の家に上がるなんて、カエデには初めてで、冒険だったが、どうしてか「お邪魔じゃなければ……」と、ごく自然に受け入れ、セツナを信用していたのだった。玄関をくぐり、カエデが靴を脱いだタイミングでセツナは「あ、後先になったけど、俺の家、ちょー汚いよ……」と、美少女に伺いを立てるが、カエデは「慣れてますから」と、頼もしく、きっぱりと言った。
とはいっても、カエデにどこまで耐性があるか、気を遣うセツナ。クリーニングなんて買ってから一度もしていないクッションを彼女に出すのには、そこそこ躊躇った。それでもカエデは嫌がる素振りを微塵も見せずそれに体を預け、部屋のそこかしこに飾ってあるセツナのファッションコレクションを、アトラクションを楽しむかの如く、瞳をきらきらさせて眺めていた。
(おうおう、流石ヤマトの妹だな)
いい女だ。俺があと三つくらい遅く生まれてればな。
「でー、わざわざ俺んところまでヤツを探しに来るってことは、ヤマトのやつ、なんかやらかしたのか」
学校の机程度のミニテーブルを挟んで対面して、話を始める。テーブルの上には、雑誌の山。セツナの本業である芸能関係の本は無く、もっぱらサッカーの本だ。それらに紛れて、ヤマトの私物のアニ○ディアとコン○ティークが何冊かあるが、それが露見する事はないだろう。
よく見ればカエデの格好は制服で、それは有名な女子高のものだった。サカリのついたガキ共にとって高嶺の花である、超お嬢サマ学校。学園祭のチケットはネットオークションでウン万円で取引される。そんな事に思いを巡らせたら、セツナは自分の今月の財布の厳しい事情を思い出し、どうしてかカエデから後光が差してる気がしてしまう。
「いえ。“まだ”何もしてないのですが……」
「まだ?」
「あ、いえ。実は――兄が、一昨日から家に帰って来ないんです」
「ほう」
珍しい出来事だった。セツナが知る限り、自分の家とヤマトの自宅以外、ヤマトに行き場所なんて無いと思っていたからだ。何しろニートで、金も持ってない上に、友達だって下手すりゃ自分以外に居ない。そんな行動範囲の極めて狭い人間が三日もテリトリーに居ないとなると、妹さんが心配するのにも頷ける。
「連絡はつかないのかい」
カエデは首を縦に振った。
「そうか……何があったか知らんけど、金もそんなに持ってやし無いし、腹が減れば帰ってくるだろうよ。俺も、後で連絡してみるわ」
「そうですね。どうか、新聞に載るような事はしなければいいのですが……」
カエデの発言を、セツナは笑い飛ばした。
「アイツはたまにバカやるが、他人に迷惑をかけるようなヤツじゃないさ――たぶん……」
セツナの家を出ると、カエデは生徒会役員の仕事のため、学校へと足を向けた。
カエデは、兄のヤマトの異常性を知る、この世で唯一の人間。
ヤマトは、六つ歳の離れた妹を性の対象として見ていた。カエデの下着はストライプ柄――縞パン――を強要され、「ご主人様」とか「お兄ちゃん」など、言葉遣いも矯正された。髪型もポニーテールかツインテールしか許してくれない。スクール水着を家で着せられるし、兄はそれを撮影したりもする。もう完全な変態さん、なのだ。ニートにして、犯罪者予備軍。そんな兄が、ふらふらと外の世界に出て行ったと思うと、ぞっとする。兄は高校生になり、成長した私に興味をなくしたのだろうか。そして外で、代わりを探しているのか。ああ、心配だ。
だが不思議と、カエデはそんな兄を嫌いにはならなかった。覚悟はとうにしていたが、最後の一線は越えてこなかったし、それに――。
俺の環境適応能力は流石だな。ニートは無人島でも問題なくニート出来るだろう――。
携帯の震動音で目が覚めた。もぞっと動くと、じゃが丸に暴行された箇所――ほぼ全身なんだけど――がピキピキした。痛い。ヨガとか体操みたいにゆーくりとした動作で、ポケットに突っ込んである携帯を取り出した。その後三つ数えてBAN!とかはしたりしない。
どうせカエデだろう。あいつも、こんな兄貴のことを気にしてどーすんのかね。
ディスプレイを開いて確認すると、表示されているのは妹のカエデの名前では無かった。
『イケメンでごめんなさい(笑』
――セツナか。
「hey!」
『おいプータロー。何処で何してやがる。妹さんが心配してたぞ』
マジかよ。健気だなぁアイツ。
「俺はもうニートじゃねぇ」
『ほう。ニートから囚人にクラスチェンジしたのか』
「残念。違います。今の俺は“夏休みを利用して全国一周する青年”なんです」
『山手線一周すら出来ないヒキコモリのお前がか? 素敵なジョークだな』
「だが実はそれは仮の姿で、本当は――『プリンセスガード』なんだ!」
『……俺は今、深い悲しみに暮れている。お前とカエデちゃんが血が繋がっている、という不幸な事実に――』
階段を降りるまでは完璧。後は、リビングを横切って玄関へ行くだけ――。
緋色ユイは階段のつるつるとした木製手すりに掴まりながら、ゴクリ、と息を呑んだ。
この家の個人部屋以外の全ては、常に扉を開放してある。個人部屋にも、鍵は無い。この家で鍵があるのはトイレだけ。それはこの家の主――ユイの父――の、「家族は常に繋がっていなければならない」という信念の基に作られたルール。だが、ユイからすればそんなの“冗談じゃない”だ。
あれから監視が厳しくなって、もう一週間以上彼女の家に行っていない。その間、表面上は大人しく従っているフリをしてみせ、ユイは機を待っていた。
朝の六時。平時なら起きてるだろうが、休暇中の父と母はまだ眠っているだろう。ユイは慎重に、音を立てないように足をすり足で玄関へと運ぶ。途中、ちらっとリビングを見た。人の気配は無い。これは行ける! ユイはそこから、大胆な足運びに変え、玄関へとスパートした。
「こんなに早くから、何処へ行くのかな」
背中に針を指されて、それが何かのツボだったかのように、ユイの体は瞬時に硬直した。おそるおそる振り向く。青いフレームの四角い眼鏡は知的で、口ひげをたくわえたダンディな男。四十を越えているが体型は引き締まり、凛々しい。友達曰く“理想のお父さん”が、そこに立っていた。
「お、おはよう、パパ」
「ああ。おはよう、ユイ。ずいぶんとお忍びの様子だったが――もしかしてパパが声をかけたのは迷惑だったかな?」
どこまでも爽やかな笑顔の父。だが、ユイはびくびくと怯えていた。
「ボーイフレンドと遊びに行くのかい?」
「ううん。ハルコ達と遊ぶ約束してるの、今日」
「そうか。じゃぁ――今、確認してもらっていいかな?」
父の目は凍りついたよう据わり、笑っていない。ユイはカッとなった。
「パパ! やめてよ、そういうの! 私が何処に出かけたっていいじゃない。子供じゃないんだから!」
「中学生なんてまだまだ子供だよ。それに、パパは分かっているんだ。ユイが何処に行こうとしているか。そろそろだと思っていたよ。娘を信じたかったけどね。外出したいなら、あそこへ行かないという証拠を出しなさい」
「証拠? 何なのそれ……信じられないっ」
きつく父を睨み返すユイ。その眼差しには軽蔑の感情が宿っている。
「……わかってくれ、ユイ。パパは守りたいだけなんだ、ユイと、母さん、この幸せな家庭を」
困った顔を作り、ソフトに、包み込むような声で語りかけるユイの父。
「パパが守りたいのは、自分だけが幸せだと感じる生活でしょ。卑怯な人」
「――ユイッ!」
これまでで一番、辛らつな悪口を父に浴びせるユイ。この問題が無ければ、ずっと、自分は父にとっていい娘でいられたのだろう。ユイは父を愛しているから。それだけに、彼女を見捨てようとする父を失望し、憎まなければいけないのが辛い。ユイは父を罵倒する度、自分の中の大切な想いにツバを吐いている。
愛娘に罵られた台詞がこたえたのか、父の動きは一瞬送れた。その隙を突いて、ユイは電光石火の早業で靴を履き、家を飛び出した。
朝の日差しに、目が眩んだ。外に出るのは久しぶりだった。長期休暇を娘の監視で消化するなんて、父にだって不衛生だ。この自由は、きっと誰の為にもなるはず。そう信じて、じわりとくる涙を堪え、ユイは走り出した。心の中で何度もごめんなさいと謝った。いつかそれを口に出来る日が来ますようにと願いながら。
間もなく夏のピークを迎える街は、何もかもが濃度を増していた。街路樹も、そこを行く人々も。みんな、エネルギーに溢れている。ユイの街にあるものと言えば、大小の公園。全国区のチェーン店が唯一ある小規模な商店街。散在する個人経営の時代がかった店々。何もないと思えば何もないし、全てあると思えば全てある。そんな平々凡々とした街。自然を多く残し、半そで短パンに虫取り網を持って走り抜ける少年なんかがまだいる。背伸びしているが、田舎なのだ。
目的地は、岡の反対側。ユイは弧を描く緩やかな坂を上り始めた。風がそよいで、斜面に近所の小学生たちが植えた、向日葵の群れが楽しそうに揺れた。
(ああ、気持ちがいい)
さっきまでの感情の起伏は収まり、ユイは季節が与える心地よさに酔いしれた。自然と笑顔になる。しかし、ずぐにそれを引っ込めて、気を引き締めた。自分が成さねばならない、成そうとしていることは、たかだか十四の小娘にはとても困難だ。父が止めようとするのは十分に理解出来る。こうして足を向けているけれど、それが何になるかと聞かれて、ちゃんと答えれはしないだろう。ただ、剥き出しの感情がそうさせる。私は、目を瞑ってやり過ごすことなんて出来ない。次の一歩を力強く踏み出した。
二十分くらい歩き、目的の場所にたどり着くと、暑さと緊張で、喉がカラカラだった。辺りは何かを遠ざけるようにしんとしている。その重い歪に飲み込まれそうになる。また私は、ここで届かぬ声を叫び続けるのか。それは自己満足? 友情? 正義感? 父への反抗心?
ぶんぶんと頭を振る。迷うことなんてない。考えるな。素直な気持ちを行動で示せばいいんだ。
ユイはすぅっと深く息を吸い込んで、第一声を発した。
「ナツミちゃーん!」
緊張して、ぎこちない声になった。躊躇ってる。恥ずかしがってる。こんなのじゃダメ!
「なーつーみーちゃーん!」
一度目より大きな声になった。これで何かが吹っ切れた気がする。
反応は無いけれど、彼女がここにいるのは確かなんだ。独りで、震えて、救いの手を待っている。自分に何が出来るわけじゃないけど、役に立たなくても、手を繋ぐくらいは出来る。
彼女の家のインターホンは破壊されているから、声で呼びかけるしかない。危険なのは分かってる。でも、私が逃げたら、彼女は本当に独りになってしまう。思い上がりでもいい。彼女の顔が見たい。声が聞いたい。笑顔が見たい。一緒にプールにだって行きたい。
「なーーつーーみーーちゃーーん!」
一層声を張り上げた。近所迷惑なんて気にしない。助け合いを拒否して、こんな近所“冗談じゃない”んだから!
ガチャ、と、何かの音がした。彼女の家のほうからだ。ドキっとした。門の奥で、茶色い玄関が開き出す。心臓が大きく脈打つ。どうしようどうしよう、何て話しかけよう? ああ、心の準備が――。
「ハーイ! ぼく、ナッツミちゃんだよぉー!」
――世界が白黒になった。刻も止まった。ユイは口をぽっかり開いたまま、彫刻のように固まった。
彼女の家から出てきたのは、無造作に伸びた黒髪に、顔に青あざをつけた、グロテスクな、ミッキーマウスの物真似をする不愉快な、とても不愉快な男だった。