原子力とストレス
1 はじめに
近代科学は自然現象を解明する事、その原理を応用して人類の福祉に役立てる事を目標として約300年間にわたりその活動を進めてきた(1)。特に20世紀の幕開けとともに、自動車、航空機などの輸送関係の工学が飛躍的な発展を遂げた事や、原子力工学が誕生した事などによって工学が社会に大きな影響を与える時代、いわゆる「工学の世紀」を創り出した(2)。それは人類史上見られない程の生産力の増大と生活水準の向上をもたらした。工学の進歩は生活程度の向上による衛生状態の改善、乳幼児死亡率の低下につながり(3)、20世紀初頭の世界の人口が14億人余であったのに対して21世紀を目前とした現在は60億人に達しようとしている。しかし、その一方でオゾン層の破壊、温暖化、局地的な公害など人類の生活環境に甚大な影響を与えている。
そもそも「大自然」という言葉が象徴的に示している様に自然は人間の活動とは比較にならない程大きかった。しかし、急速に増加する世界人口と物質文明の拡大によって1940年代には人類活動起源の硫黄発生量が自然界起源の発生量を上回るという事態から判るとおり、人間の活動が自然のそれと比較できる様にまでなった(4)。有名なローマクラブの報告により人々は資源の有限性、地球という閉鎖的空間を認識したが、それより前に優れた国連事務総長であったウ・タント氏はその個人的直感力で今日の環境問題、資源枯渇に対して警告を発し、メドウスの「成長の限界」へとつながって行った(5)。
一方、原子力科学はキュリー夫人以降、娘婿であるジュリオ・キュリーをはじめ多くの科学者の努力によって進歩してきたが、核分裂による膨大なエネルギーの放出と放射能の人体に対する影響が判明して来るに及んで、徐々に原子力の持つ地球環境及び人体に対する影響が懸念されてきた。例えば、ジュリオ・キュリーはノーベル賞受賞の記念演説で「これは一種の核変換であり、もしそれが物質全体に連鎖的に拡がるなら、膨大なエネルギーが放出されるだろうし、その過程こそ科学者たちが実現に努力するであろうが、十分な用心が必要だ」と述べ、明確に人類規模の原子力の危険性を指摘している。その後、第二次世界大戦における原子爆弾の投下、チェルノブイリ原子力発電所の事故、最近では日本の動力炉・核燃料開発事業団の顛末などによって、原子力に対する社会の不信感が拡がり、開発の初期段階においては明るい将来が約束されている様に見えた原子力工学はその将来を危ぶまれるまでになったことも現実でもある。
おそらく原子力に携わる多くの技術者は新しさと効率などの技術的課題だけにその任務を限定せず、自らの研究開発が社会に与える影響を考慮し、研究所や学会などの場で議論を重ねる必要があったのであろう。20世紀の工学は社会を変革するだけの力を有してきただけに、技術者は自分が取り扱う工学の倫理を考慮しなければならない事は当然であり、それは「技術者の活動」の一部でなければらならない。更に原子力工学は他の工学にも増して社会への影響を考慮し、公開の原則のもとで研究者、技術者自らがより積極的な活動を進める必要があろう(6),(7),(8)。日本原子力学会誌でも社会、倫理などとの関係を取り上げているが、議論は質、量ともにまだ不十分であると言えよう(9),(10)。
本論文は原子力の倫理を社会科学的要因とともに一般工学倫理からの考察を加え、社会や家庭では原子力技術をどの様に受け止めているか、それによる「複合ストレス」の概念とその内容を解明する事を目的としている。
2 「複合ストレス」の基礎的要因
原子力とそれ以外のストレス要因が複合してもたらすという意味での「複合ストレス」の概念とその基礎的要因となっている一般工学倫理について述べる前に、原子力工学における倫理の特殊性について簡単に触れる(11)。
工学は歴史的に戦争と深く関わりながら進歩してきた。従って、それ自身が戦争を目的としているものと、戦争とは無関係に研究され応用されるものに分かれる。戦争は効率的な殺人や破壊を目的としているので、兵器の倫理は平和目的の工学とは全く別の次元での議論を必要とする。例えば「機関銃」は第一次大戦で本格的に使用された代表的兵器であるが、それまでの戦争における死者の数とは比べものにならない程の犠牲者を出した。そればかりでなく機関銃はそれを取り扱う兵士の感覚を麻痺させ、狂気に導くという点でも戦時の倫理に大きな問題を提起した(12)。また、機関銃は全身鋼鉄で出来た精密機械であり機械加工工学と制御工学の成果であるという点で工学倫理の主要問題の一つである。しかし機関銃の持つ倫理性についての関心は戦時に限られ、平和な時にその非倫理性が取り上げられる事はない。即ち、機関銃が機械工学の成果であっても、それによって機械工学自体の有用性や社会への影響について議論が及ぶ事は無いのである。せいぜい「高度な工学技術は先端的な兵器の製造に応用される危険性がある」と認識される程度である。
それに対して原子力工学は工学倫理の取り扱いにおいては特異であり、平和時でも軍事目的の開発と平和利用の研究とが区別のつきにくいと認識されている。その一つの例として、既に日本は繰り返し原子力の利用を平和目的に限定すると宣言しているにもかかわらず、相変わらず国際的な認識が統一されているとは言えない状態にある。
原子力工学はこの様な特殊性を持っているが、それを認識した上で一般工学倫理についてその概要を示し、続いて本論の主題である原子力によるストレスについて論じる(13)。
2.1 人間の精神的活動への影響
原子力の複合ストレスを考慮する上の基礎となる一般工学倫理の第一の視点は、近代科学による「人間の精神活動への影響」である。近代自然科学が誕生する以前には現在の自然科学では当たり前となっている事、即ち「自然をありのまま観測する」という思想はなかった(14)。それに対して近代科学は自然を観測し解析するという方法を進めてきた。それは有名なガリレオの「それでも地球は回っている」という歴史的な言葉に集約されている。即ち、自然を観測する事によって人間が知覚したものは真実であり、真実を明らかにして何が悪い、という信念であった。このガリレオの観測がそれまでのキリスト教の世界観に大きな打撃を与えた事を考えると、科学が人間の精神活動に意図せずして明確に踏み込んだと言える(15)。もっとも、ガリレオ自体はキリスト教の世界観に反抗しようとしたのではない。彼自身が述べている様に自然は神が人間に与えたものであり、それを理解する事は神の摂理を知る事であって、従って科学は自然という第二の聖書を読む事であると信じていた。
19世紀にはダーウィンが進化論を著して人間がサルから進化したものである事を明らかにし、動物と人間の連続性を示した(16)。1860年6月30日の「オックスフォード論争」では反ダーウィン派のイギリス国教会のサミュエル・ウィルバーフォース主教とダーウィン側の「ダーウィンの番犬」と自称したハックスリーの間で激しい論争が行われた。この論争についての科学側の解釈では、科学に対する非科学の理由のない反撃とされており、当時ダーウィンはその著書の中で「そう考えるのが嫌な事でも勇気を持って考えれば真実が判る」と自己の立場を正当化している。このダーウィンの思想的基盤はガリレオの信念と同じ近代科学の基本的信念であって、それは「科学的真実の前に他の価値観は従うべきである」と集約できる(17)。
20世紀になっても科学と工学による人間の精神への攻撃は続けられが、その中で1953年にワトソンとクリックによるDNAの構造の解明は、「生物の神秘」に踏み込んだ発見であった。生物の形態や行動はDNAの膨大な情報の発現である事、従って、人間は大腸菌と本質的に境のない存在であることが明らかになった。それは日常生活において、また生命の神秘や神と人間の関係において、精神的な支えを得ている人達にとっては大変な打撃であるとともに、その後の遺伝子工学によるクローン生物や人工生物種へとつながっていく事も必然的とできよう。ガリレオからDNAの構造解析に至る活動が与えた人間の精神への打撃は後に述べる原子力へ対する「複合ストレス」の一つの基礎的要因を成している。
2.2 人間機能の奪取と現実感の喪失
第二の視点は工学による人間機能の奪取とそれによる現実感の喪失である。蒸気機関とモートルの発明によって人類は巨大な力を手に入れた。その結果、奴隷や農夫、そして辛い肉体労働を強いられていた炭坑夫などの労働者は徐々に姿を消していった。しかしその一方で遺伝的に与えられている若い男性の筋肉はその存在価値を失い、現在では男性の筋肉はほとんど不要と言っても過言ではない状態になった。それは「人間からその機能の一部である筋肉の機能を追放した」とも言うべきである。また出産と育児、そして家庭労働でその人生のほとんどの時間を過ごし、あかぎれや継続的な労働で苦しんでいた多くの女性は、今世紀の半ばになって急速にそれまでとは異なる人生を経験する。いわゆる家庭電化製品が普及し、家庭労働の負荷が激減し、それによって自由な時間を持つ事のできる様になった女性は社会に進出した。その反面女性が母性として、またその献身的な労働ゆえに家族から感謝され愛される機会を失いつつある。
更に20世紀後半にはコンピュータや通信技術が進歩した。現在、既に電車の切符切りや銀行の窓口業務などの単純頭脳労働などがコンピュータに置き換わり、更に生産工場の自動化によって工場労働者の削減され、物流の自動化や経理計算の自動化によって事務職の減少し、徐々にインテリ層を労働から追放し始めている。そして急速に進むデジタル化、ネットワーク化を中心とする通信革命と飛躍的なコンピュータの性能向上は近未来において人類から頭脳労働の多くを追放する可能性がある。
この様に近代工学は最初に屈強な男性から筋肉労働を、次に女性から家庭労働を、そして現在人間から頭脳労働を奪い、遺伝的に備わった人間の主たる機能を順次奪いつつある。人は自らの五感で様々なものを感じながら生活する環境を失い、自分に備わった機能を発揮できない状況へ陥り、徐々に「喪失の時代」へと進みつつある(18)。よって、それらは人間にストレスを与える。
2.3 環境の破壊や資源の枯渇などの多様な圧迫
更に第三の視点は工学による地球環境、生活環境、資源への影響である。この問題については先に述べた2つの視点に比較すると、最近の問題として学問的にも社会的にも十分に議論されている。
15世紀の大航海時代以降の継続的な人類の活動によって地球上の「未知の領域」はほとんど消滅した。20世紀に入り、環境面で地域性の高い「鉱毒」などが最初に顕在化し、やがて地球規模の破壊へと発展した。資源的な観点からは鉱物、石油などの価格の高騰、地球規模の資源の枯渇へと事態は進んでいる。更に食糧危機、人類以外の陸上動物や海生動物の絶滅、フロンなどの大気放出によるオゾン層の破壊とそれに基づく紫外線の増加、二酸化炭素や炭化水素による温暖化、ダイオキシンや環境ホルモンなどの化学物質による広域汚染などが進行しつつある(19),(20),(21),(22)。まさに「宇宙船地球号」と言われる閉鎖的空間における変化である。これらは地質学的な意味での地球の崩壊という現象ではないが、人間という生物種にとっては厳しい状況にある。科学に携わっている人々はともかく、一般人から見ればこれらは日々の生活に対する科学や工学の際限ない攻撃と感じられても不思議はない。
今や科学的知識のない人が毎日の生活を安全に過ごし、子供の健康を守るのは容易ではない。その人達は直接的な健康障害をもたらす水銀、カドミウム、鉛、ガリウムからヒ素に至る非鉄金属、PCB、多くの農薬や殺虫剤、特定の洗剤、ベンゼンなどの有機物質の名前やそれらを含む恐れのある製品から身を守らなければならない。その上、ダイオキシンとポリ塩化ビニル、環境ホルモンとポリカーボネートの給食用食器の関係など有毒物を直接的には含まないが、それらが変質する事によって生成する製品まで気を配る必要が生じてきた。そればかりではない、医者という専門家の取り扱うエイズと非加熱製剤などの相互関係、薬剤師が責任を持つはずの薬の採り過ぎ、建築家が気を配ってくれるはずの日照や様々な住環境障害など、本来は専門家がその職業倫理で厳しく守らなければらなないことまでもが一般人の負担となっている。
地球環境や資源問題では更に一般の人は戸惑いを感じる。フロンなどの化合物による成層圏オゾンの破壊、二酸化炭素の濃度の上昇による地球温暖化、環境ホルモンによるオスのメス化などになると、その一つ一つの原理やメカニズムを理解し、自分自身で危険性を判断することは到底困難である。更に環境資源問題では廃棄物貯蔵所の問題、石油代替エネルギーとしてのメタンハイドレードなの様に聞き慣れない資源などの問題を加えれば、自分達の将来を判断すること自体、既に不可能とも言うべき状況にある。
2.4 豊かな生活に対する希求度の減少
近代工学はその成立過程から人類に対する貢献を期待されるとともに、それ自体が暴走して社会に損害を与えるのではないかと危惧されていた(23),(24)。予想されていた様に近代工学は人類の生活程度の向上に限りない貢献をしてきたとともに、前節で述べた様に人間の精神、機能に継続的に打撃を与え、人類が生息する地球の環境を悪化させている。しかし、それらは人類が常に希求してきた豊かで安寧な生活との引き換えであって、歴史的事実としては工学がもたらす恩恵よりそれが及ぼす損害の方が上回ると言える。
しかし、工学が初期の成果を上げ、生活が豊かになり、社会を構成している人達が「危険を冒してまでこれ以上豊かな生活を求める事はない」と感じるレベルに達すると、その時を境にして、工学に内在する危険に対しての感度が上がり、それまでと全く同一の事象に対してもより大きな危険性を感じる様になる。この様にある事象に対するベネフィット(利得)によってリスク(危険性)感度が変化する「リスク・ベネフィット相関」が成立する。利得の無い事柄に対して社会はわずかなリスクをも容認しない。皮肉にも、約300年にわたって近代工学が目指してきた物質的に豊かな社会が到来すると同時に、物質を生産したり輸送したりする意味での工学の有用性の価値は下がり、内在する危険性が浮かび上がってきたのは歴史的必然性でもあろう。
3 スパイラル・ストレスに及ぼす直接的要因
3.1 遅効性、不可視性
ある特定の事象が社会に与える不安の強さが同一である時に、その不安が即効性か、あるいは遅効性かによってストレスのかかり方は大きく異なる。既に心理学で研究されている様に恐怖が一気に人間を襲った場合と、徐々に影響を及ぼす場合とを比較すると遅効性の恐怖の方が大きく感じる。遅効性の場合は最終的に自分がどの様な損傷を受けるか不安であり、それを心配し続けるのでストレスが格段に大きくなるのである。また、同様の心理学的要因から対象となる事象が目で見える場合(可視性)に対して、見えない場合(不可視性)では恐怖心はより大きくなる。
放射能は被曝量が極端に大きくないときには遅効性であり、かつ目に見えない。一度に大量の放射能を浴びる事が無ければ放射能が自分の体を冒していく実感を持つ事すら困難である。この様な遅効性、不可視性を有しているものは恐怖心を煽る格好の材料となり、ある特定の人が目的を持って社会的な影響を与えることが可能である。反面、原子力に従事する者から見れば、放射能の持つ遅効性、不可視性はいわば「当然の事」であるので、一般の人が持つ恐怖心を正確に理解することが難しい。
3.2 新規性、専門性
同一の危険性に対して新しい危険性事象の方が古くから経験している事象より強いリスクを感じる。例えば、日本では毎年64,000件程の火災があり、その結果約2,000人という膨大な犠牲者が出る(25)。火災は「即効性、可視性」があり、かつ太古の昔から人類が経験している災害でその原理も判り易い。しかし、それに対し原子力で毎年2,000人もの犠牲者が出たらとても原子力を続ける事は出来ないだろう。
原子力の持つ専門性は同一の事柄であるのに、ある時は安全であると言われ、ある時は危険であると言われ、それが原子力についての理解を困難にする。例えば、エックス線が医療に使用され、患者は自分の体を透過して骨の見える「レントゲン写真」を目の前に置かれ、それを医者が説明する。病院は自分の健康を回復する所であり、それが同時に自らの体を蝕むという矛盾した状況を患者は理解できない。また、一般の人はチェルノブイリ原子力発電所の事故が起こる前には「原子炉は安全対策が十分に行われていて、安全である」と聞かされていた。しかし、その事故を契機に原子炉には「危ない原子炉と安全な原子炉」の2種類があるとされ、その危険性の理解は更に困難になった。
3.3 リスク・ベネフィットとリスク・スケールの関係
先に複合ストレスの基礎的環境としての「豊かさ」と「技術の希求度」について述べ、そこでリスク・ベネフィットについて述べたが、ここでは特定の事象のリスク・ベネフィット相関について述べる。社会が特定の事象に対して示すリスク感度は、その事象が社会にどの程度のベネフィットを与えるかによって異なる。更に同一のベネフィットであっても「自己の意志で行う行為や環境に対するリスク感度」と「他人から強制されたり与えられたりする行動や環境に対するリスク感度」にも依存する。ベネフィットが大きい程リスクは軽く受け止められ、自己の意志が多く入る事象程小さい。自動車事故による死者がどんなに原子炉事故による死者に比較して大きくても、自動車のベネフィットが大きければそれを社会は容認する。また、自動車自体は自動車会社が製造するが、自動車を買うか否か、更に自動車を自分で運転するか否かは自己が判断し、自己の意志によって行われる。従って、原子炉の様に自分の意志でないと認識されているものよりも自動車の運転のリスクは小さく感じられるのである。
次にリスク・スケール相関について示す。現在の日本の私企業が行う様々な経済活動の中で、住民に広範囲で重大な影響を与える可能性のある活動は徐々にその数を減らしつつある。例えば、古くは足尾銅山や水俣病など大きな範囲で影響を与えた産業活動があったが、この様な危険で大量生産を伴う工業のほとんどが日本から姿を消している。日本国内には既に有力な鉱山はそもそも稼働していないし、化学会社も長年の安全施策と社会に対して甚大な影響を与える事故を起こさなかったという実績で、現在では社会は大きなリスクを感じていない。航空機、新幹線などの巨大輸送関係も最近の技術上の進歩により感覚的に事故の確率は小さく、犠牲者の数は少ない。現在ではむしろ一般廃棄物貯蔵所やゴミ焼却場などからの有毒物流失などが社会的ストレスとしては大きい。その様な環境の中で原子力発電所はリスク・スケール相関から言って、相対的に社会での大きなストレスになり得る数少ない施設になりつつある。
4 原子力に対する社会の複合ストレスと技術への信頼性
以上述べてきた様に原子力と社会の関係、工学倫理としての原子力の位置づけは複雑で、考慮に入れるべき要素は多い。近代工学がもたらした人間の不安定な精神状態、機能の不全、環境の劣化という基礎的な環境の下に、工学自体が目指した豊かな社会はリスクに対する感度を高めている。更に人体に及ぼす放射能の遅効性、不可視性、原子力工学の持つ新規性や専門性、更にはリスクベネフィット相関やリスク・スケール相関との関係など原子力に対するリスク感度を高める種々の要因が複雑に絡み合っている。
一方では、生活の中で人々は食品添加物、容器や身の廻りの製品に含まれる有毒物に対する注意、交通事故や電車の遅延などの危険性やストレス、生鮮食料品に含まれるダイオキシンや環境ホルモンへの不安、更にタバコや食品に対する健康上の注意、電磁波の人体への影響などの不安に絶えずさらされ、攻撃されている。また、使用した容器の廃棄や無駄なエネルギーの使用など広い意味での地球環境への配慮なども怠ることが出来ない。その一つ一つの危険性や事故の確率は少なくても、あまりに数が多ければ総合的には危険性が大きく、それを感覚的に捉えることは不可能な状況にある。
この様な状態が長く続くと、一つ一つのストレス要因は単独で作用せず、それらが相互に影響し、更に複雑に組合わさって非論理的な心理状態を作り出す。例えば、1960年代には単純に楽しむものだったテレビですら、現代ではもやっかいなストレスの原因となる。テレビのブラウン管から電磁波が出て健康障害になるという情報、スイッチを入れるとすぐ画面が出る様に機能は無駄な電力の消費になるという意識、テレビが燃えると有毒ガスが出るという不安、更にテレビを廃棄するときのやっかいな手続きなど、テレビ一つを取っても今までに無い心の負担を感じるのである。生活の総ての局面で起こるこの様な課題は多くの人にとって理解不能なレベルのあると考えられる。
認知科学の上では環境から受ける無形の情報はその人間の自己保存的意識の中に定着し、精神の構造を決定していく(26)。既に社会の基礎的な環境となっている一般工学倫理から受けるストレスに加えて個別のストレスが積み重なり、相関してリスク感度を増幅している。これを本論では「複合ストレス」と呼んだ。複合ストレス下にある人間に対して、新たにリスクに関する論理的な情報を提供しても、それは十分に咀嚼されることを期待する事はできない。すなわち複合的なストレスは、加えられる新たなストレスを論理的に消化せずに蓄積され、それが相乗的にストレスを増幅するという意味で、感覚的にとらえれば「スパイラル・ストレス」とも言えるものである。
それに加えて原子力に関係しない人と原子力に携わっている専門家の間の感覚の差が事態を更に複雑にしている。第一には原子力の専門家は言うまでもなく原子力の技術問題については専門的なレベルで熟知しいるので、それによるストレスは感じないか、あるいは多少の危険性を感じても、十分に理解しているのでストレスは増幅されない。第二に自己の専門に関わることは自己の周囲環境の他のストレスとは別のものとして感じられる。
一方、原子力を受け止める側の社会は全く反対の立場にいる。もともと近代工学がもたらした、精神、機能、地球の破壊の可能性に対する強いストレスを受け、加えてあまりに多い直接的なストレス要因とその影響に右往左往している。そして、その中の一つとして原子力のストレスが付け加わる。その様な状況にある人に対して原子力関係者が原子力発電所から出る放射能の影響や事故の可能性などの事象を論理的に説明したとすると、その内容や合理性とは無関係にストレスを追加する結果となる。説明を受けた本人はこれまでのリスク要素を一度分解し、その中に新しいリスクを合理的に組み込み、ストレスの増大にならない様に始末するのは困難である。増してリスクの全体像を把握し、定量的に判断することは到底出来ない。この様に放射能や事故についての社会の反応は、全体環境の中で考慮するべき事象であり、原子力以外の事を考慮しない原子力の安全論議はその有効性について疑問がある。
以上、近代工学によってもたらされた現代社会の複合ストレスの存在と、原子力の安全性に対する社会の認識との関係について述べた。古くから言われている様に、「学」は事象を解析し、考慮したとしても、何を成すべきかには答えないというのが原則である(27)。しかし、現代の複合ストレスを解決する一つの手段について最後に述べたいと思う。
近代科学の発祥の時期にフランシス・ベーコンは科学、工学の社会的位置づけとして、「知識が真実で価値のあるものかどうかは、その有用性によって実証されなければならず、従って、どんな哲学体系の価値も、人間の福祉に対するその寄与によって判断されるべきである」と述べた。科学や工学が社会の福祉の為に存在すると言う考えは多くの科学者に受け入れられるであろうが、その考え方の真実性は社会との関わりで判断するべきである、という結論には違和感を覚える学者もいるであろう。しかし、工学に対する社会的信頼は、工学に携わる技術者がその成果が社会に貢献することのみではなく、そこで検討されるべき事実さえも倫理との関係で論じる必要があると考えられるのである。また近代工学が創生した頃の社会は確実に科学や工学に対して一定の尊敬を払っており、そこにはキリスト教の世界観とともに「人類に対して良いことを行う集団」であるとの確信があったからである。
近代科学が隆盛を極めた19世紀においては、科学や工学が様々な形で社会との直接的関わりを持つ様になり、科学と工学は社会の信用を勝ち取っていった。それは「科学者という人種は少し変人ではあるけれども、学問に対して忠実であり、世間に疎いから決して嘘をつかない」と信じられていたからである。
Figure 1 Typical scientist in the nineteenth century
Figure 1に示すこの人物は、19世紀の宣伝に現れたココアの検定をする科学者である。「科学者が検定するのだから信頼できる」とこの宣伝は言っている。また、このポスターを見た民衆は科学者がそう言っているのだからそうだろう、と素直にそれを信じた。しかし、20世紀に入って社会の科学者に対する信頼感は徐々に薄れて行った。最近、日本の原子力関係で生じた専門家集団の不祥事は科学者という一団があまり信用出来ないのではないかとの危惧を増大させた。
複合ストレスは現代社会において、個々のリスク要因を理解する事が不可能になった事に大きな原因がある。一つ一つのリスクが論理的に理解出来ないときには、別の手段で理解し生活を送る必要がある。その為に最も適切な方法は「専門家を信用する」という事である。専門家を信用する事で個別の知識を不要とし、日常生活において考慮すべき危険の数を減少させることが出来るからである。その点で、複合ストレスの影響を受けている原子力工学が、専門家の行動によってその信用を減殺させたことがあるとしたら、それは重大なことである。
おわりに
本論文では原子力が社会に受け入れられるためには何を考慮しなければならないか、という課題に対してその一面を「複合ストレス」という面から解析したものである。
工学に携わる人は常に工学が社会に及ぼす影響を小さく考えがちである。政治や経済がこの社会を動かしている様に感じるが、実はそうではない。この事に関して明瞭に述べているいくつかの書物もある( )。工学的に新幹線が出来る様になると政治はそれを敷設するかどうか、どの地方にどの時期に敷設するかを決めることは出来るが、もともと政治は新幹線自体を作ることは出来ない。そして新幹線がいったん敷設されるとその産業効果、文化効果は強力であるが、それらの結果も工学の産物である。原子力工学という学問が単に工学に終わる事はあり得ないという事を、それに携わる人は常に意識しなければならない。
本論では、原子力工学の倫理をそれに携わる科学者、技術者の間で工学倫理の一問題として捉える事の必要を述べた。原子力工学はその生い立ちとの関係もあって、当事者の十分な倫理上の議論が行われないままに社会的批判にさらされることになった。それが原子力の社会的認知にも大きな影響を与えたと考えられる。そして、現在ある原子力の安全論争及び倫理問題に関する多くの議論は、放射性物質の拡散や蓄積による地球環境の直接的汚染である。この様な単純な議論が解決出来ない程の大きな問題として捉えられるのは、一般工学的倫理の見地から深く研究されない事によると考えられる。既に原子力学会では春及び秋の大会で原子力教育、原子力倫理をセッションとして取り上げている。原子力工学が倫理、社会問題と密接に関係し、切り離すことが出来ないのは言うまでもないのである。しかし、その様な工学部門であるにもかかわらず、また既に多くの原子力に関するこの種の議論があるにもかかわらず、社会一般における議論が抽象的、感情的、あるいは政治的になることもある。日本は一般的に議論を避け、異論を許さない社会的環境を有しているとも言われるが、冷静な議論を期待する。従って、工学倫理が工学全体に問われる今日にあっては、工学系学会がより自由な批判と個人の意見の尊重によって技術自体の社会における成立性を論じ、もっと原子力工学の発展に寄与する事が大切であろう。
名古屋大学 武田邦彦
参考文献
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武田邦彦
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