第10回
「絵コンテ」
映画監督が撮影スタッフに、こんな映像を撮りたいと示すために描いた絵のことを絵コンテ≠ニいう。 絵コンテがうまい映画監督は、エイゼンシュタインやフェリーニがあげられるが、黒澤明は、その筆頭に来るべき映画作家である。晩年に描いた膨大な絵コンテ群は、画集としても出版されたし、現在もなお絵画展として鑑賞されているほどだ。
黒澤はもともと画家志望だった。 黒田小学校時代、彼に絵を教えてくれたのは、立川精治先生である。当時は図画の授業で、実物をそのまま写すのが良しとされていた。ところが立川先生は、「黒澤の絵は思い切って自由に描いてあって、大いに良し」と、みんなの前でほめてくれたのだ。以後、黒澤は絵を描くのが大好きになったという。この恩師に対する思い出が、師弟愛を描いた「まあだだよ」の基盤になっている。
京華中学を卒業して、画家になろうと思い、美術学校の試験を受けたが不合格。その理由は、黒澤が色盲だったのではないかとの説がある。「影武者」から黒澤組のすべての照明を担当した佐野武治は「黒澤さんの絵コンテを見ると、普通の人なら絶対使わない色の組み合わせを使ってます。色盲というより、色弱だったのかもしれません」と証言している。つまり、黒澤の視覚の中では特殊な見え方をしていたので、彼が通常だと思って描く色彩も、普通の人から見れば、遥かに大胆で強烈に見えたのではないかというのである。
黒澤は18歳で二科展に応募し入賞。その後は「プロレタリア美術研究所」に所属し、研究所の壁を、『建築場に於ける集会』という巨大絵画で埋めたこともある。
研究所を出てからは、「主婦之友」の雑誌のカットや、野球雑誌のイラストなどを描いて、アルバイトで稼がねばならなかった。この頃、江崎グリコが募集した商標デザイン・コンクールで、2席入選を獲得している。
彼が一切の画材道具を捨てたのは、26歳の時、東宝の前身であるPCL撮影所の試験に合格し、入社してからである。「1枚のタブローの中だけでは表現しきれないものが、映画にはある。言葉やアクションや音楽を使って、大衆に話しかけられるんだ」と語って、黒澤は映画という大海へ船出する。
そうした黒澤の画才を我々が最初に認識したのは、「どですかでん」のポスターによってだった。黒澤は宣伝部がもってきたポスターに駄目出しをした。美術監督・村木忍の「じゃあ、自分でやってみたら」という言葉に従って、クレパスで描いた。描くうちにイメージはどんどんふくらみ、画用紙は次々につぎ足されたという。こうした枠からはみ出してくるようなエネルギー(黒澤自身は張力≠ニ呼んでいる)をひしひしと感じさせる点が、黒澤絵画の大きな特徴である。
黒澤が詳細な絵コンテを描き始めたのは、「影武者」からである。もちろん、以前も絵コンテを書いてはいたが、大雑把なものだった。それが色彩を付け、微に入り細に入った絵コンテになったのは、「影武者」の企画自体が予算の関係で、闇に葬られようとしたためである。
「私のイメージがまたしても誰の眼にもふれずに葬られるのか! そう考えると私はたまらなくなった。せめて、そのイメージをフィルムにでなくても、動かぬ画であろうとも、世界中の人たちに見てもらいたいと思った。そして私は、毎日机に向かって、そのイメージをコツコツ描き始めた」と、その動機を述べている。
この時の絵コンテが大変評判よかった。特にスタッフにとっては、監督が具体的に何を求めているかが、確実に把握できたからだ。黒澤自身も、自分が描きたいものを確認するために、以後、「乱」「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」、あるいは次回作に予定していた「海は見ていた」(黒澤の死後、熊井啓監督が映画化)の絵コンテを、生涯描き続けたのである。
晩年の黒澤は、これら絵コンテを動かしたいという執念に支えられ、動く絵画、動く絵巻を作りたかったのかもしれない。晩年の黒澤映画の色彩がますます鮮やかになり、一幅の絵のような様式美を帯びてくるのは、こうした絵コンテを描くという行為があったからなのだ。
その意味において黒澤は、映画作家≠ゥらもう一度、画家≠ニいう天職に本掛帰りしたのかもしれない。
西村雄一郎 プロフィール
佐賀市生まれ。早稲田大学第一文学部演劇科卒業。ノンフィクション作家、映画評論家、音楽評論家。早大卒業後、キネマ旬報社に入り、パリ駐在員として3年間フランスに滞在。現在は地元の佐賀大学の特任教授となり、九州龍谷短期大学でも教鞭も執っている。 著書に、「黒澤明 音と映像」「黒澤明と早坂文雄―風のように侍は」、「黒澤明 封印された10年」、「ぶれない男 熊井啓」ほか多数。 6月に新刊「黒澤チルドレン」が小学館文庫から発売。6月末、モスクワ映画祭で行われる「黒澤明シンポジウム」に招待され、日本代表として講演を行った。