第9回
「ヒューマニズム」
黒澤映画は、なぜ世界的に評価され、普遍的で、グローバルな視点をもちえるのか? いくつかの理由が考えられるが、その1つにヒューマニズム≠ニいう点が挙げられる。
ヒューマニズム≠ニは、人道主義≠ニも訳されるが、人間の尊厳を信じ、他人を愛するということである。チャールズ・チャップリンやフランク・キャプラの映画が、世界中で支持されたのは、まさにこの精神に裏付けされているからに他ならない。
よく「七人の侍」と比べられる作品に、集団時代劇の傑作といわれる「十三人の刺客」(63年、リメーク版は2010年)がある。明石藩の暴君を暗殺する死闘が合理的に描かれるのだが、この作品は海外ではなかなか理解されにくいだろう。なぜなら特攻隊の映画と同じで、政治的暗殺に命を投げ出す侍たちの心情が、外人にはよく分からないからだ。
それに対して「七人の侍」の基盤は、『貧しく弱い人間を強い人間が助ける』である。これなら世界万国、誰にでも分かる。ヒューマニズムは、世界の誰もが理解できる、共通の認識なのだ。
黒澤映画には、よく医者が登場する。肺病病みのヤクザ(三船敏郎)を見守る「醉いどれ天使」の呑んだくれ医師(志村喬)、梅毒をうつされても、ストイックに診察を続ける「静かなる決闘」の町医者(三船)、腕も仁術も立つ豪快な「赤ひげ」と呼ばれる名医(三船)……。病気の患者をほっておけない、他人に奉仕する人間の姿が、ヒューマニズム精神によって謳歌されていく。
人間の力を信じ、身を挺して、一つの目標に精進していくという自己解放の方法、自己救済力も、ヒューマニズムの1つの在り方だ。その典型は、「生きる」の渡辺勘治(志村)だろう。自分の命はあと半年しかないと分かった市民課長は、公園を作るという、ただそれだけのために邁進する。
男だけではない。「わが青春に悔なし」の幸枝(原節子)は、愛する野毛(藤田進)の両親のもとに飛び込み、農事に勤しむ。敗戦後は、農村文化活動家として身を投じる。
ヒューマニズム精神とは、貧しい者の味方だという言い方も成り立つかもしれない。「素晴らしき日曜日」は、合計35円しかもってない貧乏な恋人たち(沼崎勲、中北千枝子)が、どうやって日曜日を過ごすかを温かい目で見つめた佳作だ。庶民を描き続ける山田洋次監督が、この映画を一番好きだと言うのも、分かる気がする。
「天国と地獄」の資産家、権藤金吾(三船)は、誘拐された運転手の息子のために、身を捨ててまで、身代金3000万円を支払う。どうしてもエゴイスティックに振舞えないのだ。
黒澤がヒューマニストだと思わせるのは、「羅生門」のラスト・シーンを見れば分かる。この映画で描かれるテーマは、人間は自分勝手で、エゴイスティックなものだということである。ところが、そこまで人間を突き放しておきながら、それでもなお、杣売り(志村)は最後に「捨てられた赤子は私が引き取る」と言い出すのだ。
パリのシネマ・テークでこの映画を見た時、「ヒューマニズムが戻ってきた」という仏語の字幕スーパーに、フランス人たちから失笑が漏れたことを覚えている。私は、黒澤監督に直接、「あのエピソードは入れない方がいいのではないか?」と聞いたことがある。すると監督は、「あれを入れなかったら、映画館を出た時、気持ち悪い」と答えた。テーマに相反しても、人間を信頼したいと願う希望≠フ情念を入れずにはおかない所が、いかにも黒澤らしい。
ところが一時期、その思いにも迷いが生じたことがあった。「赤ひげ」は、人間を信頼し、人間の善意を信じるという性善説を謳歌した黒澤ヒューマニズム≠フ頂点を登り詰めたような超大作である。
しかし、その後に監督を降板した「トラ・トラ・トラ!」(70年)では、自分が信頼し、全権を委任したはずの者から裏切られる。いわば、現実では、全く逆の立場に追い込まれたのだ。そのことが、大きな人間不信や絶望感を抱くきっかけを、黒澤に与えたのではなかったか。実際、事件後に作った「デルス・ウザーラ」「影武者」「乱」では、人間の老いや死を見つめ、そこに絶望≠ェ表現されていた。
ところが、子供と老人の対話を強調した、温和な「夢」「八月の狂詩曲」を経て、遺作「まあだだよ」では、先生(松村達雄)と生徒の友情が描かれ、再びヒューマニズムの世界に本掛帰りしていく。
まさにその意味においても、黒澤明は本質的には人間を信じ、人間を愛したいと希求するヒューマニストだったということができよう。
西村雄一郎 プロフィール
佐賀市生まれ。早稲田大学第一文学部演劇科卒業。ノンフィクション作家、映画評論家、音楽評論家。早大卒業後、キネマ旬報社に入り、パリ駐在員として3年間フランスに滞在。現在は地元の佐賀大学の特任教授となり、九州龍谷短期大学でも教鞭も執っている。 著書に、「黒澤明 音と映像」「黒澤明と早坂文雄―風のように侍は」、「黒澤明 封印された10年」、「ぶれない男 熊井啓」ほか多数。 6月に新刊「黒澤チルドレン」が小学館文庫から発売。6月末、モスクワ映画祭で行われる「黒澤明シンポジウム」に招待され、日本代表として講演を行った。