第6回
「馬」
黒澤映画には、馬の登場する印象的なシーンが目白押しだ。それは、黒澤自身、馬が大好きだったからだという。馬への興味は、すでに幼年時代からあったそうだ。特に中学生以後は、家が目黒競馬場(現在はない)の近くだったので、日曜日には競馬場に行って、日がな一日、馬の生態を観察していたという。
黒澤が、馬と映画で初めて関連をもつのは、「戦国群盗伝」(1937年)の時からである。このロケがきっかけとなって、まだ助監督であった黒澤と御殿場との深いつながりができる。
チーフ助監督を務めた「馬」(41年)では、高峰秀子が馬に乗って列車と併走するシーンは、黒澤が演出したという。すでに、馬を操る卓越した演出力をもっていたのだ。
1942年、黒澤は、自分の監督第一作として山中峯太郎原作の「敵中横断三百里」のシナリオを書いた。馬を何十頭も調達できる満州でロケするつもりだったが、スケールが大き過ぎると会社は難色を示し、映画化は見送られた。
翌43年、「姿三四郎」でやっと監督デビュー。その勢いに乗って、終戦の年1945年に「どっこい、この槍」というシナリオも書いた。桶狭間の戦いを描くので、多くの馬が必要だったが、戦争で疲弊した当時、元気な馬がもはや見当たらず、このシナリオはまたしても没となった。
黒澤が考える、馬が大活躍する映画という夢がやっと実現できたのが「七人の侍」である。黒澤は西部劇の神様といわれるジョン・フォード監督の大ファンで、「あんなに馬が登場する日本型の西部劇を作ってみたかった」という。しかも、乾いたアメリカの地にはない、どしゃ降りの中のアクション・シーンに挑戦した。
しかし、豪雨の中では、馬も興奮し、猛り狂う乗馬の野武士たちも必死である。野武士に扮した俳優たちは、次々に落馬して、馬に蹴られる者が続出。ついには俳優が足りなくなって、京都からも応援を招聘したという
撮影が長引いてくると、馬たちも賢いので、誰の言うことを聞けばいいのかが分かってくる。半年もたつと、黒澤が「ヨーイッ!」と声をかけただけで、馬も足踏みを始めた。黒澤は「撮影が終わって馬も縦隊になって牧舎に帰る。しかし僕の所に来ると、横目で見ながら遠回しに避けて行った」と笑って語っている。
「蜘蛛巣城」のロケ地も御殿場。最後には森が動くシーンがあるので、相当の馬と兵隊を集めなければならない。長く御殿場ロケで馬を担当した長田孫作は、「集めた馬は550頭、エキストラは2000人だった」と思い出す。
娯楽時代劇「隠し砦の三悪人」では、疾走する馬に乗って、三船敏郎の侍が走る相手を斬り落とすというアクション・シーンがある。吹き替えも用意されたが、三船は手綱を持たず、両手を離して、この難役を見事に演じきった。三船は黒澤をして、「最高の乗り手だ」と言わせるだけの俳優だった。
戦国時代劇である「影武者」と「乱」では、日本の北と南に分かれて馬の軍団が撮影された。
「影武者」のロケ地は北海道の日高。競走馬の産地だったので、馬200頭は簡単に集まった。ところが馬の乗り手が居らず、地元の青年や大学の馬術部員たちがかき集められた。なかには79歳の老人や主婦までいたという。
「乱」では急遽、ロケ地が九州に変わった。北海道の原野には戦場になる林がないのと、基地にする最適の場所が見つかったからだ。そこは大分 県飯田高原にある牧場「エルランチョ・グランデ」。そのチーフである故・宮本浩司は、アメリカに飛んで、クウォーターホース50頭を買ってきて、撮影までに鍛えた。
遺作「まあだだよ」にも、馬が登場する。内田百閨i松村達雄)が馬肉を買うシーンで、そこを通りかかった馬が、絶妙のタイミングでこちらを振り向いた。このシーンをどうして撮ったか?といえば、「ヒヒーン」と鳴く馬の子供の声をテープに撮り、ここぞという瞬間に流す。子供思いの親馬はその瞬間、振り向いたというわけだ。
映画史に残る馬の名場面を作り上げた黒澤明。彼はまさに、馬の生態を知り抜いた名伯楽だったといっていい
西村雄一郎 プロフィール
佐賀市生まれ。早稲田大学第一文学部演劇科卒業。ノンフィクション作家、映画評論家、音楽評論家。早大卒業後、キネマ旬報社に入り、パリ駐在員として3年間フランスに滞在。現在は地元の佐賀大学の特任教授となり、九州龍谷短期大学でも教鞭も執っている。 著書に、「黒澤明 音と映像」「黒澤明と早坂文雄―風のように侍は」、「黒澤明 封印された10年」、「ぶれない男 熊井啓」ほか多数。 6月に新刊「黒澤チルドレン」が小学館文庫から発売。6月末、モスクワ映画祭で行われる「黒澤明シンポジウム」に招待され、日本代表として講演を行った。