在日朝鮮人帰国事業の阻止に向け動いた工作隊(下)
事件から50年、補償法が国会を通過
59年12月12日午前、馬山港を出港した。船底で約30時間じっと待機した末、広島の呉港に到着した。在日韓国・朝鮮人975人を乗せた第1次帰国船が新潟港を出発した日だ。工作隊の任務は、当時の岸信介政権の指示を受けて帰国事業を主導していた日本赤十字社の建物を破壊すること、帰国事業を担当していた日本側要員の暗殺、帰国船が入港する新潟港に通じる鉄道線路を破壊することなどだった。密航の過程で、風浪により12人の隊員が命を落とした。
残りの隊員たちは隠れ家を用意し、工作活動の準備を進めていたが、韓国政府の関心は時間とともに薄れていった。
治安局は当時、工作員の帰還のため極秘に船を派遣したが、日本の警察に発見され、60年5月3日にキムさんら24人全員は下関で逮捕された。工作員らは長崎刑務所に6カ月ほど収監された後、61年に韓国に強制送還された。
韓国に帰っても、喜ぶ人はいなかった。日本当局による取り調べで受けた拷問や過酷な獄中生活で、満身創痍(そうい)となった隊員も多かった。「心配せずに作戦を遂行せよ。警察への任用と生計支援を保障する」という政府の約束は「過去の政権の政策」という言葉とともに守られることはなかった。キムさんは、政府を相手に訴訟を起こすことも考えたが、訴状に必要な印紙の代金を工面できず、あきらめた。「私たちは消耗品にすぎなかった」という思いが頭をよぎるたびに、焼酎をあおった。05年に「真実・和解のための過去史整理委員会」が発足すると、キムさんは真相究明を申請した。キムさんは「このままわれわれの存在が忘れられては、あの世の同志たちに合わせる顔がないと思った」と語った。同委員会は2年にわたる調査を経て関連事実を確認し、09年に沈大平(シム・デピョン)議員が補償法案を代表発議した。昨年には、警察庁の支援を受け、密航中に遭難・死亡した12人の合同慰霊祭も行った。北送阻止のために活動した工作隊員とその子孫たちには今後、補償金や慰労金など合わせて104億ウォン(約7億9300万円)が支払われる見込みだ。
チェ・ソンジン記者