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世迷言

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☆★☆★2011年04月29日付

 東日本大震災後に、耐震診断や義援金を騙って市民の不安や善意につけ込む卑劣な犯行の多発が懸念されている。さすがの悪徳商法の輩も、この震災商法≠ニいう極悪非道な行為には「下には下がいるものだ」と無情を感じていることだろう▼警察方面からの情報だから、実在している手口と見ていい。不埒な悪行三昧の極めつけは、日本赤十字社やユニセフなど実在する団体の関係者になりすまして義援金を募る犯行だ。阪神淡路大震災後にも同様の詐欺行為が確認されており要注意だ▼日本は世界一治安がいい国家と言われる。震災直後、がれきの街に見慣れぬ集団の姿があった。流された金庫が壊され中身がすっぽり抜き取られていたとか、本屋からは濡れた硬貨で本を買う不審者がいるといった情報もあった▼ちまたではデマも飛び交った。本紙3月22日付の「伝言メモ」に「女児や若い女性などを車で連れ去ろうとするグループに注意」とある。いったいどこの国の出来事なのか。あれは本当にデマだったのだろうか▼震災前、テレビではエジプトやリビアなどで起きている暴動を中継していた。略奪、暴行、無法地帯がそこにあった。コンビニエンスストアで床に落ちた商品をキチンと棚に戻す。赤信号だと、たとえ車が来なくても青になるまで待っている。「それが日本人だ」と外国人は言う▼これは世界に誇っていい精神文化だ。ただ心配なのは、そんな実直な日本の高齢者が震災商法≠フターゲットになりやすいということだ。

☆★☆★2011年04月28日付

 大震災被災地に対する官民あげての復興支援にはまったく頭が下がる。その活動に順位をつけるわけではないが、被災直後ただちに現地入りし、陸海空から全方位的支援に乗り出してくれた自衛隊の活動には感謝の言葉もない。被災地住民にとってその存在がこれほど頼もしく思えたこともあるまい▼当地にとって復興、復旧作業で自衛隊のお世話になるのはチリ地震津波被災時と今回の2度目で、特に千年に一度といわれる今回は被災規模に合わせて派遣規模も過去最大となり、同時に圧倒的な機動力の投入によって、短期間にがれきの山を片づけ道路網を復旧してくれたことは何よりありがたかった▼チリ地震津波の被災時は、ノーテンキな政党が主導する組織が支援に駆けつけた自衛隊に対して「自衛隊帰れ」といった教条的なデモを行って被災者たちを怒らせたが、いまやそんな小児病的な発想はどこからも出てこない▼自衛隊の存在自体を否定する政党は「国土建設隊」だの「災害救助隊」などに改組すべきとしているが、いざという時にゼネコンの下請けみたいな名前の組織がうまく機能するわけがない。隊員たちは武人として国土を守る使命感に燃えているからこそ過酷な作業にも耐え、身を粉にして働くのである▼復旧作業を見るがいい。誰もがいやがるような仕事を黙々とこなし、仕事が終わればテント生活という毎日を強いられる。使命感がなければとてもできる仕事ではない。なのに自衛隊などというおためごかしはやめて、陸海空軍とすべきだろう。

☆★☆★2011年04月27日付

 つい1カ月半前までは気仙にもこんな平和でのどかな光景がひろがっていたんだな―と思うとやるせなくなった。しかし同時にうらやむこともなく、ひがむこともなく、とにかく必死になって復興することだと逆に勇気がわいてきた▼昨日、所用で一関市を訪れた時に抱いた感懐である。同市には津波こそなかったが地震の被害は別で、修復のため休業している店(特に郊外店)が目立った。復路通った奥州市でも屋根瓦が落ちた民家が散見されたから、大震災は大なり小なり東日本全体に爪を立てたようである。だが、津波の猛威は別格だ▼陸前高田市では浸水域が竹駒町まで及んだばかりでなく、矢作町の一部も含まれたその痕跡を見ると、同市の犠牲者が多かった理由の一端をうかがい知る思いだ。平坦部の多い同市の地形が逆にあだになったのである。「まさか」がそのまさかになったことも被害を拡大させた▼奥州市から住田町へ戻る途中、いつの間にか新しい道路ができていた。平成26年に全通予定の津付道路も次第に概要を現しつつある。道路網のこうした整備によって内陸部と気仙との距離、時間が短縮されると双方にどんな変化を与えるだろうかという予測もいまは虚しいが、しかし害をなした海も今度は誘客で罪滅ぼしをするかもしれない▼気仙路に戻ると太陽の光が実に明るく感じる。これはどういうことなのだろうか。あの牙をむいた海もいまはゆったりと穏やかで、大船渡湾など紺色だったものが、いまは緑に変じている。これは研究の要がある。

☆★☆★2011年04月26日付

 菊池寛の小説「父帰る」は父と子の愛憎ドラマだが、こちらはわが家版「父帰る」。「けぁねぇ(頼りない)」息子がこの大震災に遭遇しておたおたしてるのではないかと、亡き父が遺影に形を借りて娑婆に舞い戻ってきたというお話▼父が生前懇意にしていた写真館で、ある慶事の記念に写真を撮ったのは今から20年も前のこと。それは遺影とするなら多少でも若い時に写しておこうという下心があったからだろう。誰だって老いさらばえた写真など斎場には飾りたくないものだ。ただし、遺影とするには若すぎて実際はその10年後に撮ったものを使った▼その写真は仕上がった後写真館の厚意でスタジオの一角に飾られ、父の死後もはずされずにあった。ところがその写真館が今度の津波をもろに受け、一切合切が流されてしまったから、当然父の写真も海の藻屑と消えたはずだった。それがなんと被災現場に残っていたのである▼額こそなくなっていたものの、写真そのものは少し汚れていただけでほぼ完璧な状態を保っていた。外出先から会社に戻った小生が、玄関先でわが目を疑ったのは、そこに立てかけてあったのが「いま帰ったぞ」と言わんばかりのこの写真だったからだ。何かにつけ一言なからずんばあらずという口うるさい親父だったが、死んだ後も監視するため舞い戻ったらしい▼「父帰る」その日がなんと父の命日だったのは単なる偶然にしても、面白い偶然があるものだと思い紹介したが、もしかしたら本当に後ろで目を光らせているのかも?

☆★☆★2011年04月24日付

 大震災から3日後、所用があって奥州市へ向かう途中、住田町で消防車の隊列とすれ違った。ナンバーを見ると「なにわ」や「西宮」とあった。こんなに遠くから支援にかけつけてくれたのかと思うと思わず目頭が熱くなった。いま当地が「ご当地ナンバー」の展示場化しているのは、支援の輪がどれだけ拡がっているかの証明だ▼その奥州市で突然携帯電話が鳴った。大震災発生から固定はむろん携帯も不通に陥っていたのだが、同市はすでに電気も電話も復帰していたのだった。安否を気づかってくれた紙類問屋からで、これから新聞用紙の手配をどうしようかと考えていただけに即注文できたのはまさに紙、いや神の加護だろう▼その足で同業の胆江日日新聞社を訪ねたのだが、そこで被災地からの生の声を取材され、それが翌日の紙面で紹介されたらしい。同紙のホームページにその記事も載ったため、インターネットで「東海新報」と検索していた東京の仲間たちがこの記事を見つけ「あいつは生きていた。命根性の汚い奴だ」と口惜しがったという▼やはり同業の盛岡タイムス社も、小紙の紙面の1部を毎日紹介、在盛の気仙人に郷土の現状を知らせる役割を担ってくれた。このように人の情けがしみる毎日で、大震災がはしなくも人と人との交じり合いのいかに大切であるかを教えてくれた▼そのためにもわれわれは1日も早い復興を目指し、安全で安心で美しい郷土づくりに邁進しなければなるまい。それが全国の支援の輪への何よりの恩返しとなるだろう。

☆★☆★2011年04月23日付

 ガラガラだったアパートがふさがり、空き家に次々と借り手がつく。商店街の「シャッター通り」が再び賑わいを取り戻し、過疎地域ががぜん息を吹き返す。長く不況が続いた業種にも陽が当たり始めた。などなどは日陰だらけの大震災がわずかにもたらした日向の部分だろう▼こんな現象は被災地周辺だけでなく、圏域や都道府県境を超えて拡がっている。原発の恐怖におびえる福島県と周辺からは、安全と安心を求めて住民の大移動が起こっており、津波の被災地でも他県などへの移住が少なからずある。これほど人口動態の振幅が大きいのは先の戦争中およびその直後以来のことだろう▼大被害こそ発生しなかったものの、3・11は首都圏の交通機関をマヒ状態に陥らせ、典型的な大都市の脆弱性を露呈させた。電車はストップ、道路は超渋滞。すっかり足を奪われた都民は、帰りたくても家に帰れず「帰宅不可難民」として会社や公共施設などに宿を求めるハメに▼震央から離れた場所ですらこのありさまだから、もし巨大地震が首都を襲ったらもはやパニックどころでは済まないだろう。そういう想定の下「田舎に逃げる」動きが顕在化するはず。人口の一極集中が崩れるこれは予兆だと思う▼こんな大被害にもかかわらず、気仙住民の大方はここに住み続けたいと思っている。ここには共同の精神が生き続けているからだ。水も食べ物も「向こう三軒両隣」から来るコミュニティーならではのぬくもり。1人でも多くが〈疎開〉から戻ってくるのを待ちたい。

☆★☆★2011年04月22日付

 鳥取県西部地震の際に被災した境港市で「液状化現象」というものを目の当たりにした時は、物理の実験を見る思いだったが、今回の大震災がもたらした地盤沈下で、道路が川と変じた作用を何と説明したらいいのだろうか▼宮城県の牡鹿半島で1・2bも沈下したのをはじめ、陸前高田市の小友町西の坊でも84aなど各地で驚くべき変動をみせた。これだけの沈下が異変を見せぬわけがなく、海岸部では岸壁に段差ができ、海沿いの道路が冠水、大潮の時期と重なって満潮時ともなるとすっかり水浸しとなって危険が伴うほど▼この復旧対策はとんでもない資力と労力が求められるだけに、場所によってはそのまま放置されるかもしれない。そうなると道路を現在より海側から遠くにスライドさせる必要が出てくる。それだけでなく現在ある施設が大潮の時期には床下浸水するような事態にどう対応すればいいのか、新たな問題が浮かび上がってきた▼沈下した部分に土盛りをしてレベルを上げるべきなのか、そのままにして新たな汀を設定するのか、その対策は実に悩ましいものになるはずである。市街地に水たまりができあがり、それが真水ではなく、海水であるという現実を見て復興の前途がいかに険しいかを実感する▼いずれ従来の地形にこだわることはできても実現は困難だろう。だからこそ大船渡、陸前高田両市ともここで大胆な都市再開発のグランドデザインを描く必要があろう。そう、誰もが踏みとどまって良かったと思わせるような街にするのだ。

☆★☆★2011年04月21日付

 サクラが一斉に咲きだし、いつもならこの日曜日あたり花見としゃれこむところだが、なんと近くの山々は雪化粧をしていた。千年に一度の大震災はどうやら異常気象のおまけまで〈持参〉したようだ。あたかも人間の心の底まで見透かし、試すかのように▼それにしてもある日を境に〈日常的光景〉が〈非日常的光景〉に変わり、その非日常が日常になるという〈狂気〉をもたらしたものは一体何なのか?知人は、仮設事務所で執務しながら机の後ろの窓越しに見える風景を「被災3日後にはもう〈これが日常なのだ〉と思うようになった」と吐き捨てるようにつぶやいた▼小欄も出勤時、国道の両側に広がるがれきの山と、建物という建物が倒壊したため遠くまで見通せるようになった荒漠たる光景を見ながらついつい出るため息を抑えることができない。そして同時に出る言葉は「すさまじい」の一語、ただそれだけだ。夢であってほしいと願っても視覚はこれが現実だと否定する▼縁者、友人、知人、その他多くを失ったが、合同慰霊祭まで待って個別の葬儀は自粛するという遺族が多く、弔問もままならない状況が大災害の非情というものを改めて実感させる。それにつけても犠牲者の鎮魂となるのは、この地の1日も早い復興と、残された者たちの確実な再起なのである▼しかるにこの非常かつ異常事態に対し、即断実行できる政治体制は、放射能のように浮遊するだけで姿を見せない。時間が経てば経つほど状況は悪化するというのにである。

☆★☆★2011年04月20日付

 「間髪を容れず」は、間に髪の毛1本さえも入れる余地がないという意から、間を置かずすぐさま、ただちにという状態を指すが、これがカンはカンでも菅総理となると、その初動の遅さは間に指5本は楽に入りそうだ▼有事の際は、まず何が必要か自分で判断するのは当然としても、経験がないとすぐさま思いつかないのはやむを得まい。そこは亀の甲より年の功で、戦争や大震災体験者の意見を仰ぐことも必要だろう。こういう場合、中曽根首相あたりは良きアドバイザーになったはず▼まず被災地には緊急に何が必要か、国家危急存亡の秋に向き合いその苦難を乗り切った人間なら、初動に必要なヒト、モノの優先順位が判断でき、次のステージに移ったら今度は何を用意すればいいか脳内を整理できるだろう。年の功も亀の甲も備えた亀井静香さんが復興の先頭に立ちたがるのはそのためだ▼実際その方がよかっただろう。考えるふりをして考えないのと、考えないふりをして考えるのとでは結果に大きな差が出る。どちらがどちらとは言わないが、政府の対応が後手後手と回るのは、何のせいだろうか?▼考えるまでもなくこれは非常事態なのである。何事も間があくと可も不可となり、後でホゾをかむことになる。だからこそ、拙速ではあっても考えられることを次々と手当たり次第にやることだ。まず金を出す。そして使い方は自治体の自由裁量に任せることだろう。それなのに「復興税」などと悠長なことを言っているから、手遅れになるのである。

☆★☆★2011年04月19日付

 今から50年前の平成23年3月11日に起こったいわゆる「東日本大震災」による大津波で、壊滅的といっていい打撃を受けた気仙地方(現ケセン市)に端を発した「被災地の乱」が今も語りぐさになっているのは、大塩平八郎の乱同様、誰かが立ち上がらなければ御上は動かないという証明になったからだろう▼この時、大船渡、陸前高田両市は、被災場所には住まいの新築を認めないとおふれを出し、住宅を高台へ移す復興計画を打ちたてたが、高台へ移りたくてもその土地も金もない被災者は結局、元の場所にとどまるしかない。そこで両市の市長は相談して見切り発車した▼被災した土地は市がすべて買い上げる。しかも土地取得、住宅建設に見合う価格でと。そしてただちに高台の整地、団地造成に取りかかった。驚いたのは時の政府だ。なにせ復興にかかる経費はすべて国庫負担とし、もしそれを政府が渋るなら両市は今後一切国税も県民税も納めない。それだけでなく日本政府から独立すると宣言したからだ▼それがいやさに拒否したものなら、自治体、いや国民を見殺しにする政府と喧伝されるのは目に見えているから、政府はすぐさま涙を飲んでこの申し入れを受け入れた。むろんこの乱は被災地すべてに広がり、おかげで復興は驚くべきスピードで進んだことは言うまでもない▼政府の出費はなんと50兆円にも及んだが、そのため冗費の節減が国会や行政府全体の目標となり、その結果のかってない行政改革によって、日本は理想的な国になった。


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