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広島から、長崎から:被爆電車 /広島

 長崎支局との共同企画「広島から、長崎から」。第8回は原爆が投下された当時、広島と長崎両市内を走っていた電車にまつわる活動を続けている2人です。現代に残る資料には、どんなエピソードがあるのでしょうか。活動に携わる思いを聞きました。

 ◇貴重な当時の体験、伝えたい--広島市交通科学館学芸員・田辺あらしさん(46)

 ◇今も2両は現役で活躍

 --広島市交通科学館で保存されている被爆電車はいつごろ製造されたものですか?

 ◆1942(昭和17)年に製造されたものです。これは大変珍しいと言えることです。当時は第二次世界大戦中で物資も限られていましたので、全国的に見ても、新しい電車はごくわずかしか製造されていないからです。広島が軍都として栄えていたことが関係しているのかもしれませんね。当時としては最新鋭の車両で、大量の乗客が乗り降りできるように、三つ扉になっているのが特徴です。

 --交通科学館で保存されるようになったのは、いつごろから?

 ◆06年に2両が「勇退」して、1台が広島電鉄さんで、もう1台をこちらで保存することになりました。高性能な車両の導入が進んだ結果ですが、逆に考えれば、中区の江波方面で被爆して、修復されてからはずっと走り続けていたわけですからすごいことですよね。被爆電車は5両が戦後も運行を続けていましたが、1両が残念ながら交通事故で大破。残った4両のうち、2両は今も現役ですよ。

 --交通科学館ではどのように被爆電車を活用されていますか?

 ◆毎月第3土曜日の午前と午後、内部を一般公開させていただいています。学校や団体のご希望があれば、それ以外の時もご案内させていただいています。8月6日周辺の見学者が多い時期には、200~300人をご案内することもあります。

 --被爆電車の案内を続けていて、感じることは何ですか?

 ◆見学に来られた人の中には、被爆電車の中で肉親を亡くされた方や「本当は思い出したくないし、見たくない」という方もいらっしゃいます。そういった話をとつとつとされる姿は胸に来るものがありますね。あとは小学生でも被爆電車のことをよく知っているな、と感じます。

 --学芸員として、よりよい案内をするために心がけていることは。

 ◆実は学生時代、この車両をよく使っていたんですよ。だから学芸員としてかかわることになり、不思議な縁を感じています。学芸員としては、百科事典に載っているような事柄から、さらにどのような肉付けをしていくかということが仕事なんだと思っています。被爆した人たちの話から知識を得て、資料としていきたいですね。【聞き手・中里顕】

 ◇「チンチン」と一生の付き合い--元長崎電気軌道運転士の語り部・和田耕一さん(84)

 ◇反響呼んだ女子挺身隊車掌の劇

 --どのように被爆したのですか?

 ◆17歳から学徒動員で運転士をしていました。45年8月9日は18歳で、爆心地から約3・5キロの蛍茶屋営業所で被爆しました。建物の下敷きになりましたが、幸いけがはありません。14日まで同僚を捜し、荼毘(だび)に付しました。終戦後は社員として働きながら犠牲者名簿を作り、遺族を訪ね、約30年前から語り部も始めました。

 --仕事の傍ら、ずっと活動を続けてきたのはなぜですか?

 ◆動員学徒で被爆し、仕事を続けたのは私だけでした。55年ごろ、8月9日のダイヤ表を見つけました。あの日の朝、脱線事故があったのです。もし事故がなければ私は爆心地から1キロ辺りを運転していたのです。「自分の代わりに犠牲になった人がいるかもしれない」と、「9日付」で退職になった人たちの行方を調べ始めたのです。

 --昨年は、和田さんの体験を基に、12歳で爆死した女子挺身隊の車掌の劇「チンチン電車の詩」が反響を呼びました。

 ◆長崎原爆では117人の車掌や運転士が犠牲になりましたが、そのほとんどは10~20代です。12歳の車掌は13歳の姉と宮崎県から来ていました。営業所のトイレで時折、姉妹が泣いているのを見て「故郷から離れて寂しいのだな」と気の毒でした。戦争は子供たちに大変な苦痛を与えた。劇を通して「今の平和を大事にしよう、子供たちだけに求めるのではなく、大人も一緒にみんなでできるんだよ」と伝えたいです。

 --今日も電車は長崎の街を走っています。どんなことを感じますか?

 ◆45年11月25日、電車が復旧し、私は4番電車を運転させてもらいました。「チンチン」という警笛を鳴らしてくれないか、という乗客がいて、鳴らすととても喜んでくれました。子どもたちは笑顔で、電車のそばを一緒に走りました。それまで復旧作業で精いっぱいになっていたのですが「これが本当の平和かな」と思いました。今は長崎のシンボルになっている。市民への感謝の気持ちを忘れません。

 --今後はどのように活動していきたいですか?

 ◆話せる間は、みんなからだめだって言われるまで体験を話し続けたいです。もし電鉄に入っていなかったらどうしたでしょう。電車とは一生の付き合いですね。ごく平凡な一人の老人ですが、子どもに体験を話していけることは、あえて幸せだと思います。【聞き手・蒲原明佳】

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 ■人物略歴

 ◇たなべ・あらし

 1965年、京都市北区生まれ。大学進学のため86年、広島市に移り住み、現在は中区在住。被爆電車の案内のほか、広島市交通科学館(安佐南区)で開かれる工作教室や映画会の運営に携わっている。

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 ■人物略歴

 ◇わだ・こういち

 長崎電気軌道に定年まで勤めた。長崎原爆の生存者で「電鉄8月9日の会」を作り87年、同社の犠牲者追悼碑を建立。修学旅行生などを対象に語り部活動を続ける。

毎日新聞 2011年4月28日 地方版

 
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