感動したなあ。「はやぶさ」の帰還。私も7年以上前になるが一度だけ「はやぶさ」の打ち上げの意義や夢を記事にしたことがあったので実に懐かしかった。当時は「はやぶさ」という名前は決まっておらず「ミューゼスC」と呼ばれていた。小惑星にも「イトカワ」という名前はなかった。7年も前に記事を書いただけで、なんだか自分までいい仕事ができたような気でいる。「ありがとう、はやぶさ」という思いである。
愛機を称える光景
印象的だったのはJAXAの方々の「はやぶさが頑張ってくれた」と自分たちの偉業を大気圏に燃え尽きた愛機の頑張りとして称(たた)えていた姿だ。何とも日本人らしい美しい光景だった。
外国にもそういう現象はあるのかもしれない。しかし、「はやぶさ」をJAXAはじめ、「たとえ燃え尽きても戻ってきてほしい」と固唾(かたず)を飲んで見守った日本人たちは「はやぶさ」をただの機械の塊、小惑星探査機としては見ていない。感情移入が強いといえばそれまでだが、ただの機械ではなく自分たちの英知と魂、そして夢と願いを背負った、自分たちの挑戦を支える分身としてとらえている。
イトカワへのタッチダウン後、「はやぶさ」との通信は途絶え、関係者の気持ちをやきもきさせたそうだ。ところが、「はやぶさ」は約3カ月後自ら地球に連絡を取ってきたのである。そういう設計になっていたといえば、これまたそれまでの話だ。が、こんな話を聞くと、私だって断固「はやぶさ」がいとおしくなる。以前、「はじめてのおつかい」を見て感動してしまったのと同じ思いがこみ上げてくるからである。
挑戦の意義
幼子が近くのスーパーマーケットに出かけ、母親から頼まれた品物を買って無事帰宅するまでの悪戦苦闘を描くこの番組、自分に子供ができるまで面白さが心の底からは理解できなかった。寄り道あり、災難あり、ど忘れあり、涙ありと波乱の連続で家に帰り着いたときには母親の注文に正しく応えられず、母親の胸で泣きじゃくる子供もいる。肝心の品物がぐちゃぐちゃになっていることもある。でも、その失敗は挑戦というミッションの意義と比べれば、微々たる出来事だよ、というのが番組に通底した主張である。
イトカワのサンプルにも同じ思いである。サンプルがなければ、誰かが必ず、ケチをつけはじめるかもしれないので、あらかじめくぎを刺しておく。私もサンプル採取の成功をむろん願っている。しかし、だが、サンプル採取ができなかったからといってそれは無駄ではない。
事業仕分けの論理
なぜ、こういうことをいうか。それは「事業仕分け」の論理を多くの人に考えてほしいからである。事業仕分けのもつ、成果主義や功利主義、実益主義が科学技術の領域に持ち込まれすぎており、国力の減退を憂慮するからだ。
例えば「はやぶさ」の帰還がこれほどまでに盛り上がらず、サンプルが入手できずに終わった場合どうか。「採れなかったんですか。いくら税金がかかると思っているんですか。無駄です。廃止!」といった仕分けの光景が目に浮かぶのだ。
「はやぶさ」の後継機への予算は現に削られている。当初、概算要求は17億円だった。これが昨年の政権交代で5000万円に削られた。科学技術予算は環境重視に資源配分が見直されたと説明がされているが、高校無償化で巨額の財源が必要な結果、あおりを受けたものといえる。
5000万円の予算はさらに昨年11月の事業仕分けで3000万円に削られた。無茶苦茶(むちゃくちゃ)である。今回の「はやぶさ」の成功で、「宇宙開発の意義を否定したわけではない」といった釈明が聞こえてくる。が、議論全体を見るとどうみても極めて短時間の矮小(わいしょう)かつ乱暴な議論による一刀両断といわざるを得ない。
無定見な復活発言
もうひとつの問題は「はやぶさ」の成功で蓮舫氏はじめ閣僚から次々と予算復活に向けた発言が相次いだことである。予算が復活するならそれ自体は結構なことである。しかし、同時に民主党政権には宇宙政策に定見がないと疑義を抱かざるを得ない。
予算復活といっても、17億円が約束されたわけではないだろう。恐らく、お茶を濁す程度の増額に過ぎないし、もしかすると、他の科学技術予算を削って付け替えて済ますかもしれない。要は他の研究テーマを犠牲にして、はやぶさ予算を埋めあわせ、批判を浴びないように手当すればよい、という程度にしか彼らは考えていないのではないか。こう思えてならないのだ。
これでは何もかも無駄
今回の「はやぶさ」の成功は多くの無駄によって支えられているはずである。イオンエンジンの開発ひとつ見ても、2年以上にわたる連続運転試験などを経ている。これ、ひとつ取り上げても無駄と決めつけることは可能だし、どうにだって難癖がつけられるのだ。早い話、イトカワのサンプルによって、太陽系の起源が日本人の手によって解明できたところで「だから、何なのよ!」と言われてしまえば無駄になってしまうし、「2番じゃダメなんですか」というのもこれと全く同じ発想である。
科学者にだって税金である以上、コスト意識を求めるのは良い。だが、無駄といえばどんなものでも無駄と判定できる。事業仕分けのはらむ危険性をもっと彼らは認識すべきである。
一口に無駄と言っても…
「明るい選挙推進協会」なる法人がある。ここも本来は国の事業を委託して仕事をしているのだそうで、選挙啓発というテーマだって全く公益性がない話とは言い切れない。
政治不信の高まりで選挙自体が低投票率にあえいだ場合に、選挙という事業の意味や意義をしっかりと国民に伝える仕事の公益性を全否定することはできないはずである。
しかし、選挙が近づくたびに「投票は7月11日!投票に行きましょう」と書かれたティッシュペーパーを配る運動はどうか。これは多くのボランティアによって支えられているのだそうで、地道と言えば地道だが、これに例えば多額の税金が使われているのであれば、これを「無駄!」と断ずるのは、何となく共感できる。