★ 日本は在日に通名を使うよう誘導してきた…本名を使わせろ!
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歴史問題 / 2010年10月23日 00時53分13秒http://blog.goo.ne.jp/pandiani/e/dee482125c493df89b75d2e6ced32eb7
【中国】「日本はかつて対中侵略。だから今でも侮蔑」の声が最多
サーチナ 10月22日(金)12時44分配信http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101022-00000042-scn-cn
サーチナ総合研究所(上海サーチナ)が発表したアンケートで、「日本で反中デモが発生」との記事に対して、デモ発生の理由を「日本はかつて(中国を)侵略した。だから今でも侮蔑(ぶべつ)している」との考える人が、最も多い30.55%に達した。
日本で中国に反発する感情が高まったのは、◆中国の江沢民政権時の対日強硬姿勢◆小泉政権時の首相の靖国神社参拝に対する中国の反日運動◆「毒ギョーザ事件」を初めとする中国産食品の安全問題◆尖閣諸島や東シナ海のガス田など領土と経済権益の問題――が主なきっかけで、いずれも1990年代以降に特に目立つようになった問題だが、中国では「戦前の対中侮蔑が最大の原因」との考えが強いことが分かった。
デモ発生の理由では「中国の対外政策が弱腰だから」が28.02%、「中国の国際的な影響力が不足しているから」は26.53%だった。「その他の理由」は14.90%。(編集担当:如月隼人)
【社会】 民主・白氏 「先進国で、重国籍も外国人地方参政権もないのは日本だけ」、在日韓国人ら「日本、通名を誘導…本名使わせて」★6
・在日韓人歴史資料館開設5周年記念大阪シンポジウム(16日)に出席した各パネリストの発言要旨はつぎの通り。
■金宣吉・神戸定住外国人支援センター理事長=上滑りの「共生」という言葉が広がっている。もっと発信していかなければならない。在日ベトナム人の民族名使用が減っている。アジアの子どもたちはなかなか本名を名乗れない。学校現場に本名の教師が一人でもいること、本名で働ける環境を作り出すことが重要だ。自分は何者であるかは人権の基本だ。ニューカマーの人たちの苦労は我々の歩んできた苦労と重なっている。在日がなんら政治的権利を持たぬということは裸で外を歩いているようなもので、非常に厳しい。「多文化共生」「多民族共生」の本当の中身が問われている。
■伊地知紀子・愛媛大学法文学部准教授=「オモニ学級」など大阪のオモニたちからは人として生きることとはどういうことなのかを考えさせられた。未来を考えるにあたり、我々が学ぶものが沢山ある。解放後、公的書類の「通名」使用は「在日の人たちのため」とされてきた。政府・自治体による「通名」使用誘導では多民族共生はありえない。国家とはなにか、共同性とはどのように生まれるのか、連帯感はどういうふうに生まれるのかという視点から深く幅広く見ることのできる立ち位置に在日の人びとはいる。多文化共生社会の実現へ在日の経験の共有と裾野を広げていければと思っている。
■李美葉・多民族共生人権教育センター理事長=日本人を対象に「反差別・人権」について語ってきた。「差別」はなくなってきているが、まだ沢山ある。自分の子どもたちも受けた。日本人は在日についてあまりにも知らない。韓流ブームは在日のことを見えなくさせている。「共生」実現のためには、「在日外国人の先輩」として「差別」と向き合い闘っていかなければならない。若い人たちが、本当に自由に生きていけるようにしなければならない。我々は今一度、コリアンが歩んできた道を振り返りながら、これからの多民族社会を真剣に考えていく必要がある。
■鄭炳采・民団大阪本部事務局長=行政で「通称名」を認め、誘導していることが通称名使用につながっている。選択の自由はあるが、名前の持つ意義は非常に大きい。地方参政権の獲得はもちろんだが、外国人公務員や教員はいても管理職にはなれないという制限はなくしていかねばならない。民団は在日にルーツを持つ人たちの団体であると同時に、在日外国人の人たちの先駆者としての役割を担っている。これからは在日外国人の先輩として、もっと彼らと共に諸課題を実現していくことが必要だ。
■白真勲・民主党参議院議員=朝鮮日報の東京支社長のころ、朝鮮日報の特派員も入居差別を受けた。選挙では「日本と韓国の友好は日本の国益になる」とうったえてきた。10年、20年前だったら私は当選できなかっただろう。これは日本人が変わりつつあるということだ。だが、政治家の頭の中は8割が選挙のことであり、政策の中に「外国人」はないのが現実だ。外国人に対する不安心理を煽る人たちがおり、非常に残念だ。先進国のなかで、重国籍を認めず、生地主義を認めず、そして永住外国人の地方参政権を認めていないのは日本だけだ。
■在日の課題共有 会場参加者の声 全国在日外国人教育研究所(京都市)の小西和治さんは、「未来予測」を当事者の側から発信するタイムリーで、貴重な催しだったと歓迎。京都国際学園前理事長の宋基泰さんも「韓日の100年を通して、これからの在日の未来を考えていく良い企画」と喜んでいた。神戸市の朴真由美さん(31、主婦)は、「とても有意義な時間だった。様々な問題や課題が残っている、ういったことに取り組めるというのも在日だからこそではないか」と評価。奈良県の申載季さん(64、主婦)は「やっと子どもから手が離れたので、パネリストたちからなにか一つでも学びたかった」と参加の動機を語った。元高校教員の藤川正夫さんは、公立学校の外国籍教員に対する任用差別について、「緊急を要する課題」と取り組みへの決意を新たにしていた。(以上)
ソース
http://www.mindan.org/shinbun/news_view.php?page=10&category=2&newsid=13525
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|∧_,,∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| #`Д´> < 日本は通名を誘導しているニダ!
|⊃._,,∧∩ | 本名を使わせろニダ!
| #`Д´>ノ< ニダ~!
| ノ \______
|U U
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|彡 サッ ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| (・∀・ )< じゃあ在チョンが犯罪した時の通名報道禁止な
| サッ ( ) \_____
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年代:1839年~1842年
対戦国:清帝国、大英帝国
19世紀の戦争。
イギリスによるインド産アヘンの中国への輸出が原因となって起きたのでこの名がある。
敗れた清は南京条約によって香港を奪われ、さらに賠償金の支払いと上海などの開港などを課せられた。これ以降列強の中国進出は加速する。
開戦まで
大航海時代に始まった欧州列強の世界進出は大帆船時代と産業革命を経て、世界全体を対象とした植民地獲得競争(帝国主義)の時代を迎えた。
そのトップを走るイギリスは、世界に残された最後のフロンティアたる中国進出を目指していた。しかし老大国清は依然として大きな力を持っており(と考えられていた)、半ば鎖国の状態を続けており、自由貿易は認めてなかった。
さて、イギリスは中国から茶を大量に輸入していたが、その対価として対中輸出できる有力な産品を持たなかった。このためイギリスは大きな貿易赤字を中国相手に出すことになった。
困った東インド会社は考慮の末に、植民地としていたインドでアヘンを栽培して、それを中国に輸出することを思いついた。つまり、まずイギリス本国で製造された工業製品をインドに輸出し、インドからはアヘンを輸出し、中国から茶を輸入する、という三角貿易である。
このアイデアは大成功を収めた、と言いたいところだが、アヘンはどう考えてもまともな商品ではない。アヘンの流行が社会問題となった結果、清朝はアヘン禁止令を出すに至った。が、東インド会社は個人貿易商などをダミーとして、引き続きアヘンの輸出を継続した。
清朝内部ではこの事態に対して、イギリスとの対立してでもアヘンを取り締まるべきか否かが問題となった。1939年にアヘン取り締まりの担当となった林則徐は広州に赴任、イギリス商館長チャールズ・エリオットを逮捕するとともに、アヘン2万箱を没収・処分した。イギリス側は逆にこれを奇貨として、中国に開国と自由貿易を強要するべく戦争に持ち込むこととした。
戦争の展開
1839年9月、戦争が始まった。グラッドストンらの反対があったが、戦費の支出は認められ、大英帝国はインドから増援を送り込む。
1840年6月、ジョージ・エリオット*1指揮下の大英帝国海軍は広州に到着。が、戦争に勝つにはやりたいことをやるのではなく、敵の嫌がることをやるのが肝要である。そういうわけで艦隊は北方に転じ、首都北京の外港たる天津を脅かした。これに動揺した清朝政府は、直隷総督の琦善をしてイギリスとの交渉に当たらせた。琦善はイギリスの要求をほぼ全て受け入れ、この結果ひとまずイギリスの脅威は去った。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。イギリス軍の脅威が去ったことで、清朝政府内で今度は琦善の融和策に対する不満が高まり、ついには解任と政策転換に至った。もちろんそんな展開に満足しないイギリスが再び襲来。
1841年にイギリス軍は広州、厦門、寧波を攻撃。翌1842年に上海を占領するなどしたため、ついに清朝は敗北を認め、南京条約を結んだ。
条約の結果、清はイギリスに香港を割譲、賠償金を支払い、福州や寧波などの五港の開港を認め、貿易を認めさせられた*2。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%D8%A5%F3%C0%EF%C1%E8