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プリンストン発 新潮流アメリカ

 東日本大震災に対してアメリカは米軍を中心に多くの支援をしました。日本政府として、これに謝意を示すのは良いことだと思います。また、このCM放映に際して日本サイドのクリエーターの方が、政府の細かな注文や規制などに耐えてCMを作ったと察すると、安易に批判するのは失礼かもしれません。ですが、26日からケーブル局の「CNNヘッドライン」で放映の始まった、この「アリガトウCM」を評価することはできません。

 そこには日本の対外的な広報に見られる誤りの典型があるからです。厳粛な時に厳粛な意図で行われたことを批判するのは気が重いのですが、こういう時に学べなくては永遠に学べないと考え、あえて申し上げる次第です。

 まず「顔」が見えません。

 謝意を示す際に、一切「顔」の見える個人が出てこないというのは異様であるのと同時に主旨が伝わらない危険があります。「無名のネイティブ英語話者の声優」をナレーターに使っているのも良くありません。日本が感謝するのなら日本人が出てきて喋るのは当然であるのに、謝意というパーソナルなメッセージを「外部の人にお金を払って頼んでいる」という印象を与えるからです。

 総理や官房長官など現政権担当者が出てくると日本では「偉そう」だと思われるのなら、小沢グループや自民党を含む過去数代の総理経験者が一緒に登場する、それがムリなら被災3県の知事など、いくらでもやり方はあるでしょう。例えば警察、消防、自衛隊の若い男女に出てきてもらうのもいいかもしれません。主旨を良く説明して被災者の方にお願いするというのも、十分考えられます。

 とにかく「顔」です。「顔」の見えない謝意というのは考えられません。

 CMの内容についても、まず何のメッセージだか良く分からないという問題があります。

 とにかく「地震、津波、原発事故」という言葉が全く入っていないので、ニュース好きの人間以外には何のCMだか分からないと思います。瓦礫の写真だけを見ると、アメリカでは竜巻被災地に誤解される可能性もあります。「ジャパン」という文字だけで「察してくれ」というのは、日本的なエラーだと思います。

 そのナレーションですが最初の "Thank you all of you understood." (理解してくださった皆さんに感謝)というのから意味不明です。理解するとは何なのでしょうか? 激甚な災害だと理解したということなのか、支援が必要なことを理解したのか、それとも「危険な放射能の中で米軍が活動すること」に理解を示したことなのでしょうか?

 そもそも「理解してくれた人に感謝する」という表現自体が妙です。これだけ大変な事態にも関わらず「理解してくれた人」だけに感謝するというのは、「理解しない人もいる」という疑念を持っているように響くために、英語では不自然だからです。

 支援者の家族に感謝するという部分も引っかかります。アメリカの軍人の家族には独特のプライドがあって、送り出す辛さについて「支援対象の外国から」感謝されるのはそんなに喜ばないように思います。そもそも、米軍が支援してくれたという経緯を知らない人には、ハッキリした説明がないので、この部分も良く分からないでしょう。

 一番不自然なのは、最後の"From us to you、アリガトウゴザイマス" という表現です。「自分たち」とは誰であって、「あなた」とは誰なのか? この匿名性も不気味です。自分たちという主語も、日本の国民なのか、被災者なのか、政府なのか明確でないと英語では不自然なのです。「あなた(がた)」について言えば、日本の報道では「アメリカ人向けの限定ではない」という主旨だという話も伝わってきますが、それならそう言うべきで、人称代名詞の使用法としてバツです。

 更に英語アクセントの「アリガトウゴザイマス」というのも変です。英語圏には「ガイジン発音」の方が分かりやすいと考えたのかもしれませんが、とにかく国を代表したメッセージとして誤った日本語のアクセントのナレーションを出すというのは、おかしな話です。

 もう1つはタイミングです。

 まだ仮設住宅もできていないのです。福島第一は冷温停止には程遠い状況にあります。復興はまだまだ先であり、被災地の現場では緊急事態が続いているのです。そんな中で、アメリカ社会に対して謝意を表明するのは早いと思います。米軍が当初の任務を終えつつあり、引き上げてゆく部隊に対して、直接の窓口や外交当局が謝意を表明するのは分かります。ですが、日本国を代表してアメリカ社会に対して謝意を表明するのは早いと思います。

 技術的な面や資金の面などでまだまだ支援が必要なのに、カネを使って早期に謝意を表すというのは、体面を気にしてムリをしているという印象があります。アメリカでは、民間も財界もまだまだ募金活動を続けていることもあり、また義援金の分配が完了していないということも考え合わせると、やはり時期尚早です。

 そもそもこのCMですが、どうして「CNNヘッドライン(HLN)」という局で放映するのでしょうか? 一部の日本の報道では、CNN側からアプローチがあったという言い方がされています。仮にそうであっても、「CNN」の本局や「CNNインターナショナル」なら良いのですが「ヘッドライン」という選択はおかしいと思います。

 10年ぐらい前までは、確かに「CNNヘッドライン」というケーブル局があり、30分おきに最新のニュースを24時間流すというフォーマットで、そこには一流のキャスターが多くのニュース情報を効率的に報道するというスタイルがありました。出張先で最新のニュースをチェックしたり、忙しい人が朝起きて、あるいは就寝前にニュースをチェックするという目的で、重宝され信頼もされていたのです。

 ところがインターネットの普及により、このスタイルは不要になりました。そこでCNNは、「ヘッドライン」のチャンネルを2001年から2008年まで段階的な試行錯誤を経て、全く別のコンセプトに変えたのです。チャンネル名も今は「CNNーHL」という名前から更に「HLN」へと変わっています。そのコンセプトですが、一言で言えば「タブロイド版の新聞」の感覚です。

 芸能情報と殺人事件などを中心に、まるでラジオのDJのようなキャスターが「キャラ全開」で好きなことを喋る、そんなフォーマットです。一番の人気キャスターは「ナンシー・グレース」女史で、彼女の番組は一応司法報道を扱うことになっていますが、中身はセンセーショナルなゴシップ仕立て100%という作りです。

 つまり、現在のHLNはCNNの本局とは対象が違い、「国際ニュースや政治経済」には興味の「ない」人向けのチャンネルなのです。3月後半から4月にかけて、そのCNN本局などの「まともなニュース局」が日本発の震災と原発のニュース一色になっていた時も、延々と芸能と殺人事件を流していたのがHNLです。今回のCMのターゲット層には全く合っていません。

 更に言えば、昔のように30分サイクルでヘッドラインをローテーションしてゆく形式ではないので、ナンシー・グレースのファンは最低は60分はこの局にチャンネルを合わせます。そこへ、ものすごい本数同じCFを流すのは非効率という問題もあります。

 今からでも遅くないので、ナレーターを代え(例えば渡辺謙さんなど)、原稿を手直しし、放映局をCNNの本局に変えるべきです。大事なことには、どうか心を込めて欲しいのです。謝意という大切なメッセージがこのままでは届かないと思います。

*編集部から連休のお知らせ
連休中は当ブログの更新をお休みします。次回のブログエントリは来月9日の予定です。

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 アメリカのメディアは「英国のロイヤル・ウェディング」報道一色になっています。結婚式は金曜日ですが、先週から既に報道は過熱気味です。この「ケイトとウィリアムの物語」というのは、ダイアナの悲劇を背負った一族へ「嫁ぐ」決意をしたケイト・ミドルトンの「覚悟」と、そのハートを射止めたウィリアムという「キャラの立った」ストーリーであり、それがアメリカの人々の琴線にも触れたのは事実でしょう。

 ですが、ここまで報道が加熱する背景には、この間のニュースが余りにも暗かったことへの反動という面もあるように思います。その暗いニュースというのは日本の東日本大震災、そして大津波による甚大な被害と原発事故のことです。発生以来1カ月半、アメリカは本当に大きくこのニュースを取り上げてきました。エース級のキャスターを日本へ送り、泣いたり怒ったり、臨場感ある報道を続けてきたのです。

 日本の悲劇に徹底的につきあったことで、さすがのアメリカ人も疲れてきた、そこへケイトとウィリアムの満面の笑顔が出てくると、思わずホッとさせられる、そんな要素も否定出来ないように思います。日本人としては心外ですが、それほどまでに、アメリカは震災に見舞われた日本を注視していたし、そこには何の偏見も、邪念もなかったと言って構わないでしょう。

 おかしな発言としては、女子バスケの選手が「震災と真珠湾の因果応報」的な発言をして物議を醸したというニュースがありましたが、例外はこれぐらいで、後は各コミュニティの募金活動からメジャーリーグ開幕時の黙祷まで、アメリカ人はしっかりと誠意を示していました。

 私が感慨を持ったのは、日の丸のイメージが変わったということです。例えば、多くのミュージシャンや業者が募金運動を進めるために日の丸をアレンジしたTシャツをデザインしていましたし、雑誌の表紙やTVの特集番組のタイトルにも日の丸が多かったように思います。極めつけはニューヨークのエンパイアステートビルで、4月の第1週には「がんばれ日本」という趣旨で白と赤のライトアップが施されています。

 中には悲劇的なイメージにしようと影をつけたり、ヒビの入ったものなど特殊なデザイン処理をした日の丸もありましたが、1つ指摘しておきたいのは「日の丸=軍国日本」というネガティブなイメージが皆無であったということです。長い年月にわたって国際社会で平和的な姿勢に徹した結果として、日の丸のイメージは「浄化」されており、それが今回の被災により同情や支援の対象となることで決定的になった、そう見て構わないと思います。

 イメージの「浄化」と言えば、自衛隊についても大きな変化があったように思います。劣悪な環境で遺体の捜索をしたり、身元の判明した遺体を簡素な土葬にする際に、最敬礼をして死者に敬意を示す自衛隊員の人々の姿は、アメリカの新聞でも取り上げられていました。そうした写真には悲劇の中にあって、品位を失わない日本人への畏敬というニュアンスが濃厚であり、ここでも「悪しき軍国日本の伝統を受け継ぐ」というような偏見は皆無でした。

 では、アメリカ人から見て、日本人のイメージが格段に良くなったのかというと、必ずしもそうではないのが残念なところです。「軍国日本」のイメージは消えているのですが、「顔の見えない日本人」「何を考えているのか分からない日本人」というステレオタイプはなくなっていません。

 それどころか、原発事故の詳細に関するデータ発表の遅れや、政府発表の切れ味の悪さなどについては、相変わらず悪いイメージで見られているのは事実です。例えば、ニューヨークタイムス紙などは、官邸、原子力安全・保安院、東電の三者がどうして意思疎通が上手くいっていないのかなどという問題について、東京発の詳細なレポートを出し続けており、そうした記事を読むと読者はどうしても日本の官僚組織への不信感を持ってしまうようです。

 確かに「日の丸」そのもののイメージは格段に良くなっているのですが、一方で、アメリカ人には「会見前に日の丸に敬礼する菅首相や枝野官房長官」の映像を見せられると、これは決して良いイメージにはならないのです。どうしても「組織の論理の前に、個を埋もれさせ、真実を語る権限を許されない」存在、いわゆる「公式発表」に終始する非効率な組織の歯車にしか見えないのです。

 原発の事故について方向性の見えない時期に、CNNは枝野長官の会見映像を散々流しましたが、そのたびに「日の丸に敬礼する」長官の画像を意味もなく必ずつけて編集していました。その編集はニュースの中身には意味が無い分だけ「なんとも言えないオリエンタルな雰囲気」とともに伝わり、結果的に長官の発言の信憑性も減額される効果があったのです。

 敬礼が「オリエンタルな」というのはやや語弊があります。もう少し正確に言うと次のような感覚です。日本国内向けには「国旗に敬礼すること」とは「国家何するものぞとの尊大な姿勢は取りませんよ、自分は平凡で安全な人間ですよ」という意味しかないわけですが、CNNの編集にかかると「国旗というモノに拝跪する」のは「矮小な人間」であり、組織の論理に勝って正義や最適解を適用することは期待できない「無能な存在」というイメージになってしまうのです。菅首相の「敬礼」がCNNで流れたときには、特にそうしたニュアンスが強く感じられました。この辺は単に文化の違いで片付けられない問題のようにも思います。

 顔の見えないということでは、原発事故収拾のために現場で苦労している作業員の方々も、実名報道もダメなら肉声のコメントを海外に紹介することも禁じられているわけです。これも、日本側では個人情報を守るというタテマエの裏には「原発の賛否に関して国論分裂の火種になるような生々しいコメントは迷惑」ということと、「下請けの作業員が発注元の経営者より上位の名誉を与えられることを許容できるカルチャーが経済界にはない」というようなことがあって絶対に不可能ということなのだと思います。一方で、海外からは作業員が匿名のヴェールに覆われていることが「封建的な支配」があるように見え、それが「安全性への懸念」を増大することになるわけです。

 思えばまだまだ「軍国ニッポン」とか「エコノミック・アニマル(ひどい言葉ですが)」といったイメージが残っていた時代にも、多くの科学者や音楽家、スポーツ選手など「顔の見える日本人」が日本のイメージ向上に貢献していたように思います。今は国のイメージは格段に向上しているのですが、「顔の見える存在」はほとんど無いという皮肉な状態と言って良いと思います。

 復興にしても原発処理にしても危機が続いている中、閣僚クラスの海外出張(「外遊」という妙な単語はこの際止めてはどうでしょう)がなかなか実現しないようですが、どこか一段落したところで、支援への謝礼と、事故処理の報告を兼ねて首相なり主要閣僚が主要国を回って「顔」を見せることは必要と思います。

 英国の「ロイヤル・ウェディング」報道が必要以上に加熱するのも、日本の悲劇的なニュースを見るのに疲れたということに加えて、「顔の見えない話」に疲れたという面もあるのかもしれません。

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 福島県のことがどうしても気になっています。

 特に飯舘村の「計画的避難」の問題では、地元では納得感が得られない一方で、線量計のデータを含めた経緯が全国ニュースで流れています。住民に今後向けられる風評被害の可能性、そして住民がある意味ではそれを覚悟している現実など、21世紀の現代にあって信じられないような迷走と悲劇が静かに進行しているように思うのです。

 この迷走の背後には日本政府がIAEAとの連携に失敗しているという問題があると思います。IAEAに関して私はこの欄を使って何度か提言をしてきました。もう一度要約すると、

(ア)天野事務局長は事故の当事国外交官出身であり、利害相反の疑念を招く以上、出処進退を明らかにすべき。

(イ)だが、天野氏自身が事務局長として日本に乗り込んだ以上、辞任のタイミングは消滅。

(ウ)ならば、あらゆる安全基準についてIAEAの「お墨付き」をもらって国内外の納得感を高めるように行動せよ。具体的には低濃度汚染水の緊急排出の許可をもらう、IAEAにオーソライズされた安全基準を国内適用して風評被害を封じるなど。

 というのがその提言です。ですが、今回ちょうどこのエントリが公表された頃には、まず20キロ圏以内の「警戒区域設定」がされ、飯舘村等の「計画避難区域」に対する避難指示が出ることになるわけで、この動きを見ていると私の提言した方針とは全く逆の妙な動きになっているように思います。実際に起きたのは次のような流れです。

(1)3月14日、3号機水素爆発。風向と地形の関係で、20キロを超える飯舘村に高濃度の放射性物質が飛来・沈降したと推測される。

(2)3月18日、IAEA天野事務局長の「来日」に合わせて、IAEAの調査チームが飯舘入り。以降26日まで調査。

(3)3月30日、ウィーンにてIAEAのフローリー事務次長が記者会見。飯舘村の線量は高く、避難を勧告と声明。同日、天野事務局長は6月の「原発事故対策の閣僚級会議」開催を発表。

(4)3月31日、原子力安全・保安院は「日本基準では飯舘の避難は不要」と発表。

(5)4月11日、飯舘村に「計画的避難区域」が設定される。一カ月をメドに避難をという方針。

(6)4月16日、福山官房副長官、飯舘入りして村長に謝罪。理解を求める。

(7)4月19日、IAEAフローリー事務次長は、6月末の閣僚会議へ向けて、5月に再度調査団を派遣と発表。

(8)4月21日、菅首相福島入り。翌日の警戒区域設定と計画避難指示について佐藤知事に説明。

(9)4月22日、20キロ圏内は警戒区域設定、無断立ち入りを禁止に。計画避難指示。

 ここまでの事実関係から、「計画避難区域」の設定はIAEAの調査結果を受けて、はじめは消極的に、その後は徐々に真剣にという変則な形で進んだこと、IAEAが5月に再調査するという発表を受けて、計画避難と警戒区域設定が行われたことが浮かび上がってきます。

 警戒区域の設定については、首相自身が乗り込んで説明したことも含めて何とも唐突でしたが、5月のIAEAの再調査の時点では、20キロ圏が「しっかり管理されている」ことを見せないといけない、あくまで状況証拠からの推測ですがこれが主要な動機と考えられるように思います。炉やプールの状態が悪くて、再度の大規模飛散を警戒しているのではない以上、他に主要な動機は考えられません。

 つまり日本政府としては、ただただIAEAの調査団をあくまで「ガイアツ」と認識して、見解を認めなかったり、逆に調査を恐れて「期限ギリギリに宿題をやっている」と見ることができます。こうした迷走のことを、菅内閣が無能だから起きたとか、官僚組織が硬直化しているから起きたという「解説」は可能です。もっと「ひねくれた」見方をすれば、自分たちの仲間である元日本外交官を応援する勢力と、それに抗する勢力が霞が関で暗闘を繰り広げていたなどというストーリーも描こうと思えば描けます。

 ただ、これはちょっと悪意が過ぎます。私の推測は、そうした政治的な問題よりも、「IAEAの基準通りにやっていたら、避難規模が拡大してしまって福島県の日常生活は大混乱になる」という判断から、「何とか穏便にやろう」として、都合の良いデータを選んだり、見解を曲げて解釈したりした結果、「結局はできなかった」という破綻に至ったというのが真相に近いと思います。

 そうは言っても、非難や批判は何も生みません。IAEAの次回調査に際しては、福島県の都市や農地の線量を「どう計測し」「どう評価するか」を徹底して討論し、例えばメンタルな面も含めた健康管理について、食の安全について、あるいは土壌の入れ替えや除染についての助言をもらって欲しいのです。とにかく福島の人々に安心を届け、福島の人々や福島の産品が風評に晒されないように、国際基準による評価と対策は何かをハッキリさせて欲しいと考えます。

 飯舘だけでなく、福島市内の状況もたいへんに心配です。幼稚園児に対して「危険だから当分は砂場遊びは禁止」と説明している映像がNHKで流れましたが、私は胸の痛む思いがしてなりませんでした。砂場の砂の線量が高いのなら、砂を入れ替えれば済むことです。今は、もう大量の放射性物質の沈降はないのです。今ある線量は、原発からダイレクトに来ているのではなく、砂場の砂を含む土壌や建築物の外壁、下水溝などから出ているだけなのです。

 もしかして、国としてはまだ水素爆発の危険があるので除染を止めているのでしょうか? それともコストの問題なのでしょうか? 半減期を待てば除染しないで済むと思っているのでしょうか? これも国に決断できないのなら、IAEAに勧告を出してもらうしかないと思います。

ここまで書いたところで、飯舘村を含む計画避難については5月末までという期限が切られました。ということは、飯舘村の避難が完了していない状態でIAEAの調査団を迎えるということになるわけです。従来の霞が関的な発想からは、IAEAの前で「恥」を見せるのは「失態」なのかもしれません。ですが、村民と政府の間で調整のつかない「正直」な状況をIAEAに見せて一緒に悩んでもらうというのであれば、それはそれで仕方がないようにも思います。

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 3月11日の大震災の直後に、阪神淡路の被災者のコメントとして、次のような内容の文書がネットを駆け巡りました。

「千羽鶴はゴミであり不要」

「自分探しのボランティアは迷惑」

「古着の山は屈辱」

 また、震災から1カ月弱が経過した時点で、津波の被災者をその妹が紹介するというスタイルで、次のようなコメント(長文からの抜粋です)がやはりネットで出回りました。

「正直、復興なんてクソ喰らえだと思うよ。」

「俺たちを幸せになんてふざけたこと思わないで、俺たちの分、そっちもみんな不幸になってくれたらなー」

「俺たちを想って歌とか作られても今は不愉快だから、東京も全部流されて、それでも『頑張ろう』って言われたら、頑張るよ。その人の歌なら聴く。」

 今回の震災では。ツィッターやブログなどのインターネットを通じたコミュニケーションが大きな役割を果たしたのは間違いありません。消息情報や救急搬送のニーズなどを伝える役割や、被災地へ激励を届けるなどの効果を発揮したのは事実です。ですが、同時にこのような「どす黒い言葉」がネットを通じて拡散してゆくという現象も生みました。では、このような「どす黒い言葉」を私たちはどうやって受け止めれば良いのでしょうか?

 1つは、ストレートに受け止めるという態度です。こうした大規模な災害の場合は、被災した地域に対して、被災しなかった地域では「助かって申し訳ない」という罪の意識を抱きがちです。こうした心理に対して、こうした「どす黒い言葉」はそのままストンとはまってしまいます。ある意味で、それは仕方がないことだとも言えるでしょう。言葉の持っている辛さが被害の大きさのリアリティになるということだと思います。

 ただ、こうした心理は、被災地とその他の地域の距離感を増大させるだけとも言えます。人々の心を萎縮させ、具体的な支援活動を躊躇させたり、過剰な自粛の元凶になったりするわけです。ストレートに受け止めるだけではいけないという感覚はそこから来ています。

 第2の態度は、否定するという姿勢です。平時においては、社会に対して愚痴や攻撃的な言葉をまき散らす人に対しては「華麗にスルー」という態度があります。これと同じように、いちいち言葉を受け止めて怒ったり傷ついてみたりする必要はないという考えです。また、日本の場合は等質社会だからネガティブな表現が許されているとか、匿名での発言はそもそも甘えだとかいう論評をする人もいるかもしれません。

 ですが、平時における「生きづらさ」をめぐる暴言などと比較しますと、今回の震災におけるこうした「どす黒い言葉」は、そう簡単に「スルー」はできなかった、そう考える人は多いと思います。また、平時のコメントと同じように批判の対象にすることには抵抗感があるのではないでしょうか?

 第3は、少し距離を置くという姿勢です。例えば、阪神淡路の被災者による「千羽鶴はゴミ」という発言は、恐らく避難所生活が安定し、衣食住と安全が確保された後に、自尊心やプライバシー、娯楽などのニーズへ移行した「後期の段階」の感想ではないかということが言えます。ですから、震災の直後の恐怖と緊張感の中で、少しの激励でも勇気づけられるという状態を前にした場合、こうしたコメントは「フェーズがずれた話だから真に受ける必要はない」という考え方は可能だったはずです。

 更に言えば「ボランティアが嫌がられる状態」というのは、有償の労働力ニーズが生まれて地元の雇用への期待が出てきたからだ、と見ることが可能です。正に「後期の段階」です。ということは「ボランティアが嫌がられるのは、地域が再生へと踏み出した」証拠であり、「ボランティアとしては成果として誇りに思うべきだ」だという「大人の見方」をすることも可能だというのです。ネットではそんな議論も目にしました。

 津波被災者の「復興なんてクソ喰らえ」というのも、距離を置いてみれば「この人は助かったんだな。生命の危険は去ったというシグナルとして受け止めればいいんだな」という見方も可能は可能でしょう。

 ですが、そうした「冷静な」受け止めだけでは、やはり済まないものもあるように思われます。理性はともかく、こうした「どす黒い言葉」というのは私たちの心に何かを突き刺してくるからです。

 もう少し考えを進めてみたいと思います。

(1)まず「どす黒い言葉」が「受け止められた」ことは評価すべきではないかと思うのです。こうした心の叫びは、深刻な被災の中から衝動的に生まれたものであり、被害者の正義を振りかざして人を支配しようとか、何かに甘えようというという計算はないと感じられます。言葉は痛々しいし、受け止めるのも辛いのですが、そこには「上下の感覚」はないのです。痛みを介在してではありますが、「言葉が受け止められる」ことで、被災者と被災しなかった人が「つながった」ことの事実は否定できません。

(2)こうした言葉は、災害のインパクトだけでなく、背後にある社会的な問題を提起しています。例えば避難生活の「後期」における精神的苦痛への対策は、阪神淡路の場合は全くの試行錯誤であったという反省から、今回は何とか精度を高めていかなくてはという受け止めができますし、また津波による被災者の憤怒の背景には、救援体制に重大な欠陥があると考えるべきだと思います。

(3)その結果として、ネットによる世論形成が進むという期待が持てます。個々の痛みの感覚が拡散されていって、無名の多数に届いたという事実が、問題提起や代案の提出になっていけば、ネットによる民主主義は前進すると思うからです。従来であれば政治家の事務所とか、役所の相談窓口とかに行っていた「苦情」が、ネットを通じて「開かれた訴え」として拡散した、そう考えればそれほど不自然なこととも思えません。

(4)勿論、人間の感情の暗い面を強調した表現、人を傷つけてしまう表現そのものは、回避できればそれに越したことはありません。ですが、今回のような大災害で、多くの人が犠牲になったり危険に晒されているような場合は、ストレートに不満や懸念が伝わることの効果を評価したいと思います。ただし、受け止める側は頑張ってクッションになり、それに対するレスポンスは礼節をもって行うべきでしょうし、良いレスポンスがあれば、最初にSOSを発した人も以降は冷静になっていく、そんな好循環を心がけたいと思います。

 今回の大震災は、SNSなどネットによるコミュニケーションが機能した初めての大災害ということで、例えばアメリカの全国紙『USAトゥディ』は先週大きな特集を組んでいました。そこでは、あくまで被災地での安否確認や、ニーズ発信という個別のコミュニケーションに絞った追跡がされていました。これに加えて、現場からのSOSと、これを受けた政策変更へ向けての世論形成という効果についても、様々な検証が必要と思います。緊急の課題としては、福島では何としても成功例を作ってゆかねばなりません。

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福島県復興のための実行項目とは何か?

2011年04月18日(月)11時54分

 菅総理が「福島復興委員会」という会議の設置を提唱しているという報道がありました。

 重要な提案だと思います。

「一体いくつ会議を作るんだ?」という批判も多いようですが、この問題だけは別です。他の会議、他の復興計画とは違って、直近の実務的な問題に前例のない重たい判断を要求されるからです。
 
 問題は3つあります。この3点について、厳密に計画をすると共に日々変化する状況を受けて、計画を実行する一方で、最適になるように改訂し続け、その全体を常にオープンにし続けなくてはならないと考えます。

 1つ目は同心円避難区域についての判断です。

 福島県が今苦しんでいる最大の問題です。苦しんでいるというのは勿論多くの人々が不自由な避難生活を余儀なくされていることもありますが、これに加えて先の見通しのつかない苦しさという問題があるわけです。首相周辺からの「20年は戻れない」という言葉が独り歩きする一方で、それが一方的な批判を浴びたりするのは、この住民の苦しさを反映したものだと思います。

 この「先の見通しが立たない」ことを受けて、東電は工程表なるものを発表しました。原子炉と使用済燃料プールを含めて、事態の収束へ向けて「ステップ1」「ステップ2」そして「中期的対応」の3段階に分けた計画が書かれています。この「ステップ1」が完了すればある程度安全に、そして「ステップ2」に到達すればより安定した状況になるとして「ステップ1」には約3カ月、「ステップ3」については約6~9カ月が見込まれるという発表になっています。また海江田万里経産相は、「ステップ1」が完了した後に、住宅地等の線量測定を行って帰宅の可否を決定すると表明しています。

 私はこの方針の基本的な考え方は間違っていないと思いますが、発表が分かりにくいのは問題だと思います。まず工程表なるものは単純に過ぎます。この工程表を状況に応じて改訂するのも分かりにくいと思います。「ステップ1」「ステップ2」の2段階も曖昧です。そんな言い方ではなく、まず「爆発の可能性をゼロにする」ことが目標、次に「沸騰などによる大気中への新たな放射線物質の放出をゼロにする」ことが目標だ、つまり「爆発可能性ゼロ」「放出ストップ」という2段階の目標がある、そうハッキリ宣言すべきだと思います。

 その上で「3つの原子炉と4つの燃料プール」の全てにおいて「爆発可能性ゼロ」の認定に到達した時点で、「同心円避難区域」を段階的に解除すべきだと思います。同心円避難区域というのは水蒸気爆発(恐らくその可能性はほぼゼロになっていると思われます)もしくは水素爆発(こちらはまだゼロではありません)による大量の放射性物質飛散を警戒し、その際の風向風速を予想するのが難しいことから同心円で実施されているものであり、爆発の危険が去ったら外側から解除することになる、そう宣言すべきと思います。

 その上で、線量測定結果に基づいて今回の30キロ圏での「計画避難区域設定」と同じように、10キロ以上20キロ以下のエリアでも、線量の高いところは一時帰宅は認めた上で避難体制を継続することになると思います。

 2つ目は除染です。

 東電の言う「ステップ2」と定義が一致するかは分かりませんが、大気中への新たな放出がストップできた、つまり最も時間のかかった炉またはプールから放射性物質の放出が止められたという時点で、速やかに除染がスタートするようにすべきです。除染には2種類あります。

 まず、その地域の大気中の放射線量を減らすために、3月の爆発時に降下したと思われる放射性物質を建築物の外面、あるいは道路や住宅地の表面から除去するということです。ヨウ素131の場合は8日で半減しますが、セシウム137は30年、ストロンチウム90は29年と半減期が長いので、効果的な除染が必要になるし、また除染しないと場所によっては「住めない」ということになります。したがって、同心円ではなく線量の問題で帰宅のできなかった地域への帰宅を進めるには除染が必要になるわけです。

 もう1つは土壌の入換えです。これについては、大きな作業になりコストも労力もかかるわけですが、線量の高い地域では、農産物の作付けを再開するためには必要です。こちらも、とにかく「放出ストップ」が確認され、空気中の線量が減った時点で日程を決めて実行することになります。そのために、今からどのような順位でどのように実施するか、計画を立てなくてはなりません。

 3つ目は、安全基準の問題です。

 居住の安全基準、作付の安全基準、酪農の安全基準について、曖昧な政府の決定では説得力が十分ではない懸念が残ります。あくまで人類史上に残る事件としてIAEA並びにWHOの基準を厳密に適用してゆくべきであり、そのような運用がされた前例として残すべきです。安全基準のないジャンルに関しては、国際基準を作ってもらうことも必要です。こうした点については、今後、IAEAの閣僚級会合、原子力問題サミットなど、大きなチャンスはいくつかありますから、そこでしっかり提案していくべきです。

 国際基準を適用するというのは、単なる数値のガイドラインだけではありません。線量の測定方法などのプロシージャー(手続き)も国際基準に即して行うべきです。また必要に応じて国際機関の調査や助言を仰ぐべきですし、場合によっては査察を受けることも必要と思います。例えば、今でも問題を引きずっている飯舘村の問題も、3月18日前後にIAEAがこの地域の高線量を指摘した時点ですぐに動いていれば、問題がこじれることはなかったのではと思います。

 また除染の作業そのものに関しても、技術力に問題があるのであれば、米仏をはじめとした各国の協力を仰いだり、国際機関の助言を求めるということは排除すべきではありません。

 以上の3点ですが、これでは復興計画とは言えないではないか、そのような批判があるのは当然だと思います。宮城や岩手は町づくりや新たな農林水産業の計画など壮大なことを考え始めているのに、福島はいつまでも避難や帰宅、線量計測に除染などという「地味な」作業に追われ、しかもそのメドも立っていない、そうした怒りもあると思います。ですが、3つの炉と4つのプールを相手にして作業が続く現在、どうしてもこうしたプロセスを経なくては先へ進めないのです。

 このプロセスを透明性をもって、また事実に基づいて冷静に進める中で、中長期の展望は開けてくるのだと思います。また、その透明性・客観性が確保されることが、風評問題に対する最大の対策になると思います。特に安全基準を国際基準に合わせ、国際機関の協力やチェックを受けて安全性の確認を行うことは、県内外の不安感情に対する最大の対策になると思います。

 アメリカの新聞では、飯舘村の問題をはじめとして福島県というコミュニティが、どのように苦しんでいるかを、人々の肉声を紹介しながら詳しく報道しています。厳しい現実が続きますが、世界中の関心が集まっています。何としても復興を進めてゆかねばなりませんし、そのためには透明で冷静な対応、そして国際基準によるオーソライズのプロセスが必要と思います。

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冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修了(修士、日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。主な著書に『アメリカは本当に「貧困大国」なのか?』(阪急コミュニケーションズ)、『アメリカモデルの終焉』(東洋経済新報社)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」を毎週連載中。