ずっと一緒にいたい人がいました。
でも、私が傷つけ、信頼と安心を与えることが出来なくなり、去っていきました。
今でも、どこかで顔を合わせぬように気を使っています。
それは相手を嫌な気持ちにさせないため。
ともすれば、私はまだ一緒にいたいと思っているくらいです。
「それは未練だ」
うん。ある意味それは正しいです。
別れた時、思っていた以上に相手が苦しんでいたことを知り。
私がどんなに変わっても、仮にどんなに尽くしたとしても。
私との接点が、もうないことが良く分かりました。
それどころか、それは相手を苦しめるだけだと。
もうこれ以上苦しめられない。傷つけられない。
だから、もう関わらないようにしました。
一方で、どんなに拒否されても、一緒にいたいと思う自分がいました。
その気持ちを整理するために、嫌なところや機嫌が悪くなったことを思い出して、嫌いになる努力をしたり。
本当に追い込まれていたんですね。
勿論、自己嫌悪に陥っただけでした。
私は、愛情を注ぎ続けてくれる限り、必ず注ぎ返す自信はありました。
思い出すに、それが本当に愛情だったのかと。
別れるきっかけになったのは、私が大人気ない対応をしたことなんですが。
それは、自分を見てくれない・配慮してくれない、と思ったことが原因でした。
そう言ってしまえば子供のようですが。
これは誰しもが持つ本能ではないでしょうか。
でも。
そう思ったってことは、それって本当に愛情だったのか、と。
そんな時に見かけた本が山田ズーニーさんの「理解という名の愛が欲しい」でした。
恋愛の本、という訳ではなく、人との関わりをテーマにした話が多いエッセイ本です。
その中で、「愛」という言葉や思いに対する違和感に触れた、こんなくだりがありました。
「愛してる。あなたも私を想ってくれる限りは」
多くの人が、自分を理解してくれるなり、必要としてくれるなり、そばにいてくれるなり、とにかく心のどこかで相手に、「くれ」というようなことを期待し。
その一点を思いつめ、その可能性がある限りにおいて、愛しているという。
ああ、と納得しました。
この本を読んだ時には、既に結論は出ていたのですが。
それって、私が思う愛情じゃない。
つまり。
私が交換していたのは、愛情ではなかったんだ、と。
幸せにしてあげたい。望みを叶えてあげたい。満たしてあげたい。
そう思ってやってきましたが。
でも、「私にも!」という思いがありました。
それに、人間ですから、プラスもあれば、時にはマイナスになることもあります。
それを許せる人、許せない人、相手にもよるでしょうし、色々なんでしょう。
でも今は。
for meで相手に求めるものはなく。
ただひたすらに、相手に幸せになって欲しい。常に笑顔でいて欲しい。
自分の深い、深い、深いところで、そう思う自分がいます。
ああ、本当にあいしてるんだなあ、と分かりました。
ズーニーさんは、愛とは、彼女の母親がそうしたように、無条件で人を憂うものだと捉えていましたが、今はその気持ちが分かります。
拒否したい自分と戦いつつ、悩み、迷い、葛藤しながら数ヶ月かけてこんなことが分かりました。
この年で分かるとは遅すぎもいい所ですが。
それに分かったとしても、今更どうにもなりません。
だから今まで以上に辛くもあります。
でも、自分の中にそれを見つけることが出来たことは、それを生み出せたことは大きな成長と思い、ここにメモを残すことにしました。
昔よりも、そして少し前よりも、周りの方々に対してずっと優しくなれると思います。
普通、こんな恥ずかしいことは人目に触れないよう一生隠し通すか、親友にだけこっそり打ち明けるんでしょうけどね。