「共に生きる社会」を訴え続けた。国内で初めて実名を公表し、薬害エイズウイルス(HIV)訴訟を起こした今治市の書家、赤瀬範保さんが逝って20年。最後に残った原告が大阪地裁で和解し、訴訟は全面解決の見通しとなった▲
「大阪HIV訴訟原告番号1番」。カミングアウト当時、社会はエイズに対する偏見に満ちていた。汚染されていた非加熱製剤を使用せざるを得ない血友病患者は、被害者。なのに絶えない職場での地域での、不当な差別▲
しかし、そんな境遇を淡々と受け入れ、故郷を愛し続けた。いま胸中を推し量る手段はない。ただ「えひめHIV訴訟支援の会」の結成時に初めて見せた涙に、心の揺れも見る▲
「私たちは被害者なのになぜ、社会の片隅で犬死にしていかなければならないのか」。国と製薬会社が癒着した薬害隠しの構図を喝破。「過ちをただし、謝罪させる手段は裁判しか残されていない」▲
大阪地裁までの長い道のり、口頭弁論での証言。さらにマスコミへの応対や、電話カウンセリング。後に続く原告や血友病患者、すべての社会弱者のため薬害エイズの顔として戦い、志半ばに倒れた▲
赤瀬さんが残した有形無形の遺産を思う。「親分」と慕われはしたが、著書では「痩せ我慢をしているのである」とも語った。薬害にやっと向き合いつつある社会を、彼岸からあの笑顔が照らす。