http://enlighten.fc2web.com/yuimakyou.html
どこの世界にも同じような人はいるもんです
説教くさい人間は仏も苦手
維摩経を検索して
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/yuima-bosatsunokyougai.html
こちらの訳が面白いですね
聖徳太子様も翻訳を行われたとか
↓ナイスな翻訳に吹きました↓省略していますが面白いです
http://bunchin.com/choyaku/yuima/yuima_index.html
超訳【維摩経】
初期大乗仏教典の傑作であり、かの聖徳太子も注釈本を書き下ろしたという「維摩経」の超訳チャレンジ。
仏教典=「お経」というと、法事の時などに坊さんがなにやらムニャムニャ唱えている呪文みたいなものだというイメージが強いですが、羅列された漢字の文字列を「中国語」の文章として読もうとしてみると、その内容の面白さに、ひとかたならず驚かされます。
中でも「維摩経(ゆいまぎょう)」は、戯曲的な色彩が強くて面白いという噂だったので読んでみたわけなのですが、イキイキとした人物描写が実に素敵で、凡百の小説やドラマなどよりもよっぽどか楽しく読むことができました。
で、この面白さ・楽しさの万分の一でも、誰かと分かち合えればよいなぁ、と思い、浅学菲才を省みず、無謀な挑戦を始めた次第です。
娯楽性を重視したため、学術的正確さを相当犠牲にしています。仏さま、どうもすみません。
m(_ _)m
「宗教書」などと考えず、純粋に「読み物」として楽しんでいただければ、これ幸い。
用語解説:維摩(ゆいま)
第1話 維摩居士、登場
2006.11.29
昔々、インドのヴァイシャーリーという大都市に、維摩詰(ヴィマラキールティ、以下「維摩」)という長者がいました。
彼は熱心な仏教徒でしたが出家はせず、お城のような巨大なお屋敷で、妻子や使用人たちと暮らしていました。
維摩は溢れんばかりの才能と情熱、そして資産を持っていました。
そして、とても幸いなことに、それら全てを人助けのために使うと固く心に決めていたのです。
実際、彼の活動は融通無碍であり、大きな成果を上げていました。
貧しい人には施しを与え、悪人は教え諭し、怠け者にはハッパをかけるなど、全ての人に対して、それぞれのレベルに合った導き方をする彼の人望は、まさに天下に轟いていたのです。
ある日、維摩はこう考えました。
「これまでは自分であちこち飛び回り、色んな人たちを導いてきたわけだが、もう長いこと続けてきたのでちょっとマンネリ気味だなぁ。
そうだ!ここはひとつ、私が「病気で寝込んだ」という噂を流してみよう。
そうすればきっと、私のことを心配して、人々は自分たちの方から私のところに集まってくるに違いない。
うん、なんて効率的なアイデアだろう!」
さて、維摩が「病気で寝込んだらしい」という噂が広まると、国王や大臣をはじめ、資産家やその家族たちなど、あらゆる階層の人々が、数え切れないほど彼の家に集まってきました。
こうして彼らを待ち構えていた維摩は、病気をネタにした説教を実施し、大成功をおさめることができたのです。
作戦成功の余韻にひたりながら、維摩はふと思いました。
「私はこうやって「病気で寝ている」ことによって、たくさんの人たちに仏の教えを説くことができた。
そういえば当の仏様は、こんな私を見舞いにきてくれないものだろうか?」
第2話 シャーリプトラ
2006.11.29
ちょうどその頃、維摩の住むヴァイシャリーの町に来ていた世尊(お釈迦様)は、町外れのマンゴー樹園で、500人の弟子と修行僧8000人、それから32000人の菩薩を相手に説教の真っ最中でした。
維摩の思考をテレパシーで察知した世尊は、一番弟子のシャーリプトラ(舎利佛)に言いました。
「おい、維摩のオッサンが見舞いに来て欲しがっているぞ。
シャーリプトラよ、お前さん、ちょっくら行ってきてくれないか?」
表情を曇らせるシャーリプトラ。
「いや、そうしたいのはヤマヤマなのですが、私、どうもあのオッサンが苦手なんですよ・・・
実は以前、林の中で瞑想にふけっている時に、維摩のオッサンに因縁をつけられたことがありましてね。
あのオヤジ、座っている私のところにやってきて、いきなりこう言ったんですよ。
「何をこんなところで引き籠っとるんじゃ、いい若いモンが!!
修行は、ただ座り込んでおればよいというものではないぞ。
あれやこれやと忙しく社会生活をこなし、かつ、心の安定を失わないようにすること、それを修行というんじゃ!
わかったか、ボケ!!」
・・・で、私、言われっぱなしで一言も反論できなかったんです。
ホントすみません、あのオッサンだけは勘弁してください・・・」
第4話 マハーカッサパ
2006.11.30
二番弟子のモッガラーナ(目連)にも断られた世尊は、教団最年長でリーダー格でもあるマハーカッサパ(摩訶迦葉)に言いました。
「じゃあ、マハーカッサパ、お前が維摩の見舞いにいってやっておくれ。」
マハーカッサパは、沈痛な面持ちで答えました。
「ああ、世尊よ、まことに申し訳ありませんが、お役に立てません。
あれはかなり前のことなのですが、私がある貧しい村で托鉢乞食修行をしていた時のことです。
出し抜けに維摩さんが現れ、こう言ったのです。
「おいおいカッサパさんよ。お前さんともあろう人格者が、いったい何を血迷っているんじゃ?
あんたは元々大富豪の家に生まれたのに、それをなげうって出家したのじゃろう?
なのに今度は貧乏人からせびり取ろうというのかい?
そいつは大きな心得違いってやつじゃ!
そもそも「托鉢乞食の行」は何のためじゃ?
ひとつには「食欲」を克服するため。
また「何ものをも受け取らない」という教えの実践のため。
そして「一切のものに施す」修行のためじゃろう?
よく聞きなさい。世の中の全てのものは「実体」を持たない。
いまさら生じないのと同様に、もはや滅びることもないのじゃ。
人がものを食べるのは、煩悩があるからでもなければ、煩悩を離れたからでもない。
俗世間に留まるのではなく、また涅槃に入るのでもない。
このことがよく理解できたなら、施したからといって特別にハッピーなことがあるわけでもなく、役に立つわけでもなく、かといって損をするわけでもない、ということがわかるハズじゃ。
そのぐらいの心がけを持って、托鉢乞食の行を続けなされ!!」
と。
私はそれを聞いて、心の底から感動し、世の中にはなんと素晴らしい人物がいるものだ、と思い知ったのです。
それからというもの、私は「ただ一方的に教えを聞くだけ」とか「誰の言うことにも耳を貸さない」とかいった極端な修行法を一切捨て、人にも勧めないことにしています。
そういった経緯があるので、私にはその役目を務める資格がないと思うのです。」
第41話 維摩、ビシッとまとめる
2007.9.24
菩薩たちの「発表会」は続きます。
菩薩19:「「闇」と「光」、この2つこそが最も根本的な対立です。
そこを突きつめて研究した結果、私は「「光」があるところにのみ、「闇」がある」のだということを知りました。
「闇」とはつまり、「光」があたっていないというだけのことだからです。
もし「光」が全ての「闇」を滅ぼす時がおとずれたなら、その時こそ、まさに「光」も滅び去ります。
「闇」がなければ「光」はその存在を示すことができなくなるからです。
これこそ「絶対」の境地です!」
菩薩20:「いわゆる「涅槃」と「輪廻(転生)」、この2つこそが最も根本的な対立です。
そこを突きつめて研究した結果、私は「「涅槃」と「輪廻」は対立するどころか、実はどちらも存在しない」ということを知りました。
「輪廻」とは、イヤになるくらい何度も何度もこの世に生まれてきてしまって苦労が尽きないということだと定義されています。
そして「涅槃」とはそのような束縛から逃れ、解脱することができた状態だと定義されています。
でも、考えてもみてください。
「現世の束縛」なんて、本当にあるのでしょうか?
自縄自縛という言葉がありますが、実は皆、誰にも頼まれないのに自分で自分を縛り上げておいて、勝手に苦しんでいるだけなのではないでしょうか?
もしそうだとするならば、その「束縛」は元からあったものではないということになります。
仮にそのことに気づいて自分を縛ることをやめたとしましょう。
それは決して「解脱」などという大層なものではなく、単に自分を縛り始める前の「元の状態に戻った」だけに過ぎません。
「束縛」が存在しないところに「解脱」は存在できません。
現世をイヤがる気持ちがなくなった時、「涅槃」などを求める気持ちは消え失せます。
これこそ「絶対」の境地です!」
このように、菩薩たちはそれぞれの研究成果を発表し終わると、リーダーである文殊菩薩に話を戻しました。
菩薩一同:「文殊、最後はあなたの番ですよ!ビシッと総括お願いします。」
文殊:「フム、よろしい。
それでは私の考えを聞かせてあげましょう。
ありとあらゆることがらの真実の姿は、
「言葉にできない」
「説明できない」
「示せない」
「知ることもできない」
「問答や研究の対象とすることができない」
これこそ「絶対」の境地です!!
・・・維摩さん、なんだかすっかり話が長くなっちまいましたが、我々の意見はまぁ、こんなところです。
さぁ、今度はあなたの番です。
究極の「絶対」の境地ってヤツを教えてくださいな。」
維摩:「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
文殊:「す、すばらしい!すばらしすぎる!!
さらに「文字にもできない」し「言語にもならない」。
完璧です!完璧すぎます・・・
あなたのその無言の境地、それこそがまさに、究極の「絶対」の境地です!!」
このやりとりを目撃した5000人の菩薩たちは、一斉に維摩居士にひれ伏しました。