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冴えわたり響く辺見庸の言霊 - 3・11後の言葉と思想へ
辺見庸がテレビに出たのは2年ぶりで、2009年の2/1のETV特集以来のことである。あのときの秋葉原事件を語った「しのびよる破局」も絶品だったが、今回の大震災を語ったモノローグも素晴らしく感動的な中身だった。新しい詩編が間もなく発表されるらしいが、今回の語りが、2年前のように文章となり新刊となることはないのだろうか。辺見庸のオーラルは冴えていて衰えていない。むしろ完成度が上がっている。口を発して出る全ての言葉に隙がなく、一言一句が詩文として推敲され彫啄されて芸術品に仕上がっている。辺見庸は語る言葉を全て暗記していて、表現はアドリブではないのだ。司馬遼太郎のモノローグも素晴らしかったが、辺見庸も素晴らしい。2年前のETV特集のあと、5月に早稲田で講演し、昨年12月に日比谷で講演しているが、昨年の様子などを噂で聞くと、もう外で講演する機会はないのではないかという予想を持っていた。身体の具合が悪いのと、講演を依頼した主催者との関係に納得していない雰囲気が窺われたのである。その意味で、今回のETVでのパフォーマンスは、私からすれば「復活」の印象が強い。今回も映像で階段を歩行する姿が出るが、身体の不自由はさらに進んでいる感があった。あれだけのパフォーマンスを収録できるということは、NHKのスタッフとの信頼関係があるのだろう。できれば、テレビ出演の機会を多くして欲しいと思う。


テレビなら録画も出来るし、繰り返し再生して言葉を聞くことができる。講演だとそうはいかない。会場で言葉を聞き逃してメモを採れなければ終わりだ。テレビは映像の演出で効果を上げた作品にもできる。また、東京だけでなく全国の市民が見ることができる。障害のある辺見庸の場合、地方で講演することは困難だろう。だが、辺見庸のライブ・トークを聴きたい人は、その言葉を待っていて、その言葉に心から感動する人は、東京ではなく地方にこそ住んでいるのである。心を持った者は東京にはいない。だから、辺見庸はテレビを媒体として使うべきなのだ。見ている限り、NHKの番組制作者は本の編集者と同じほどに辺見庸をよく理解している。また、3/16に共同配信で出した特別寄稿の記事や、文藝春秋5月号に発表した小文よりも、今回のETVの番組の方がはるかに内容が濃く、創造性が豊かで、人を感動させる作品だと確信する。もし仮に、今後、活字での作品発表が詩作中心になり、随筆の文章を読むことができなくなるのであれば、その代わりに、テレビでのモノローグの機会提供を増やして欲しい。知識人としての辺見庸の言葉は必要だ。この大震災という世界史的な出来事の中で、日本における知識人の存在証明を辺見庸が一人でやっている。この震災の意味づけを日本人がすることを、意味を考えて日本語で語るという任務を、辺見庸だけが請け負って成果を出している。

番組の中で、この出来事の本質に迫る言葉をテレビや新聞は発しているのかと辺見庸は言っていて、私もその主張に同感する。言葉がないのだ。数万人が一度に死んだ悲劇に見合う言葉が、その壮絶な事実と釣り合う報道がなく、意味を深いところで考える思索や表現がなく、死んだ者や苦しんでいる者に真摯に向き合って言葉を発する人がなく、苛立って気が滅入るのである。言葉だけではない。この事実に対応する政治がない。政策がない。日本のマスコミで流れる情報は、悉く東京から発信されているが、それを聞いていると、まるで、数万人が死んだ事実などなかったようであり、避難所で暮らしている人は、三食足りて元気で健康で、全員が復興に向けて明るく生きているように見える。「もう限界に達している」と偶に報道は言うが、その内実は追いかけず、高齢者が次々と要介護者になり、死に瀕している事実を伝えない。我慢強く忍耐強い東北人に、不平不満を言挙げせぬ東北人に、死ぬまで我慢しろと強いている。まともに事態と向き合わないのであり、無視をしているのであり、報道や政治が自己の責任から逃げているのだ。そして、この異常な無関心と不作為について、正面から告発をする知識人がいない。それは、マスコミだけでなくネットでも同じだ。福島の原発問題のみ騒々しく騒ぎ、政府批判をネタで言い、原発の向こうにある被災地と被災者に関心が及ばない。今までのところ、放射能で死んだ人間はいないのに。

津波の死者は、少なく見積もっても3万人はいる。3万人とか4万人の日本人が一瞬で死んだ出来事など、戦後は一度もなかったことだ。そうした悲劇についての悲痛さが、マスコミからのネットからも全く届いて来ないのである。辺見庸が言うように、確かに、われわれは表現する言葉を持ち合わせてなかったのだろう。しかし、それにそれにしても、マスコミはともかくネットでさえ、原発狂騒曲のツイートばかりで埋められ、3万人の死と向かい合う言葉が何も無かったことは、私には意外であり、失望を深くさせられるものだ。言葉がないということは、心がないということなのだ。宮城や岩手の沿岸の悲劇に関心がないのである。穿った見方かもしれないが、ネットの原発狂騒曲は、祭りであり、オルギーであり、そして、3万人の死者への無関心を隠蔽する東京人たちの心理作用だったのではないかという気がする。原発と放射能に関心を向けることで、3万人の死者たちから顔を背け、痛むことをしなくて済ましたのだ。津波の死者たちは、東京の意識の中で空白になっている。真空になっている。3/11に何があったかと言えば、地震の後に電車が止まり、帰宅難民になって苦労したという体験なのだ。その日、その夜に、3万4万の人間が命を失ったという事実は意識の中にないのである。3/11から始まったのは原発事故と放射能汚染であり、他には何もなく、宮城や岩手の話は遠い田舎の他人事がテレビで映っているだけなのだ。

天皇陛下は、3/16に言葉を発した。「国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ」るようにと言った。だが、被災地に心を寄せていると思われる言論は、ネット上に一つもない。3/11の夜、テレビの報道で気仙沼の上空から下の火災を撮した映像が出た。陸自のヘリが撮影したものだったが、気仙沼の町が業火に包まれていた。火災は、気仙沼だけでなく、三陸沿岸から石巻にかけての全ての町で起きていたのである。南三陸でも、陸前高田でも、大船渡でも、釜石でも、宮古でも。しかし、東京の報道はヘリを飛ばしてそれを取材しようとせず、新宿駅前などに群れる帰宅難民をずっと空から撮し、報道はそれで埋められていた。自衛隊のヘリは、他の町の上空をも飛び、眼下の火災の様子を撮影していたはずだが、それを報道に提供することはしなかった。首都圏の帰宅難民も重大事件だが、それで人命が大量に奪われたわけではない。辺見庸は、3・11がわれわれに根本的な認識論上の修正と改変を迫っていると言っている。そして、自分(辺見庸)は、この事態を言い表す言葉を打ち立てるのだと言っている。私も、3・11は日本人にこれまでの生き方や考え方を変えるよう迫っていると思うし、死者に報いるとすれば、日本人が3・11を有意味な画期とするとすれば、生き方を根本から変えることだと素朴に思う。それは、私の言葉で言えば、新自由主義を清算することだ。新自由主義以前の思想と信条に還ることだと思う。

辺見庸が「言葉を打ち立てる」と言っている「言葉」とは、別の意味で言えば「思想」だろうし、「思想を打ち立てる」と言っているのだろう。大いに期待したい。そして、辺見庸が打ち立てた思想に、日本人の多くが改宗することを望みたい。今回の事態を受けての、アドルノの「アウシュヴィッツ以降に詩を書くことは野蛮である」の言葉への注目は、大江健三郎の原爆の言説を想起させる。ある種の既視感と言うか。確か大江健三郎だったと思うが、今日、原爆が頭上に投下されるかもしれないという日常の中で、果たして文学は可能なのか、というような問題提起があった。核廃絶の思想である。私がそれを読んだのは、もうかれこれ30年ほど前のことで、記憶もすでに曖昧になっている。だが、当時は、知識人は誰もがその言葉に真摯に肯いていたし、市井一般もまた、その知識人の言葉に拠って生きていた。辺見庸が、これから3・11の思想的意味を表現し始める。われわれに言葉を与える。それは大いなる朗報であり、心強い福音であり、希望が増えたと率直に思う。おそらく、村上春樹も書くだろう。この未曾有の出来事の体験を天才は表現せざるを得ないだろうし、その衝動に突き上げられているだろう。世界の人々は、村上春樹に何か言えと期待するし、村上春樹はその要請に応えなくてはいけない。日本を代表する知識人として。村上春樹が震災の意味を文学にする。村上春樹が、辺見庸に続いて天才をもって死者を弔う。不遜な言い方だが、それも楽しみだ。

石巻出身の辺見庸が、果たしてどのうような言葉を発するか、私は大いに期待をした。正直なところ、共同通信の記事や文藝春秋の文章では物足りなかった。しかし、NHK-ETVのモノローグには圧倒され、心の充足を感じた。これまでの飢餓感と言うか、報道等への苛立ちが解消され、心の平衡が戻った感じになった。しかも、これから書くぞと言って創作欲を漲らせ、3・11後の思想を打ち立てるのだとまで辺見庸は宣言した。私はフォロワーになる。だが、一方でそれとは逆方向の、不吉な予感と言うか、不安とか悲観のようなものも心の中に疼く。それは、Twitterで辺見庸の番組情報を告知し、拡散希望したところ、それに対する反応が全くなかったことだ。また、今回のNHKの番組についても、ネット上でほとんど反響らしいものがない。2年前の秋葉原事件のときは、もう少しネット上で注目され話題になったように思う。朝の5時から放送する宗教の番組だった点も気になる。通常であれば、日曜の夜のETV特集で企画され制作されたものだ。朝の5時の放送では誰も見ないだろう。これは、NHKにおける最近の政治情勢の反動化の反映とも看て取れるが、そうではなく、視聴率の計算と予測での編成であれば、問題は容易ならざるものがある。本当のところはどうなのだろう。辺見庸へのビジビリティは、中原中也賞や文藝春秋への寄稿などを見ると、客観的に高まっているように見受けられるのだけれど、一方、ネットの中の静けさを見ると、NHKの視聴率計算の推測も頷けないでもない。辺見庸が言うように、日本人は根本的に思想を改めるだろうか。認識論上の修正をするだろうか。

生き方を変えるだろうか。


by thessalonike5 | 2011-04-28 23:30 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)
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