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被災地の翼呼び戻す 仙台空港再開までの1ヵ月
| 仙台空港ターミナルビルの2階に並べた簡易ベッドで休息を取る米兵。復旧活動は24時間態勢で1カ月続いた=3月28日 |
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| 津波の到達時刻を指して止まったままの時計。壁の裏側には津波の痕跡が色濃く残る=18日、仙台空港ターミナルビル |
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| 笑顔で利用者を誘導する航空会社の旅客担当者=18日、仙台空港ターミナルビル |
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東日本大震災で大津波の直撃を受けた「東北の空の玄関口」仙台空港は今月13日、暫定ながら国内線の運航再開を果たした。震災からわずか1カ月。到底、不可能と思われていたスピード復旧の舞台裏と空港関係者の思いを伝える。(門田一徳)
◎米軍トモダチ作戦/滑走路復旧24時間態勢で/筋金入り部隊けん引
開港以来、最大のピンチが襲った。仙台空港長の大坪守さん(55)は言う。 「滑走路に車やがれきが散乱し、泥は深いところで膝まで埋まった。再開時期など皆目、見当がつかなかった」 大津波の5日後、3月16日。窮地を救う男たちが、その空港に降り立った。米軍の兵士だった。 米軍による被災地支援活動は「トモダチ作戦」と名付けられた。仙台空港には沖縄県や静岡県、ハワイから空軍、陸軍、海兵隊の260人が投入された。空軍はソマリア、ボスニアなど紛争地帯でも緊急滑走路を建設してきた筋金入りの特殊部隊だ。 機能停止した管制塔に代わり、隊員自ら離着陸を誘導し、夜はカンテラをともした。がれきの撤去作業に使う重機や部隊の輸送機が次々到着した。 24時間態勢の作戦が始まった。隊員は駐車場などに野営した。持ち込んだ作業車両は100台を超える。車やがれきの撤去は海兵隊と陸軍が担った。 滑走路上など敷地内に散乱する車は、1台ずつフォークリフトでトラックに載せて排除した。その数は2000台以上に及ぶ。がれきは大型ブルドーザーでかき集めた。 毎日午前9時に開かれた調整会議。米軍は「仙台空港を被災地復興のシンボルに」というフレーズを繰り返した。空港や陸上自衛隊の関係者は、この言葉に「大いに励まされた」と言う。 3月31日には、3000メートル滑走路と緑地帯からがれきが消えた。4月1日からは、ほこりに弱い旅客機でも安全に離着陸できるよう、滑走路上の小さなごみを手作業で回収した。 5日以降は空港部隊の規模を縮小し、石巻市でもがれきの撤去作業を始めた。大津波からちょうど1カ月の11日。「ほかにも困っている被災者がいる」。隊員全員が仙台空港から次の被災地へと転進した。 米軍とともに、日本の男たちも懸命の働きを見せていた。米軍の輸送機が着陸できるよう、3月15日までに滑走路1500メートル分のがれきを撤去したのは、ふだん滑走路の維持管理を請け負う前田道路(東京)の作業員たちだった。 被災地の空に翼をよみがえらせた「トモダチ作戦」。米軍は1カ月間に自分たちが出したごみを全て持ち帰った。 日米共同仙台空港現地調整所長を務めた陸上自衛隊幹部学校戦略教官の笠松誠さん(45)は振り返る。「震災という非常時でありながら日本の文化を十分に熟知し、被災者へのいたわりを忘れない部隊だった」 撤収後の空港からは、米軍が駐留していた気配が完全に消えていた。
◎空港ビル/泥とがれきと連日の格闘/100人以上で突貫作業
仙台空港ターミナルビルの1階。航空会社の受付カウンターからパネル1枚隔てたバックヤードには、津波の痕跡がまだ残っていた。分厚い窓ガラスのほとんどが割れ、扉も流されている。 かつての旅客ロビーに照明はなく、ほの暗い。時計は津波が到達した午後4時で止まる。天井からは津波が運んだ雑草が垂れ下がり、油の臭いが漂っていた。 延べ床面積4万3500平方メートルの空港ビルで、13日に運用が再開できたのは1階の2200平方メートルにすぎない。今も停電と断水が続く。 「これでもだいぶきれいになったんですよ」。仙台空港ビルの総務部長代理佐藤達也さん(50)は、空港再開にこぎ着けた1カ月間の突貫作業を振り返った。 空港ビル内に流入したがれきの撤去は、水が引くのを待って3月16日に始まった。作業に当たった人員は連日100人以上。再開前日まで泥やがれきと格闘した。 再開後、最後まで残った水道管や重油パイプが走る地下室からの汚泥除去もほぼ終わった。復旧作業は「応急」から「本格」へと切り替わった。 空港ビルは、7月までに2階搭乗口の利用を再開し、9月には完全復旧するという目標を掲げた。宮城県も、国際線と鉄路の仙台空港アクセス線の9月再開を目指す。 仙台空港の利用客は2009年度で280万1000人。空港ビル専務の大平輝雄さん(61)は「空港には復興を進める潤滑油の役割がある。一日も早くにぎわいを取り戻したい」と力を込める。 現在の空港ビルは1997年にオープンした。総務部長代理の佐藤さんは震災直後からそのビルにとどまり、取り残された利用客や近隣からの避難住民の世話、外部との連絡調整に奔走した。 仙台空港一筋に31年間、働いてきた。「今のビルは先進的なバリアフリー設備が特徴で、人に優しい施設として全国から注目を集めた」と佐藤さん。ビルへの思い入れは誰よりも深い。 「これからが本当の始まりだ」。生粋の空港マンが再起を誓った。
◎航空会社/拡声器でアナウンス荷物はリレー/不便さ人力でカバー
仙台空港ターミナルビル1階の仮設ロビーに、くぐもった拡声器の声が響く。 「12時30分発、羽田行きご利用のお客さまは出発口にお進みください」 館内アナウンスは使えない。全日空は利用客の聞き漏らしを防ぐため、拡声器で10分ごとに出発便を知らせる。 運航掲示板はマグネット式だ。利用客の荷物を送るベルトコンベヤーも動かないため、スタッフがバケツリレーの要領で運んでいる。 「まるで昭和40年代に戻ったようだ」。全日空仙台空港所長の猪木康正さん(53)は、人力で運航を支える苦労をこう言い表した。余震が続く中、万が一の事態に備え、カウンターとロビーのスタッフも震災前の2倍の8人に増やしている。 震災前の荷物受取所を受付所、受取所、搭乗待合室に3分割して使っている。スペースは手狭だ。 出発便と到着便の重複による混乱を避けるため、全日空と日本航空は、複数の飛行機が同時に駐機しないよう調整した。旅客機も定員160〜170人の中型機に限定している。 ほとんどの便で搭乗率は8割を超える。「利用客の多くはビジネス関係者。支援物資などの大きな荷物を持ったお客さまは、あまり見られない。復興が進んでいる証拠かもしれない」。利用客の様子に猪木さんは地域経済再生の息吹を感じる。 羽田線と大阪(伊丹)線の計6往復で再開した路線は、21日から計8往復に増便された。27日からは札幌、名古屋とも結ばれる。29日には夜間運航も始まる予定だ。 全日空の旅客担当佐口香奈さん(29)は、震災直後から仙台空港に避難してきたお年寄りらの世話を続けた。古里の宮城県南三陸町は津波で壊滅。ようやく両親の無事を確認できたのは、震災から1週間後だった。「発着便数が増えていくように、被災した方々も一歩ずつ日常を取り戻すはず」。佐口さんは信じている。
2011年04月28日木曜日
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