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惨劇の教え、子孫に遺訓 宮城・南三陸歌津の民家で保管

明治三陸大津波の被害を受け、高台に住居を移したことを伝える「遺書」

 明治三陸大津波の被害を教訓として残した「遺書」が、宮城県南三陸町歌津田の浦、漁業阿部義勝さん(69)宅で保管されていた。遺書は、被災し住居を高台に移した経過とともに、津波への警戒を促している。津波の歴史に詳しい東大地震研究所の都司嘉宣准教授(津波・古地震)は「庶民が子孫のために残した津波に関する文書が民家から見つかるのは、東日本では極めて珍しい」と評価する。

 1896(明治29)年に三陸沿岸を襲った明治三陸大津波で、旧歌津村は田の浦地区の被害が最も大きく、10メートルの波によって集落は壊滅した。翌年6月、義勝さんの5代前の源太郎さんが当時の被害の様子などを書き残した。
 毛筆で書かれた遺書はA3判大。雷のような音とともに津波(海嘯=かいしょう)が襲ってくる光景を「震動雷聲實ニ驚キ戸ヲ開キ海上ヲ見ルニ突然海水山ヲナシ則チ海嘯ト見 山ニ登リ翌朝諸方ヲ見ルニ数万ノ家屋流失(中略)人畜共ニ数千万海中ニ死傷セリ」と記す。
 後半では、「明治三十年」に高台に住居を構えたことを記し「如斯高燥ナル処ニ新地ヲ求メ(中略)新宅ヲ構ヒ家内一統従来ノ漁業ヲ爰ニ継續ス故ニ子孫ニ記念トシテ是レヲ謹而書ス」と、安全な土地に移り家族で漁業を継続していく決意を伝えている。
 都司准教授は文中の「豈計哉(あにはからんや)」という言葉に注目する。「意外な出来事が起きたという表現で、書いた本人自身も、津波が恐ろしい被害をもたらすという常識がなかった。だから子孫に厳重に伝えたのだろう」とみる。
 明治三陸大津波以前に東北を襲い、甚大な被害をもたらしたのは1611年の慶長三陸津波で、3000人近くが犠牲となった。都司准教授は「300年近く経過し、過去の大津波の記憶が完全に風化していたのではないか」と分析する。
 都司准教授によると、民家に残る津波伝承の記録は、江戸末期の1854年に起こった安政元年津波の文書が和歌山県や高知県で確認されている。一方、明治三陸大津波の記録は行政や寺院などの記録として残っているだけで、庶民の伝承としては珍しいという。
 「西日本は南海地震が100年に1度の周期で襲ってくる。西日本の人々はそれを経験的に知っており、危険周期を後世に伝えようとしたと考えられる」と話している。(水野良将、吉田尚史)


2011年04月27日水曜日


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