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【現場の使命感、現場の奮闘】
福島第一原発は、4月17日、終息に向けた工程表が示されましたが、まだまだ予断が許されない状況が続いています。
福島第1原発は巨大施設です。
震災前は、東電約1千人、協力会社4千人、計5千人が働いていました。
今の復旧作業でも300〜500人が日夜奮闘しています。
なかなか終息できない状況に対して、東電パッシングが起こっています。
会社としての対応、政府としての対応に問題は多々あると思われます。
現場では、取った対応策が結果としてうまくいかなかったり、予測外の現象が起こったりして、時々刻々状況が変化します。
その状況を観測し、新たな対応策を立て、小さなトライをし、検証し、決断して、対応策を祈るような気持ちで敢行します。
現場はこの地道な作業の連続です。
福島第2原発で働いている女性社員が、Mixiで実名で訴えています。
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大津波警報の中、夜中足もとの見えないまま、死ぬ覚悟で復旧作業を続けました。
第2原発では冷温停止に成功しました。
第1原発では、家族との連絡がつかない人達が大勢いますが、自分の命と引き替えに、復旧作業に当たっています。
皆を誇りに思います。
東電は凄く叩かれている・・・。
命がけの作業を続けているのも東電です。
どうか非難ばかりしないで下さい。
住民の皆様には不安な思いをさせて大変申し訳なく思っています。
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●東電で40年間原発の運転に従事し、今は地方の電力会社に勤務する男性(59)は、9月には定年退職が控えていました。
しかし、事故発生を受けて会社が募集した約20人の応援派遣に志願して、3月13日、福島に向かいました。
男性は志願したことを明らかにし家族に告げました。
「今の対応で原発の未来が変わる。使命感を持って行きたい。」
話を聞いた娘は、無事を祈ります。
「家ではあまり話さず、頼りなく感じることもある父を誇りに思い、涙が出そうになりました。
行ってほしくなかったが、もし何かあっても、自分で決めたことなら悔いはないと思いました。」
男性の妻(58)は言います。
「彼は18歳の時からずっと原発の運転をしてきました。
一番安全なものをやっているという自信があったんだと思います。
現地の人に安心を与えるために、頑張ってきて。」
●ズドン。
重い爆発音が響き渡った。
3月14日、3号機が水素爆発を起こし、原子炉建屋の上部が吹き飛びます。
協力会社の社員、Nさん(47)は、隣の2号機で電源復旧作業に当たっていました。
外へ出ると3号機は鉄の骨組みがむき出しになり、コンクリートの瓦礫が散乱、灰色の煙がもうもうと青空へ立ち上っています。
「放射線を食らうぞ。避難するんだ。」と声を上げて瓦礫の上を走ります。
作業基地となっている免震重要棟まで1キロ近く、息切れしてたどり着きます。
全員の無事を確認し、同僚4人ほどと喫煙室で「やばかった」と話す仲間を見ると、たばこを持つ手が震えていました。
Nさんは、震災発生時から東電の要請に応え、同僚十数人と原発に残りました。
「被曝の危険性があることは分かっていたが、復旧には私のように原発で18年働いてきたような者が役に立つ。そう覚悟を決めた。」
水素爆発に遭遇した翌日の15日の朝、緊急退避命令により避難しましたが、また戻ると言います。
「3号機で被爆した3人の中には私の部下もいる。
皆少ない人数で頑張っている。
むろん行かなくても誰も責めないだろうが、自分がよしとは出来ない。
仲間のために私は行く。」
●放射性物質の海への流出という深刻な事態に陥った第1原発。
津波で運ばれた土砂、水素爆発で飛び散った建屋の残骸…。
3月24日には、電気設備工事会社の社員ら3人が、作業中に被曝。作業現場では白い防護服と顔を覆う全面マスクは必須で、仲間の表情はうかがえません。
携帯する線量計のアラームはいつ鳴るのか。
放射性物質という「見えない恐怖」と戦いながら、皆黙々と復旧作業が続きます。
ある30代の男性は、水素爆発後、「娘に何かあってはいけない」と、一旦家族を連れて他県に避難しました。
だが、3号機の燃料貯蔵プールへの決死の放水作業を続ける東京消防庁の隊員らがいることを知り、考えが変わりました。
「よその土地から来て体を張っている人がいる。微力だけど力にならなくては。」
そして家族を避難先に残して単身、福島県に戻りました。
「自分たちの子供のため、被害拡大を防ぎたい。
みんなが一日でも早く事態を収めたいと、同じ方向を向いている。
こんなに使命感を持って仕事をしたことはない。」
●第1原発で保守の仕事を請け負う会社に勤めるSさん(27)も、元請けの会社から打診され、「行きます」と志願しました。
5号機の冷温保持にかかわる作業でした。
「原子炉が爆発したら終わりだが、この仕事を9年続けてきた経験から、何とかなると判断した。
中には会社員として行かざるをえないと言う人もいた。
年長の作業員は、“もう死ぬのか”と青い顔をしていた。」
「誰かがやらなきゃいかんことだからやっている。
他の専門的な仕事と職種が違うだけのことだと思う。」
●同じく協力会社から復旧作業に参加している40代の男性は、本音を交えながら話します。
「生きたくなかったけれど、断れば今後の仕事はなくなる。」
「自分達しかいないと責任感を持って志願した同僚も多く、現場には団結感があった。」
●ある下請けの工事会社では、専務や社長達が作業に名乗り出ました。
若い作業員の将来を思い、盾になる決意をしたのです。
「俺たちだって簡単なケーブルの敷設作業くらいは出来る。」
●原子炉のメーカーH社のグループ企業の会議室。第1原発で作業に当たる部門の担当者が、技術管理をする社員に詰め寄りました。
「現場で危機感を共有し、難局を乗り越えよう。」
社員の生命にかかわる任務だけに、激しい応酬がありました。
そして多くの技術系社員が現場に入りました。
●第2原発で、第1原発の復旧を支援する東電の女性社員は、本社の上司に次のようにメールを打ちます。
「実家の両親は津波に押し流され、今だ行方が分かりません。
すぐに飛んでいきたい・・・。
しかし被災者である前に、東電社員として、みんな職務を全うしようと頑張っています。私達は最後まで戦います。」
●第1原発では、原子炉内の燃料の冷却機能が失われ、その復旧作業が今も続いています。
当初自衛隊のヘリコプターによる海水注入から始まって、3月19日、東京消防庁のハイパーレスキュー部隊による炉への放水作業が行われました。命がけでした。
総括隊長のTさんは言います。
「第1原発の現場では、今まで味わうことのない恐怖感を味わいました。
普通の現場では、火災の強いところを確認して、自分達の危険を排除して突入できますが、今回は、危険な場所が目に見えない恐怖と戦わざるをえませんでした。」
「指示系統は混乱していました。指示が何度も変わり、予定より長い時間、放水を続けることになりました。」
「現場で特に大事なのは撤退の判断です。
放射線量が限度を超えそうになったら、すぐ撤退できるよう、手はずを用意しました。」
「危険な現場を支えるのは、指揮官と隊員達の信頼関係です。」
「全員、生命の危険にさらされる覚悟はあります。
命令を果たそうとする意識は強いのです。」
「東電の現場社員は、死にもの狂いで頑張っています。
我々の放水作業にも、万全の対応をしてくれました。
だからこそ我々は、立ち向かうことが出来たのです。」
3月21日、任務を終えて帰京した隊員達に、石原知事は何度も言葉を詰まらせて感謝の言葉を述べました。
隊員の一人は言います。
「あの強気の知事が、涙を流して礼を言ってくれた。
上から物を言うだけの官邸と違って、我々のことを理解してくれている。
だから現場に行けるのだ。」
ちなみに閣僚の一人が放水準備中の消防隊に対して、
「言うことを聞かないと処分するぞ」と言ったたことに対して、石原知事は官邸に乗り込んで、首相に抗議していたのでした。
●大阪市消防局も、東京消防局の活動を支援しました。
一隊が原発から20メートルの前進基地から800メートルの指揮所までサイレンを鳴らして移動中、自分達に対してお年寄り6人ほどの住民がお辞儀をしていました。
指揮者のKさん(48)は言います。
「腰を90度まで曲げて深々とお辞儀をしてくれた。
その姿を見て、絶対にお役に立って返らなければならないと思った。」
●報道では、現場の作業員は敷地内で寝泊まりし、乾燥米や缶詰など1日2食、1.5リットルのペットボトル1本という、過酷な生活環境下にあると言います。
東電社長殿。
これは本当ですか。
現場が明日も元気よく、最大限の力を発揮し活動できるよう、食事、睡眠、風呂、着替えなどの生活環境に関し、万全の整備を図ってください。
彼等を精神面でも、積極的にバックアップしてください。
石原東京都知事のように。
(資料)産経新聞、読売新聞、時事通信、日経BPなど。
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