ルポライター(沖縄県国頭郡出身) 富村順一
昭和史研究会会報 130号引用
オモニーが語る木槿さん
話は違いますが、私が高島屋の前の軒下で五年以上、雨の日も風の日も路上生活していた頃、月に二、三回私の所にホルモン焼きやキムチの漬物を持ってくるお婆ちゃんがいました。時々私が訴える話をじっと聞いていましたが、ある日のこと「実は座間味島に木槿の木を植えたい」という話がありました。「何故あなたは座間味島に木槿の木を植えたいのですか」と訊いたところ、「一年足らずであったが座間味に居りました。金木槿という友達が座間味島で戦死をしました。実は私は木槿さんと一緒にお仕事をしていました」と話されたのです。木槿と同じ釜山の出身で、座間味島に来たようです。金木槿さんとは隣近所で、朝鮮人に騙されて日本に来てくれと云われ、慰安婦にさせられたと云うことです。「木槿の家もよく知ってますが、名前と同じような木槿の木を彼女のお父さんが庭に植えていて、毎年その花は咲いてます。私はその木槿の花を見るのが辛くて、また日本にやって来ました。」
余り詳しくは語りませんでしたが、座間味島で日本兵と共に自決した金木槿さんの友であり、戦場の慰安婦でもあり、また看護婦でもあった女性でした。
朝鮮人に騙され慰安婦に その女は釜山の中学校を卒業してます。木槿さんは大正生まれで、日本人として生まれて日本人として学校に行ったそうです。そうして朝鮮の病院で見習い看護婦をやっていたのですが、同じ朝鮮人に、日本に病院の仕事があるからと騙されて日本に連れて来られたのです。強制連行されたのではありません。これはそのオモニーの話です。
そのオモニーは奥さんを亡くした韓国人の後妻になってホルモン焼き屋をしていたんです。難波にお店があったようで、一週間に一遍来てくれました。そして私が梅沢さんと相談して書いた座間味の看板を見て話しかけてきたのです。私はあんな達筆の看板は書けない。私が頼んで梅沢さんが公園で書いたんです。
私が高島屋の正面玄関の前でそんなことが出来たのは、野村秋介さんのお蔭でもあるんです。野村秋介さんが山口組の南一家のヘンジャンテさんに頼んでくれたんです。東京でも野村秋介さんが、やくざ者に妨害されないように紹介状を書いてくれ、木刀まで貰いました。
桜と木槿を座間味の島に
私はその女性と約束したことがあります。いずれ一緒に力を合わせてあの座間味の島に木槿だけではなくて、日本の桜も植えようではないか。一緒に自決した軍人は桜に譬え、木槿は韓国の花であるから、二つ一緒に並べて植えれば、天国の二人も喜ぶのではないか、というような話をしたこともあります。 だがそれから私は高島屋の前に出られなくなって、その小母さんと会うことが出来なくなりましたが、たしか大阪の生野区にいらっしゃるという風に話してました。
もし自決した慰安婦が日本人であったならば、大和撫子として誉め称えられたと思う。
今度の裁判(集団自決冤罪訴訟—中村)は元部隊長を支援するだけではありません。元部隊長の無実を明らかにすることで教科書を正しく直すことも私の目的の一つです。
また仮え朝鮮人慰安婦であっても、戦場で従軍看護婦となり、負傷した日本軍人のお供をして自決したとなれば、放っておいてはいけません。日本人として日本の教育を受け、少くとも大和魂があったからこそ、自決したと私は思ってます。私は大和魂には余り賛成しませんが、彼女はそう信じて日本軍人のお供をした訳ですから、私は日本政府だけでなく国民もその慰安婦に感謝すべきだと思います。
自決した沖縄出身の大城明さんにとっては六十年経ってもまだ戦争は終っていなかった訳です。その自決に追い込んだのは『沖縄タイムス』、沖教組、関係者が捏造した本が原因です。これでは大城明君も報われない。また野戦看護婦として自決した金木槿さんも浮ばれない。いま私は、いずれ体が回復すればあの座間味島に木槿の木と桜の木を植えたいのが願望です。そのことについて協力して下さるという方々もいらっしゃいます。私は一日も早くそれが実現出来るようにいま努力しています。彼女は日本の教育を受け、私の
想像では大和撫子の魂をもって自決し、お供したと思います。
押しかけて来た大江派
話は変りますが、今大江(健三郎)先生を支援している方々の中には私の知人が沢山います。(十一月)九日の裁判を傍聴に行き、多くの知人と会いました。それらは皆大江さんを支援する人達でした。沖縄からはフォークシンガーも来ていました。その人と私はレコードを出したこともあります。
実は去年(平成十八年)十月に私は堺市の阪南病院という精神病院に一晩泊められたことがあります。大江支援者が何度も私の家に押しかけ、私と目論となり、私はその人達を木刀で叩き、大怪我をさせたことがあります。その連中は何遍も私の家に押しかけてきて、また私の留守中に出版物や名刺などを盗んでいくために私は犯人は判かっていました。大江先生を支援するグループと知ってましたから、警察に訴えましたが、警察は対応しませんでした。仕方なく私は、今度来たらひどい目に遭わせてやろうと思って枕元に黒檀の
木刀を置いてありました。その木刀は朝日新聞で拳銃で自殺なさった野村秋介さんから頂いた木刀で、今手元にあります。
島を救った元隊長さん どのようにして話してよいか、前後区別もつかなくなり、何度も録音を取り直しましたが、自分の云いたいことを録音出来ません。 私は人間を余り信用しません。と云うのは、座間味戦記を書いた、中村先生御存知の宮城晴美さん、あの『母の遺したもの』は、梅沢さんが自決命令を出してないと断言してます。だが彼女は法廷ではその立場を覆えした。そのようなことを新聞で読んだことかあります。自分の書いたものにも責任が持てない。それは無論他人事だけではなく、私も赤松隊長について間違ったことを聞き、書いたことがあります。
これは謝罪すべきです。何れ本が書けるようになれば、本で間違ったことを訴えているのなら、また本で謝罪をしたいと思ってます。 私は嘘を云って遺族年金をごまかした人間が一方的に悪いとは思っていません。
もし梅沢隊長や赤松隊長に濡れ衣を着せなければ、今の座間味島や渡嘉敷島はあのような仕合わせな島にはなってはいません。宮城初江さんが嘘の沖縄戦記を書いたために、多くの本土の方々は宮城初江さんから捏造した沖縄戦記を聞き、その家に泊り(宮城初江さんは民宿を経営していた)、帰る時には余分な金まで置いて行ったために、宮城初江さんの三人のお子さんが大学に進学出来た訳です。また本土から平和教育のために多くの中高校生が行ってます。その語り部が宮城初江さんなんです。
亡くなられた赤松隊長には申し訳ありませんが、濡れ衣を着てくれたお蔭で島の人が仕合わせになったとお考えなされば、気も休まれるんではないかと私は思ってます。故に沖縄の座間味島、渡嘉敷島の戦後の困難を救った方が、濡れ衣を着た梅沢隊長であり、赤松隊長だと思います。そのようにお考えになれば、多少なり心が安らぐことがあるのではないでしょうか。
「沖縄出身の日本兵」のこと さて、私が沖縄戦を語る時、ただ座間と渡嘉敷ではありません。久米島でスパイ容疑で殺された朝鮮釜山出身の具仲会さんのこともあります。戦前、具仲会さんは沖縄で鍋や薬缶などを修理する鋳掛け屋さんをしていました。その方は標準語を使っていたので、日本人だと思ってました。あとで韓国人だと判りましたが、その家族七人がスパイ容疑で生後三ヶ月の赤ちゃんまで殺されました。
その日本名谷川昇、具仲会さんは三年間私の面倒を見て下さった方です。何故私が具仲会さん一家にお世話になるようになったかと申しますと、具仲会さんは鍋や薬缶、釜の修理をしながら、朝鮮飴とスクラップの物々交換をしてました。私はその朝鮮飴を全部盗んだのです。具仲会さんに捕まってしまい、盗んだ理由を話すと、「ならば家に居なさい」と云う訳で、私は具仲会さんと一緒に具さんの大八車の後を押して、三年間沖縄本島を渡り歩きました。その一家が私にとっては命の恩人であり、また具仲会さん夫婦は私にとっては三年間、お父さんでもあり、お母さんでもあった訳です。
長男坊に私より二つ歳下の一夫君がいましたが、一夫君が米軍の缶詰を持っていると山の部隊に報告したのは、一夫君の先生なんです。その先生がカズオ君が米軍と会っていたとか、様々なことを部隊に報告した訳です。 また朝鮮人一家だけでなく、二十三人の町民もスパイ容疑で殺されましたが、そのリストを作ったのは学校の先生であり、女性で初めて県会議員になった上江洲トシさんです。そのことは私は『隠された沖縄戦記』という本に書いていますが、事実であるから上江洲さんは私を訴えることは出来ません。 また島民を殺した日本兵と云えば、皆本土出身の日本兵と思うでしょうが、本土出身の日本兵は沖縄の地形はよく知らず、同じ沖縄人をスパイ容疑で殺したのは現地で入隊した防衛隊であり、護郷隊です。沖縄出身の日本兵です。だから沖縄の作家達は、沖縄戦記を書く場合には、「沖縄出身の日本兵」とは書かないのです。ただ「日本兵」と書けば、日本人は「本土出身の日本兵」と考えるでしょう。 このように沖縄入は、自分達に都合のいい沖縄戦記を書いています。
日本兵を殺した沖縄人
さて、自分のことも云わなければなりませんが、米軍が本部半島や今帰仁に上陸すると同時に、本部村と今帰仁村の村民は米軍によって全て今の名護市、もとの久志村に収容されました。故に久志村に行った人々は飢えてましたが、今帰仁や本部は無人の村となり、芋をはじめとする食べ物が沢山ありましたので、私達は久志村の山を越えて、四、五日おきに本部や今帰仁の畑に芋掘りに行ってましたが、久志村の山では南部から生き延びてきた日本の敗残兵が四、五人ずつグループをつくり、二百人近くいました。私達が歩いてい
ると、飢えた日本兵がよく「芋を下さい」と云って私達少年に頭を下げてきました。
ある日のこと、元学校の先生が、「山には日本兵がいるでしょう。その日本兵にこの手紙を渡して下さい」と私達四、五人の少年が手紙を預りました。手紙の内容はよく分かりませんでしたが、私達は本部に芋掘りに行く時に、途中の山に立て籠もっている日本兵に渡したのです。 その翌朝、午前三時頃、激しい機関銃の音がするので、夜が明けてから行ってみると、きのう私達が手紙を渡した日本兵です。後で知ったことですが、私達に手紙をことづけた元学校の先生は手紙に「食べ物はあるから村まで取りにお出で」というような内容を書いていたようです。
翌朝、自分達がきのう手紙を渡した日本兵が田圃の中で死んでいました。昭和二十一年の秋でした。沖縄は年に二度米が取れますが、二回目の稲が青々と茂ってましたので、秋だと私は思ってます。
沖縄人は物欲しさに、山に隠れている日本兵をおびき寄せ、米軍に狙い撃ちさせ、そのご褒美に食べ物を貰った人達も沢山います。私もその一人です。だがそのような沖縄戦記を書く人は沖縄には居ません。だが私は『沖縄戦語り歩き』という本に書いてます。私が一番今でも悲しい思いをしているのは、四、五十人の村人が大きな壕に避難してました。一番奥には学校の先生や村の有志達が一番安全な所に坐り、子供達やお年寄りは弾除けのように壕の入口に坐っている訳です。そのようにして犠牲になった子供やお年寄りが沢山
います。
また或る日のこと、元学校の先生が、或いは村の有志が、私達十二、三歳の少年達に「喉が乾いたので砂糖黍を取って来い」と云ったので、私達は三人で砂糖黍を取りに村きました。その時に二人の少年は、米軍によって艦砲射撃で殺されましたが、それがきっかけで、私は村人の壕に帰らず、一人で居るハンセン氏病のお爺さんと沖縄戦を生き延びたのです。
戦後四、五年の沖縄の現状は、今の北朝鮮と同じだったのではないかと私は思ってます。終戦後、金は通用しません。全ての食べ物は米軍からの無償配給です。故に公平に分配すべきですが、この分配する係りになったのが元学校の先生や村の偉い方々です。その人達が他の一般の人達の何十倍も横取りして、飢えた人達は蘇鉄を食い、命を落とした人も沢山居ます。中毒死する蘇鉄も、食える蘇鉄もありますが、その見分けはつきませんでした。 故に人間は、いくら知識や知恵があっても、飢えた時には狼になると思います。
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