「批判」というのは、英語の「Critical」の訳語です。
で、「Critical thinking」が「批判的思考」と訳される。
「Critical」は、批判とか評論とかに訳され、たとえば「a critical essay」といえば、評論のことだし、「a critical reader」といえば批評力のある読者となります。
けれど、英語圏における語感としては、たとえば
He's critical of what I say.
といえば、日本語に訳せば「奴は俺の言ってることに難くせをつけやがる」的な意味になる。
つまり、「critical」は、批判とか評論とかという意味を持つのと同じくらい、ナンクセとか悪口という語感のある言葉でもあるといえます。
つまり、単に「critical」といえば、悪口や難くせと受け取られても仕方がなく、逆にいえば「critical」が健全な批判であるためには、そこに論理的客観性が求められることになる。
ところが日本語では、批判と悪口雑言では、まるで意味合いが違います。
そして、最近の日本では、単なる悪口やわがままさえも、批判だといえば正当な主張であるかのように「みせかける」ことが常態化しつつある。
まあ、こう申し上げても、ピンと来ないかもしれないので、一例をあげます。
さあこれからみんなで田植えをするぞ、というときに、そのメンバーの中の誰か〜仮にA君とします〜が、田植えの仕事の進め方について、あーでもない、こーでもないと逐一難くせをつけたとします。
リーダーもみんなも、あーだこーだ言う前に、まず田植えをしちゃわなくちゃいけないから、ついに怒って、
「うるさいっ!文句を言うなら、田植えが終わってからにしろっ!」と言う。
これはあたりまえのことです。
まずは田植えは時期が決まっているし、田んぼの順番もある。
どんどん片づけてしまわなければ、今年の田植えの時期を逸してしまう。
ところが叱られたA君は、
「何を言うのですか! 私が言っているのは文句ではありません。批判をしているだけです。 自分はいい作物を作りたいのです。 それを文句を言うなというのは論理のすり替えであり、言論封殺です。 自分は自分の考えで動きます。 誰からも命令されるいわれはない。 そもそもこのメンバーの中の誰にも働けと命令する権利などないはずだ。 なにに『うるさいっ!』などと言うのは、高圧的かつ横暴です。許せません」などとやる。
このA君の言葉は、形を変えて、いまや日本国中、ありとあらゆるところに蔓延しています。
昔ならただの文句たれが、いまではあたかも正当な批判としてもてはやされる。
なんといっても批判家(評論家)は、それ自体が商売にさえなる。
ところで、A君の、いっけんもっともらしい主張は、実は「個人主義」が背景になっています。
集団よりも個人の主義主張が優先するという考え方です。
田植えは、みんなでやらなくちゃいけない。
共同作業である以上、個々にはそれぞれいろいろな意見や考え方、やり方、方法の違いはあるかもしれないけれど、とにもかくにもみんなでやる、と決めたのなら、まずはみんなでやる。
これは「個」よりも「みんな=集団」を優先する思考です。
「みんな」ということが優先する社会ならば、A君の主張は「まあ、言いたいことはわかった。とりあえず、先に田植えをしようぜ」で、A君も納得するし、とにもかくにも、みんなで行うことが先に来る。
ところが個人主義に基づく批判的思考が優先される社会となると、A君の主張こそが正論であり、正義であり、A君は「正しいこと」を言っているのだから、彼は優秀かつ有能な人材ということになる。
けれど、ここが大事なことなのだけれど、社会というのは、会社でも団体でも、すべて人と人とのつながりで動いているし、ひとりではできないことも、みんなで力を合わせれば、できる。
ひとりひとりには、それぞれいろいろな思いがあったとしても、まずは「みんな」でやることを優先する。それが世の中というものです。
実は、批判的思考を是とするという考え方は、戦後日本に蔓延した考え方です。
批判の要素は、客観的な情報把握とその分析力にあり、かつまた言葉の意味をしっかり吟味し伝えられる情報の伝達力を必要とする。
そして健全な批判は、客観性を持ち、正当なものとして是認されなければならない、とされる。
たしかに、学者さんなどが帰納法的に物事を客体化し、理論と証拠を積み上げて物事を検証し、理論体系としていくという行為は、これは正当なものといえます。
けれどもそれは、客観的かつ冷静な「検証」です。単なる「批判」ではない。
けれど「批判」=健全なもの、という風潮が戦後日本に蔓延することで、何を言っても、どんなに悪口を言っても、それがみんなの行いを邪魔立てするものであったとしても、個人が「批判」を口にすることは、権利であり、自由であり、正しい行為であるとまでしてしまったのは、戦後日本のきわめて特殊な事例であるといえると思います。
上の例のA君は、昔なら彼の言は、「屁理屈」とされ、それが郷中のような青年組織なら、組織の幹部や先輩から、田植えの邪魔をする者は許さん、問答無用とばかり、鉄拳制裁をくらった。
そりゃそうです。
みんなでひとつのことをしようというときに、それをみんなと一緒にできない者には、拳骨を食らわせるしかない。
そうやって鍛えられた日本人は、集団のために、みんなのために、ひいては世のため人のために尽くして生きるということを、自己のあたりまえの行動としていくことができた。
それが日本人の日本人たる特徴でもあった。
けれど、現代日本のように「みんな」より「個人」が優先するという思考のもとでは、みんなのために尽くすという行為は、批判者からの格好の標的となるだけです。
なぜなら、何かをすれば必ず何かが犠牲になる。
その犠牲をネタにして批判をすれば、行動する者にはいくらでも批判ができてしまうからです。
批判主義というのは、個人主義に基づく一種のイデオロギーです。
けれど、大切なことは批判ではない。
批判など、いくらやってもなんのタシにもならない。
個人よりも集団、批判よりも信頼が大切なのです。
批判するヒマがあったら、自分が世の中にいかに誠意を尽くすかを考えた方がいい。
いま、米国発で、世界的に素晴らしいと大絶賛されているもののひとつに、米国のゴヴィー博士の「7つの習慣」というものがあります。
そこで説かれていることは、自己の個性を発揮するということではなく、他人との信頼関係の構築が大事だ、ということです。
そして他人との信頼関係を築くことで、互いの持っている能力の相乗効果が発揮され、一人ではできないもっと大きな成功を得ることができると説く。
けれどこれって、日本に古くからある共存共栄の考え方です。
ここで申し上げているのは、たとえば菅内閣の批判をシテハイケナイとかそういうことではありません。
菅内閣の行状をきちんと検証し、問題があれば指摘する。
倒閣のために、必要な行動をとる。
それらの行動には、ボクも大賛成ですし、ボク自身もそのように行動しています。
要するに、批判が大事なのではなくて、みんなのために自分で何ができるかが大事だと申し上げています。
日本は、いま、行き詰まりの状況にあります。
困った時は原点に帰れ。
私たちは、戦後生まれ、それが普通と思っていたいろいろな思想や考え方、行動様式について、はたしてそれが本当に「良いこと」といえるのか。
もういちど、戦前の日本を学びながら考え、新たな日本の構築のために一歩を踏み出すべき時にきていると思います。
すくなくとも、批判ばかりしていても、何も前にすすまない。
困った時は、伝統に学び、明日を創造する。
伝統と創造、それが保守であると思っています。
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それを感じさせない批判は、違和感と嫌悪感を感じさせます。
人間味のない、知識のひけらかしは、誰も感動しないし、心は動かされません。
まずは家庭から職場からですね♪
私は屁理屈の前に行動と、家族、親戚の相互扶助と強い絆を徹底させています。
大家族の農家が、日本人としての良いお手本だと思います!!
たとえば馬鹿政府が定見もなく、無駄な会議と委員会に貴重な時日を費やして犠牲者・被災者の救済を後回しにするのにあきれて批判の声を上げても
「政府の邪魔をするような者は許さん、問答無用」
とばかりの鉄拳制裁に値するんですかね?
無論、そんなつもりで言ったわけでないことは分かりますが、批判するより協力しろ!と強要するだけでは現極左政権のやってることとの違いが分かりません。
田植えの譬えだと、作業の日程も工程も定まっていて、それに批判を加えて作業の進行を邪魔されてはたしかに迷惑です。ところが水資源の枯渇とか放射能汚染とかの懸念があるのに、いっぺん決まったことだから、作業するやつは四の五の言わずに全体に従え!というなら、そっちの方が遙かに迷惑です。
そもそも日本社会で鮮人ごときがのさばるようになったのも、日本人の等質性と集団同調圧力が高すぎて有効な批判が内側から出てこず、それゆえ日本社会にとりこまれた異質な局外者としての鮮人が発する屁理屈が日本的標準を見直す契機になってしまったという事情があったのをお忘れですか?
健全な批判は生体にとっての痛みのようなものです。痛みが出てるのに我慢を重ねたり、痛み止めでごまかすようでは、いずれ生体そのものがダウンします。痛みをたえなきゃいけないときはありますが、痛みも批判も、鉄拳制裁で黙らすことはできません。
最近他ブログで論争した沖縄県人の相手がまさにこの「A君」タイプでしたね。
彼の主張は
「普天間基地の県外移設は絶対に要求するが、かてな私は反日反米ではない。海兵隊の航空部門を県外に移設しても海兵隊の運用機能は損なわれない。不足する航空機能は空軍や陸軍航空部隊で補完が可能。沖縄じゃなく本土に海兵隊があっても同じような震災支援が出来るはずだ、だから海兵隊航空部隊は関西空港や九州に移設すべき。海兵隊が沖縄に駐留していなくても、仮に中国が石垣を占拠しようとする場合でも宣戦布告を先にしてから攻めてくる(プッ!)、航空・海上自衛隊や海兵隊を除く米軍は上陸する前に中国軍の動きを察知することができるので阻止することは可能だ。海兵隊が真っ先に上陸して阻止する必要はない。」
などと屁理屈をこねまわしています。海兵隊の機能分散は不可能だとのこちらの指摘に対してその取り巻きは
「日本政府のどこのだれがそんな頓珍漢な主張をしているんだ、具体的に示せやオラァ!「基地ガァー」って子どもの秘密基地でもあるまいに、前線の固定基地をありがたがるのは、大艦巨砲をありがたがった敗戦前の時代錯誤の爺さんたちと同じですよ。自分の頭で考えなさい。」
ときたもんです。
もうちょっとつっこんだ議論がしたかったのですが、まじめに対応することがアフォらしくなってしまって止めにしました。
http://www.yomiuri.co.jp/election/local/2011/news1/20110425-OYT1T00830.htm
詳細は【虚空天井】情報センター街をカッチとね
http://www.aixin.jp/gktj/sjh.cgi
日本人社会の破壊を進める売国民主党の大敗北をも隠蔽する
反日売国テレビ局・マスコミの報道を警戒して欺瞞的な印象操作
を厳しく糾弾していこう。
【新党勝手連の掲示板】最新版
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http://matsudahideki.blog.players.tv/article/44494413.html
【某データベースより抜粋】 3月11日、地震当日のデータがことごと
く隠蔽されている。
このデータが示す状況は福島第一原発1号炉の水位の低下は地震
発生の前から始まっていた。東北地方太平洋沖地震の核心を隠蔽
するベールが剥がれてきた。原子炉が被災直後に核テロ対策に経
験豊富な米軍が提供する冷却剤を拒否した民主党韓総理に対する
疑惑、一向に実施されない震災復興対策や会議の乱立は情報を混
乱・霍乱する為の工作活動の可能性が濃厚に成ってきた。
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