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あの時。何を、どうすれば… 石巻・大川小、児童74人死亡・不明
 | 津波に襲われ、多くの児童や教職員が犠牲になった大川小周辺。中央左が校舎・体育館、右上が新北上大橋。津波を避けようと、子どもたちは学校裏手の山裾を歩いて大橋のたもとを目指した=8日、石巻市釜谷 |
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東日本大震災で、石巻市の大川小は全校児童108人のうち65人が死亡し、9人が行方不明(22日現在)になった。大津波が引き起こした過酷な現実が、親たちに重くのしかかる。教職員も10人が死亡・行方不明に。学校であの時、何が起きていたのか。備えは十分だったのか。(佐藤崇、成田浩二)
3月11日午後2時46分、5年生の教室では帰りの会が終わろうとしていた。「さようなら」。みんなで声を合わせた瞬間、強い揺れが襲った。急いで机の下に隠れ、全員が校庭に避難した。 男子児童の母親(40)は、下校を待つため校庭近くに車を止めていた。携帯電話に緊急地震速報のメールが来た。車の外に出ると、立っていられないほどの揺れ。子どもたちが校舎を出てくるのを見て校庭に入った。点呼が始まる。子どもたちの表情は硬かった。 近所のおばあさんが避難してきた。暖を取るため火をたこうとしていた先生の姿も覚えている。 「津波だっつうど。なんぼでも高い所に逃げろ」。しばらくして校庭にいた年配の男性の声が聞こえた。母親は「山育ちの自分は、余震で建物が崩れることしか頭にない。誰も逃げようともせず、男性の話も立ち話程度にしか感じなかった」と振り返る。 それでも「高い所」という言葉は耳に残った。子どもを連れて学校を離れ、津波に追い立てられるように車で峠方面に逃げた。 別の母親(37)が車で学校に着いたのは午後3時15分ごろだった。「しばらくは校庭にいた方が安全。道路が壊れているかもしれない」。教師はそう助言したが「とにかく自宅に帰ろう」と子ども2人を連れ、5分ほどで学校を後にした。 大津波警報が発令されたのは地震の3分後。市教委によると、校庭にいる間、学校は避難先を検討していた。学校にいた教職員11人のうち唯一、助かった男性教諭らからの聞き取りを基にした説明だ。 学校は、裏山は倒木の危険性、校舎は余震で物が落下する恐れがあると判断したという。最終的に目指したのが、約200メートルほど離れた新北上大橋のたもとの交差点。校庭より6、7メートル高く「三角地帯」と呼ばれる場所だった。 5年生の男子児童(11)は、1、2年生が手をつないで歩いていたのを記憶している。前方の大橋付近で水しぶきが上がり、波が向かってきた。みんな逃げようとしたが、一気に水をかぶった。 津波に流されながら必死にすぐそばの山に上がろうとした。雪のためか、周りの友達も足が滑ってなかなか上がれない。「もう駄目だ」。生えていた木につかまると、何かが目にぶつかった。気が付くと斜面に体半分が埋まっていた。同級生が引きずり出してくれた。 男子児童と同級生は、津波が襲う直前まで三角地帯で車両の誘導に当たり、山に逃げ込んだ市職員の佐藤幸徳さん(51)に保護された。 住民ら16人でたき火を囲み、明け方を待った。子どもは中学生1人を含め4人。「寝たら死ぬぞ」。大人は声をかけたが、疲れた子どもたちは寒さに震えながら、何度となく短い眠りに落ちた。
2011年04月24日日曜日
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