2008年10月
大恐慌をめぐる両者の論争については第2章で取り上げたが、これは草稿ではもっとテクニカルに書いていたのを縮めたものだ。それをサポートページで補足した。タレブのいう通り、現在のBlack Swan状況を理解するのに新古典派やケインジアンは何の役にもたたないが、自由経済の根拠を個人の無知に求めたハイエクと、確率を将来への確信と考えたケインズの原典からは多くを学ぶことができる。
今週のEconomist誌は、今回の問題が「資本主義の全面的危機だ」といった批判に反論し、派生証券の特殊性を規制当局が十分理解していなかったことが原因だとのべている。私の感想もまじえてメモしておく:
マルクスをもじっていえば、いま投資銀行は鎖以外に得るものをもたない。世界中で「新自由主義」が終わったという大合唱が始まっているが、投資銀行が規制されていなかったというのは神話である。それは四半期ごとにSECに提出される膨大なファイルを見ただけでも明らかだ。問題は、その規制が今回のような事態を想定していなかったことであり、これは市場の失敗というより規制の失敗である。大規模な危機は、だれも(特に政府が)気づかなかった基本的な変化によって生じる。1930年代に起こった預金者のパニックがそれまでの予想を超えたものだったように、今回のパニックの一因は、直接金融と呼ばれているものがもはや銀行預金と変わらない情報の非対称性を抱えており、その処理が銀行の破綻と同じく膨大なrenegotiationを引き起こすことに対して、規制当局の警戒が足りなかったことにある。
大恐慌のさなかの1933年に、グラス=スティーガル法が成立した。これは銀行が証券業を兼営していたことが株式の暴落が銀行の破綻をまねいたという認識にもとづいて、両者を分離するものだった。銀行のリスクは預金者に転嫁できず、信用創造のネットワークが切れると市場が崩壊するが、証券のリスクは自己責任でいいからである。証券会社を「投資銀行」とよぶまぎらわしい名称も、このときできた。
金融業界を大きく変えたのは、1970年代の変動為替相場への移行だった。為替リスクは非常に大きいので、これをヘッジするため証券化して取引する先物やオプションの市場ができ、ブラック=ショールズ公式によって経済学がその理論的基礎を与えた。また変動相場制にともなって資本の自由化が進み、先進国では1日に数十兆ドルの資金が国境を越えて電子決済されるようになった。ここでも大きなリスクが発生するため、金利スワップなどリスクを分散する市場が発展した。
金融技術革新の最後に登場したのがCDSだった。その残高は、2001年に初めて取引されてから、わずか7年で62兆ドル(想定元本)にも達した。こうした金融商品の特徴は、利鞘の部分を決済するだけでその数十倍の原資産を取引できることだ。したがって原資産の市場が安定して値動きが少ないときは、大きな利鞘を求めてハイリスク資産に高いレバレッジをかけた投資が集中する。しかし相場が理論価格から大きく乖離すると、損失も何十倍にもふくらむ。
こうした金融技術の発達は、銀行と証券の区別を事実上なくしてしまった。預金も含めてすべての金融商品はオプションの一種と考えることができるので、両者を区別する意味はない。金融技術革新の先頭に立っていたイギリスでは、1986年に「ビッグバン」によって銀行と証券の規制を統合し、1997年にFSAがイングランド銀行の銀行規制機能を吸収して統一的な規制機関になった。アメリカも1999年にグラス=スティーガル法を廃止した。
だが依然として、多数の小口預金者を債権者とする(したがって破産処理できない)間接金融と、自己責任を負う投資家を仲介するだけの直接金融を区別する発想が当局に残っている。リーマン・ブラザーズの破産を米政府が放置した判断は、こうした伝統的な金融規制の発想にもとづくものだった(これは1997年に山一証券に対して、大蔵省の長野証券局長が「仲介業者は自己責任で処理する」とのべたのと同じだ)。
しかし銀行が証券会社に似てきたように、証券会社も銀行に似てきたのだ。リーマンの保有していた派生証券には全世界の膨大な投資家がtight-couplingされ、高いレバレッジで事実上の信用創造が行なわれている。投資家のほとんどは複雑な金融商品の中身を知らないので、破産処理すると1930年代と同じような取り付けが全世界で発生した。信用創造している金融機関は全預金者が一挙に引き出すと必ずつぶれるので、パニックはself-fulfillingなナッシュ均衡になってしまう。
最大のリスクをつくりだしたのは、投資銀行ではなく政治家である。米議会は1977年に「地域再投資法」を成立させ、低所得層の住宅保有を促進するためファニー・メイとフレディ・マックをつくった。これが過大なリスクをとって損失を政府に保証させるモラル・ハザードを広範に引き起こし、2000年代のグリーンスパンによる過剰な金融緩和が住宅バブルを生み出したのである。
この意味で、日本政府が米政府の「教師」としてふるまえる余地はあまりない。日本のバブル崩壊後の金融危機はアメリカのS&Lと同じように貸借関係は単純で、無能な大蔵官僚が2~3年ですむ処理を先送りして、10年以上に拡大してしまっただけだからである。しかし米議会事務局の報告書もいうように、重要なのは透明性とスピードだという日本の教訓は米政府も認識している。
結果論だが、今ごろ7000億ドルも政府資金を投入するぐらいなら、リーマンを政府の補助金つきでバークレイズに買収させておけば、納税者の正味の負担は数十億ドルですんだかもしれない。一部の専門家のいうように、アメリカの裁判所による破産処理は迅速で政府の介入より効率的だ(今回のリーマンの処理がそれを示した)としても、bankruptcyという言葉に人々は反応するのだ。逆の意味で感情的な反応を引き起こすbailoutという言葉もやめたほうがいい。
先日の記事がYahooニュースのヘッドラインになって、きのうは10万PVを超えたので、法的な問題を補足しておく(これは弁護士と協議した上の結論である)。
デジコン委員会はB-CASについて14日、現行方式以外に「チップ方式」、「ソフトウェア方式」の3つを具体案としてあげた。その主眼はコピー制御なので、大規模な顧客管理を行なう現行方式は実際には選択肢ではない(それでは見直しにならない)。いずれにせよ無用で高コストのB-CASカードを廃止し、B-CAS社を解散することは既定方針である。
争点はその先だ。ダビング10を法的に強制するという選択肢は放棄されたものの、放送波を暗号化し、その暗号鍵とダビング10を抱き合わせ(拘束条件付取引)にするという方式が有力らしい。しかしこれは前の記事でも書いたように、違法(独禁法19条一般指定13項)である。同様のbroadcast flagは、アメリカで違法とされて廃止された。
世界的にみても、無料放送にコピー制御をかけている放送局はない。BBCのIP配信iPlayerは視聴を7日間に限るDRMをかけているが、コピーフリーだ。これがiPlayerが大ヒットした原因である。もちろんBBCも、放送にはまったくDRMをかけていない。これはすべての契約者に広く無条件で放送するというBBCの根幹にかかわるからだ。同じ意味で、NHKがコピー制御をかけることは放送法に違反する。第9条11項ではこう定めている:
根本的な問題は、誰のために見直すのかということだ。ダビング10のおかげで地デジはアナログ放送より不便で、DVDレコーダーの売り上げも落ちている。これが非関税障壁になっているため、外資も参入できない。北米のトップメーカーVizioの液晶テレビは、32インチで550ドルとブラウン管なみの価格だが、日本では買えない。これは消費者の犠牲のもとに(あるかどうか疑わしい)権利者の利益を守るものだ。福田内閣で出された消費者重視の方針を、麻生内閣が継承するのかどうかが問われている。
次の通常国会に、総務省の要求している「地デジ移行対策費」2000億円が提出されるが、今のままでは2011年7月に5000万台以上のテレビが粗大ゴミになり、高齢者や低所得者の「ライフライン」となっている放送が強制終了される。これは国会で、「消えた年金5000万人」並みの騒動になることは確実だ。まして地デジをわざわざ不便にして移行を阻害するダビング10を総務省が省令で定めたら、社保庁のように民主党にいじめ抜かれるだろう(当ブログを読んでいる民主党議員は多い)。
NHKはドタバタの末、受信料を4年後に月額150円値下げするという方針を表明したが、こんなものが「視聴者への還元」だとは誰も思っていない。BBCのようにコピーフリーですべての番組を放送し、国民負担でつくった番組を無料でIP配信して国民の共有財産にすることが真の社会還元である。ダビング10を続けるという決定が出たら、消費者がNHKを放送法違反で告訴することも選択肢の一つだ。デジコン委員会の結論を、公取委もアメリカ大使館も見守っていることを自覚した方がいい。
追記:英文ブログにも書いた。
デジコン委員会はB-CASについて14日、現行方式以外に「チップ方式」、「ソフトウェア方式」の3つを具体案としてあげた。その主眼はコピー制御なので、大規模な顧客管理を行なう現行方式は実際には選択肢ではない(それでは見直しにならない)。いずれにせよ無用で高コストのB-CASカードを廃止し、B-CAS社を解散することは既定方針である。
争点はその先だ。ダビング10を法的に強制するという選択肢は放棄されたものの、放送波を暗号化し、その暗号鍵とダビング10を抱き合わせ(拘束条件付取引)にするという方式が有力らしい。しかしこれは前の記事でも書いたように、違法(独禁法19条一般指定13項)である。同様のbroadcast flagは、アメリカで違法とされて廃止された。
世界的にみても、無料放送にコピー制御をかけている放送局はない。BBCのIP配信iPlayerは視聴を7日間に限るDRMをかけているが、コピーフリーだ。これがiPlayerが大ヒットした原因である。もちろんBBCも、放送にはまったくDRMをかけていない。これはすべての契約者に広く無条件で放送するというBBCの根幹にかかわるからだ。同じ意味で、NHKがコピー制御をかけることは放送法に違反する。第9条11項ではこう定めている:
協会は、放送受信用機器若しくはその真空管又は部品を認定し、放送受信用機器の修理業者を指定し、その他いかなる名目であつても、無線用機器の製造業者、販売業者及び修理業者の行う業務を規律し、又はこれに干渉するような行為をしてはならない。ダビング10以外には、EPNのようにコピーフリーにしてネット配信などを不可能にする方式と、フィンガープリントのように違法コンテンツを事後的に検出する方式があるが、これらも同じ意味で放送法違反である。数百万人が無料で見る放送の海賊版を有料で配信することはほとんど不可能であり、すべての放送にDRMをかける意味はない。
根本的な問題は、誰のために見直すのかということだ。ダビング10のおかげで地デジはアナログ放送より不便で、DVDレコーダーの売り上げも落ちている。これが非関税障壁になっているため、外資も参入できない。北米のトップメーカーVizioの液晶テレビは、32インチで550ドルとブラウン管なみの価格だが、日本では買えない。これは消費者の犠牲のもとに(あるかどうか疑わしい)権利者の利益を守るものだ。福田内閣で出された消費者重視の方針を、麻生内閣が継承するのかどうかが問われている。
次の通常国会に、総務省の要求している「地デジ移行対策費」2000億円が提出されるが、今のままでは2011年7月に5000万台以上のテレビが粗大ゴミになり、高齢者や低所得者の「ライフライン」となっている放送が強制終了される。これは国会で、「消えた年金5000万人」並みの騒動になることは確実だ。まして地デジをわざわざ不便にして移行を阻害するダビング10を総務省が省令で定めたら、社保庁のように民主党にいじめ抜かれるだろう(当ブログを読んでいる民主党議員は多い)。
NHKはドタバタの末、受信料を4年後に月額150円値下げするという方針を表明したが、こんなものが「視聴者への還元」だとは誰も思っていない。BBCのようにコピーフリーですべての番組を放送し、国民負担でつくった番組を無料でIP配信して国民の共有財産にすることが真の社会還元である。ダビング10を続けるという決定が出たら、消費者がNHKを放送法違反で告訴することも選択肢の一つだ。デジコン委員会の結論を、公取委もアメリカ大使館も見守っていることを自覚した方がいい。
追記:英文ブログにも書いた。
ブッシュ政権は10月12日、PRO-IP法を成立させた。これによればホワイトハウスに「知的財産取締長官」(Intellectual Property Enforcement Coordinator)が設置され、知的財産権に関連する政策を統括する。こうした規制強化に反対するレッシグの新著"Remix"の抜粋がWSJに掲載されている。
13ヶ月の子供がプリンスの"Let's Go Crazy"にあわせて踊るのを撮影した29秒のビデオを母親がYouTubeにアップロードしたら、ユニバーサルが削除を要求した。母親の求めに応じてEFFは「これはフェアユースだ」というcounter-noticeを出したが、ユニバーサルの弁護士は「15万ドルの損害賠償を請求する」と主張している。ビデオはまだサイトにある(音声も聞ける)。
追記:この訴訟はEFF勝訴に終わったようだ。
13ヶ月の子供がプリンスの"Let's Go Crazy"にあわせて踊るのを撮影した29秒のビデオを母親がYouTubeにアップロードしたら、ユニバーサルが削除を要求した。母親の求めに応じてEFFは「これはフェアユースだ」というcounter-noticeを出したが、ユニバーサルの弁護士は「15万ドルの損害賠償を請求する」と主張している。ビデオはまだサイトにある(音声も聞ける)。
追記:この訴訟はEFF勝訴に終わったようだ。
その具体策が本書にもいろいろあげられているが、ここでは周波数オークションだけを取り上げる。著者は「地デジ移行にともなって空く180MHzを周波数オークションにかければ、諸外国の例から5~6兆円の国庫収入が上がる」と書いているが、これはちょっと大ざっぱだ。もう少し細かく試算してみよう。
180MHzあくというのは、私もASCII.jpに書いたホワイトスペースのことだ。中継局が重複している部分など安全を見込んでも、関東で28チャンネル=168MHzあいている(地方では200MHz以上あいている)。すでに通信事業者などに開放することが決まっている710~770MHzに60MHz、民放連もあいていることを認めた800MHz帯に36MHzあるので、合計264MHzあいている(*)。1MHzあたりの単価は、鬼木甫氏の試算によれば131億円なので、131×264=約3兆4500億円。消費税1.4%に相当する。
これは国庫収入になるばかりでなく、地デジの移行費用にも使える。さらに本質的なメリットは、新規参入で新しいビジネスを創造し、競争によって無線通信サービスの料金を引き下げる効果だ。経済を活性化して財政再建にも役立つという一石二鳥の政策である。経産省が検討しているほか、民主党にも関心をもつ議員がいるので、来年の地デジ移行対策2000億円とワンセットで、周波数オークションを考えてはどうだろうか。ホワイトスペースは3年先だが、800MHz帯は今すぐ開放でき、これだけで4700億円になるので、地デジ移行費は十分まかなえる。
(*)通信事業者の指摘を受けて修正した。710~806MHzを連続して開放すれば96MHzあくので、工夫すれば20MHz×5スロット取れる。これを一挙にオークションにかけることが効率的だ。財務省も前向きらしいので、オークションを総務省の地デジ移行対策2000億円を認める条件としてはどうだろうか。
前の記事のコメント欄のLadbrokesのオッズにもあるように、本来の最有力候補はFamaだったと思うが、彼は不幸なことに効率的市場仮説の元祖として知られている。この状況で「市場はすべての情報を織り込んでいる」という理論に賞を与えたら、1997年に受賞したMerton-Scholesの創立したLTCMが翌年、破綻したときのような批判を浴びるだろう。このランキングの上位にいるBarroやSargentは新しい古典派と呼ばれるウルトラ合理主義者なので、受賞記者会見で「政府は何もするな」などと言いかねない。
したがって選考委員会は「市場メカニズムだけにまかせていてはだめだ」と主張する経済学者をさがしたと思われる。スティグリッツがまだもらっていなければ確実にもらっただろうが、彼はすでに受賞した・・・と消去法で考えると、このリストの中ではバグワティとクルーグマンが残る。これは共同受賞にしてもよかったと思うが、なぜクルーグマンの単独受賞になったのかは謎だ。国際資本市場の不安定性をかねてから警告していたのは、バグワティのほうだからである(こういう片手落ちはノーベル賞によくある)。
日本では、もっぱら「インフレ目標」が話題になっているが、これは授賞対象ではなく、クルーグマンがまじめに提案したものでもない。官僚やメディアがこういうどマクロ経済学にだまされる原因は、学部レベルの教科書にIS-LMしかないためだと思う。大学院の教科書にはIS-LMはないのだが、その間をつなぐ中間レベルの教科書がない。本書は、そうした数少ない教科書で、Romerのように網羅的ではないが、DSGE(Dynamic Stochastic General Equibrium)と呼ばれる新しい理論の骨格を簡潔に解説している。
本書の中心はNew IS-LMモデルと呼ばれる期待を入れた動学マクロ理論である(この名称は学生が恐れないための工夫で、学部の教科書のIS-LMとは無関係)。実はクルーグマンのモデルもこの一種なので、著者はそれを定式化しなおして検討する。それによればクルーグマンの結論は
将来のGDPギャップが十分にプラスだという期待があれば、現在のインフレ率をプラスにすることができる。したがって流動性の罠にはまっており、現在の政策金利を動かす余地がない中央銀行でも、民間主体の期待の効果を利用することで金融緩和効果を引き出すことができる。(p.210)と要約できるが、この命題は成り立たない。その理由は簡単にいうと、民間主体がこのようなforward-lookingな合理的期待を抱いているのであれば、中央銀行が何もしなくてもそういう長期均衡が達成される。逆にそういう期待を抱いていなければ、ゼロ金利のもとでは貨幣と債券は同等なので、中央銀行がいくら通貨を供給しても期待を変えることはできないからだ(これは彼自身が明言している)。つまりクルーグマンのモデルは、合理的期待を仮定することによって結論を先取りしているのである。
もう一つの問題点は、クルーグマンのモデルでは均衡実質利子率(自然利子率)がマイナスになると外生的に仮定していることだ。この理由はよくわからないが、彼の説明では日本の少子化が原因らしく、これ自体は動かせないものとされている。しかし著者は、このような仮定は日本経済の最大の問題を捨象するもので、金融政策の参考にはならないと批判する。マイナス金利は、金融機関の不良債権などによって内生的に生じた現象であり、これを変えないかぎり問題は解決しない。
著者は日銀の職員なのでBoJ Viewのバイアスがあると思うが、これが現在の金融の専門家の大方のコンセンサスである。デフレは結果であって原因ではないので、「リフレ」の効果はあるとしても一時的で、期待が(何かの理由で)変化するまでジャブジャブの金融緩和を続けなければならない。事実クルーグマンは、4%のインフレを15年間続けるという約束を日銀がするよう提案している。要するに、これは手の込んだ冗談なのだ。
本書は法学部卒の人にはしんどいと思うが、霞ヶ関の人々には眺めるだけでいいから読んでみてほしい。学部レベルのIS-LMとは違って、期待を入れた動学モデルでは、裁量的な政府の介入はきかないのである。
今年も当ブログの予想ははずれ、受賞者はノーマークのポール・クルーグマン。ノーベル財団の授賞理由を読んでも、よくわからない。"International Trade and Economic Geography"というのは、アメリカが日米半導体協定を求めてきたとき、彼らの理論武装に使われた「戦略的貿易政策」というやつで、いわゆる収穫逓増があると大きいものが大きくなるので、日本の半導体を規制しろというものだ。今となってはナンセンスなことが明らかな理論で、その昔ロボトミーに授賞されたようなものだろう。
クルーグマンの政治とのかかわりは、1982年にレーガン政権のスタッフになったことから始まる。そのころは、いわゆるレーガノミックスにそって自由貿易を推進していたのだが、クリントン政権では大統領経済諮問委員会の委員長候補とされ、本人もあからさまに「ポストに興味がある」と語ったが、結局ポストにはつけなかった。この戦略的貿易政策は、そのとき猟官運動のために書いたもので、国際経済学の常識である自由貿易を否定する理論だ。
ところがポストが得られないことを知ると、クルーグマンは1994年に「競争力という危険な幻想」という論文を発表して、自由貿易主義者に変身する。その後は、エンロンの顧問をつとめて笑いものになったり、ブッシュ政権を罵倒するコラムを毎週書いて、Economist誌に「片手落ちの経済学者」と皮肉られたりした。
要するに、その時その時で理屈を変えて世の中に媚びてきたわけで、昨年のHurwiczとは逆の、経済学者の卑しい部分を代表する人物だ。経済学がいかに都合よく結論にあわせて「理論」を編み出せるかを示すには、いいサンプルだろう。彼は学問的に新しいことをやったわけではないが、ジャーナリストとしては一流だから、代表作はNYタイムズのコラムだろう。
クルーグマンの政治とのかかわりは、1982年にレーガン政権のスタッフになったことから始まる。そのころは、いわゆるレーガノミックスにそって自由貿易を推進していたのだが、クリントン政権では大統領経済諮問委員会の委員長候補とされ、本人もあからさまに「ポストに興味がある」と語ったが、結局ポストにはつけなかった。この戦略的貿易政策は、そのとき猟官運動のために書いたもので、国際経済学の常識である自由貿易を否定する理論だ。
ところがポストが得られないことを知ると、クルーグマンは1994年に「競争力という危険な幻想」という論文を発表して、自由貿易主義者に変身する。その後は、エンロンの顧問をつとめて笑いものになったり、ブッシュ政権を罵倒するコラムを毎週書いて、Economist誌に「片手落ちの経済学者」と皮肉られたりした。
要するに、その時その時で理屈を変えて世の中に媚びてきたわけで、昨年のHurwiczとは逆の、経済学者の卑しい部分を代表する人物だ。経済学がいかに都合よく結論にあわせて「理論」を編み出せるかを示すには、いいサンプルだろう。彼は学問的に新しいことをやったわけではないが、ジャーナリストとしては一流だから、代表作はNYタイムズのコラムだろう。
麻生首相にも「単なる友人で、経済顧問ではない」と見捨てられたリチャード・クー氏が、産経新聞で同じ話を繰り返している。彼は当ブログの記事を読んだらしく、講演会で「私のことを地底人と呼ぶ人もいるようですが・・・」と語っていたそうだ。せっかくご愛読いただいているので、大学1年生レベルの経済学を解説しておこう。彼はこう書く:

当時[1992年]の私は宮沢さんを応援し、公的資金の投入の必要性を訴えたが、多額の税金投入に反対するマスコミの流れを押し返すことはできなかった。もし、あの当時、宮沢首相の発言をもっとマスコミが冷静に取り上げ、「ここでちゃんとした対応をすべきだ」と応援していたら、日本の財政赤字は結果的に何十兆円も少なくて済んだだろう。これは私の記事でも書いた軽井沢発言だが、大塚将司氏も私も含めて現場の記者は、公的資金が必要だという実態はわかっていた。経済学者も、池尾和人氏や深尾光洋氏などが"too big to fail"ではなく"too big to liquidate"の原則で破綻処理し、預金保護のために税金を投入しろと提言していたし、私の友人の日銀幹部も同じ意見だった。しかし専門家は銀行への選別的な資本注入(債務超過の場合には合併)を提言していたのだが、地底人は無差別にbailoutしろという。これではモラル・ハザードを生んでしまう。
金融システム不安が深刻化した平成9年、当時の橋本龍太郎政権は、消費税率を3%から5%に増税するなど無理に財政再建を進めた。[・・・]その結果、日本経済は5期連続のマイナス成長に陥り、財政赤字は8年の22兆円から11年の38兆円まで7割も増えた。この「橋本内閣の財政再建が不況をもたらした」という神話もメディアが今でも信じているが、次の図(実質GDP成長率速報値)を見ればわかるように、1997年の4~6月期にGDPが落ちたのは、その前に消費税引き上げ前の駆け込み需要があった反動で、10~12月期にはもとに戻っている。1998年1~3月期からマイナス成長になったのは、拓銀・山一などの破綻にともなう金融危機が原因である。「5期連続のマイナス成長」というのは何のことなのか。
今の日本は、財政赤字が大きいにもかかわらず、国債利回りは橋本政権時よりもさらに低い1・4%前後だ。本来ならもっと金利が上昇するはずだが、なぜこんなに金利が低いのか。[・・・]「経済学にないことが起きているんだ」と麻生太郎首相は訴えていた。大学で教えている経済学は、金利が低くなれば、民間は必ずお金を借りるということが前提で、過剰債務を抱えた民間がゼロ金利下でも借金返済に回る事態は想定していないからだ。地底の経済学には自然利子率(均衡実質利子率)という概念はないのかもしれないが、どんな低い金利でも、自然利子率より高ければ過少投資が起こることは、100年近く前にヴィクセルが明らかにした。問題のコアは、なぜ自然利子率(つまり投資需要)が異常に低い(しばしばマイナス)のかということであり、これを解決しないでバラマキや「リフレ」をやっても効果はない。
財政出動の必要性を訴えると、すぐバラマキ批判が噴出する。あまりの批判にその政策が必要だと思っている政治家も、それを言えなくなってしまう。16年前の宮沢首相の公的資金構想をつぶした二の舞いになりかねない。宮沢の主張したのは銀行の資本増強であって、地底人のように「戦艦大和をつくれ」という話とは違う。こんな「バカの壁」にこれ以上つきあうのは時間の無駄だから、IMFの経済見通しの第5章の結論を引用しておこう:
本章では、裁量的財政政策は経済活動に影響を与えうるが、その効果は多くの場合あまり大きくなく、時には逆方向の効果を与える恐れもあることが示された。適切な対象に対し時限的な財政政策をタイミング良く実施することは現実的には難しいというのがこれまでの経験である。また、新興国・地域を中心に政府債務の持続可能性への懸念が、財政出動による景気刺激策の有効性を制約している可能性がある。このIMFのサマリーは政治家にもわかるようにやさしく書かれているので、官僚が3ページぐらいの「ポンチ絵」にまとめて、麻生首相や中川財務相にレクチャーしてはどうだろうか。少なくとも地底人のようなバラマキ至上主義は、彼以外のすべての経済学者およびアナリストに否定されているということは知っておいた方がいい。今どきこんな原稿を載せる産経新聞にも、最底メディアの称号を与えよう。
今回の金融危機の原因を、契約理論で考えてみる。私の昔の論文の再利用だが、政策担当者には参考になるかもしれないので、簡単にまとめておく。かなりテクニカルなので、興味のない人は無視してください。
前に磯崎さんとの往復ブログ(?)でも書いたが、なぜ金融市場で株式と債券という特殊なcontingent claimが圧倒的に多いのかは、合理的に説明がつかない。理論的に考えれば、Arrow-Debreu証券(状態空間の単位ベクトル)で状態空間を連続にスパンすることで完備市場になるので、一般には株式も債券も最適な証券ではない(Allen-Gale)。派生証券で両者の線形結合をつくることによって効率は高まるので、こうした金融商品は市場ではゼロサムゲームだが、経済的な福祉は高まる(だから賭博とは違う)。
もし取引主体が無限に多く、彼らの選好が連続に分布していれば、すべての証券はArrow-Debreu証券の合成として実現可能なので、流動性危機は生じない。しかし実際には、証券が取引されるためにはかなり大きな「臨界取引量」が必要で、それを上回らないと金融商品として成立しない。したがって状態空間の中の少数のベクトル(証券)に取引が集中することで市場が成立する。株式と債券は古くからあるため、こうしたコーディネーションのfocal pointになっていると考えられる。
新しい金融商品を発行するときも、それが標準化されて市場に広がることが重要だ。一般に、金融商品のfirst mover's advantageは大きく、最初に開発した投資銀行の商品が市場の半分以上を占めるといわれる。このため、1990年代前半まで金融商品(ソフトウェア)で特許は取れなかったが、急速なイノベーションが起こった。これは「知的財産権」なるものがイノベーションの必要条件ではない例としてよくあげられる。
では特許がないのに、投資銀行はどうやって利益を上げたのだろうか? それはIT業界でいえば、SI業者と同じである。投資銀行は金融商品そのものは公開して市場に普及させるが、それを運用する知識はきわめて高度だ。しかも特定の顧客向けに最適化してリスク分散のために多くの債権を複雑に組み合わせた仕組債にするので、中身はほとんどブラックボックスになり、顧客は運用もその投資銀行に頼らざるをえない。IBMがオープンソースのLinuxを使ってシステム構築でもうけるのと同じだ。
個々のモジュールは業界標準の証券なので流動性が高いが、仕組債はカスタマイズしているので相対決済しかできず、流通性が低い。しかも投資銀行は高いレバレッジをかけて資本効率を上げるので、多くのモジュールの一つでも市場が崩壊すると、仕組債全体が売却できなくなり、急いで売ると額面の5%といったfire saleになる。こうした損失にもレバレッジがかかって何倍にもなるので債務不履行の連鎖が起こり、それがCDSをもつ投資銀行の資産を破壊する・・・
というように悪循環が起こる。個々の金融商品は独立性の高い疎結合(loose coupling)になっているのだが、それを複雑に組み合わせて特殊なポートフォリオを組むため、counterpartyが密結合(tight coupling)してしまい、コーディネーションの失敗が起きたわけだ。ブックステーバーもいうように、金融システム全体がスペースシャトルのようにデリケートで脆弱になっているため、Oリングが1本切れたただけで墜落してしまう。
だからこの問題の長期的な解決策は、ブックステーバーの言葉でいえばゴキブリのように、細かく最適化しないで標準的なモジュールだけを使うことだ。これは収益という点では高度に最適化した仕組債に劣るが、今のような状況になっても売却できる。この点で流動性が最大なのは現金だから、ケインズのいう流動性選好が大恐慌で強まったのは合理的だ。ゴキブリ並みの金融技術しかない邦銀が助かったのも、このおかげだ。
ITでいうと、これはインターネットの思想である。自律分散型のパケット交換は冗長性が高いので、効率は悪いが、災害や戦争になってもとにかく動く。派生証券は、効率は高いが事故に弱いATM交換機のようなもので、情報産業ではもはやレガシー技術である。投資銀行は最先端のようでいて、実は一昔前のPSTNと同じ構造なのだ。今回の事件を教訓として、金融システムをloose couplingにし、インターネットのようなゴキブリ型ネットワークに変える必要があろう。AIGが事実上やっていたCDSなどの決済機関を、公的に創設してはどうだろうか。
前に磯崎さんとの往復ブログ(?)でも書いたが、なぜ金融市場で株式と債券という特殊なcontingent claimが圧倒的に多いのかは、合理的に説明がつかない。理論的に考えれば、Arrow-Debreu証券(状態空間の単位ベクトル)で状態空間を連続にスパンすることで完備市場になるので、一般には株式も債券も最適な証券ではない(Allen-Gale)。派生証券で両者の線形結合をつくることによって効率は高まるので、こうした金融商品は市場ではゼロサムゲームだが、経済的な福祉は高まる(だから賭博とは違う)。
もし取引主体が無限に多く、彼らの選好が連続に分布していれば、すべての証券はArrow-Debreu証券の合成として実現可能なので、流動性危機は生じない。しかし実際には、証券が取引されるためにはかなり大きな「臨界取引量」が必要で、それを上回らないと金融商品として成立しない。したがって状態空間の中の少数のベクトル(証券)に取引が集中することで市場が成立する。株式と債券は古くからあるため、こうしたコーディネーションのfocal pointになっていると考えられる。
新しい金融商品を発行するときも、それが標準化されて市場に広がることが重要だ。一般に、金融商品のfirst mover's advantageは大きく、最初に開発した投資銀行の商品が市場の半分以上を占めるといわれる。このため、1990年代前半まで金融商品(ソフトウェア)で特許は取れなかったが、急速なイノベーションが起こった。これは「知的財産権」なるものがイノベーションの必要条件ではない例としてよくあげられる。
では特許がないのに、投資銀行はどうやって利益を上げたのだろうか? それはIT業界でいえば、SI業者と同じである。投資銀行は金融商品そのものは公開して市場に普及させるが、それを運用する知識はきわめて高度だ。しかも特定の顧客向けに最適化してリスク分散のために多くの債権を複雑に組み合わせた仕組債にするので、中身はほとんどブラックボックスになり、顧客は運用もその投資銀行に頼らざるをえない。IBMがオープンソースのLinuxを使ってシステム構築でもうけるのと同じだ。
個々のモジュールは業界標準の証券なので流動性が高いが、仕組債はカスタマイズしているので相対決済しかできず、流通性が低い。しかも投資銀行は高いレバレッジをかけて資本効率を上げるので、多くのモジュールの一つでも市場が崩壊すると、仕組債全体が売却できなくなり、急いで売ると額面の5%といったfire saleになる。こうした損失にもレバレッジがかかって何倍にもなるので債務不履行の連鎖が起こり、それがCDSをもつ投資銀行の資産を破壊する・・・
というように悪循環が起こる。個々の金融商品は独立性の高い疎結合(loose coupling)になっているのだが、それを複雑に組み合わせて特殊なポートフォリオを組むため、counterpartyが密結合(tight coupling)してしまい、コーディネーションの失敗が起きたわけだ。ブックステーバーもいうように、金融システム全体がスペースシャトルのようにデリケートで脆弱になっているため、Oリングが1本切れたただけで墜落してしまう。
だからこの問題の長期的な解決策は、ブックステーバーの言葉でいえばゴキブリのように、細かく最適化しないで標準的なモジュールだけを使うことだ。これは収益という点では高度に最適化した仕組債に劣るが、今のような状況になっても売却できる。この点で流動性が最大なのは現金だから、ケインズのいう流動性選好が大恐慌で強まったのは合理的だ。ゴキブリ並みの金融技術しかない邦銀が助かったのも、このおかげだ。
ITでいうと、これはインターネットの思想である。自律分散型のパケット交換は冗長性が高いので、効率は悪いが、災害や戦争になってもとにかく動く。派生証券は、効率は高いが事故に弱いATM交換機のようなもので、情報産業ではもはやレガシー技術である。投資銀行は最先端のようでいて、実は一昔前のPSTNと同じ構造なのだ。今回の事件を教訓として、金融システムをloose couplingにし、インターネットのようなゴキブリ型ネットワークに変える必要があろう。AIGが事実上やっていたCDSなどの決済機関を、公的に創設してはどうだろうか。
CEPRのウェブサイトVOXで、金融危機への経済学者の提言集が発表された。Eichengreen、Tabellini、Douglas Diamond、Kashyap、Rajanなどが提言している。Zingalesは不良債権を公正価値で買い取るためのrenegotiation designを提案している。Bebchukは、政府資金を民間のファンドマネジャーに運用させて資本増強するしくみを提案している。
いずれも政府が強権発動するのではなく、市場を利用して問題を分権的に解決するメカニズムを提案している。契約理論やメカニズムデザインなどの抽象的な理論が、実際の政策に応用されているのが印象的だ。経済学は政策科学なのだから、学会誌に投稿するのは練習で、本番はこういう仕事である。日本も高い授業料を払ったのだから、その経験を踏まえて専門家が制度設計の提案をしてはどうだろうか。
いずれも政府が強権発動するのではなく、市場を利用して問題を分権的に解決するメカニズムを提案している。契約理論やメカニズムデザインなどの抽象的な理論が、実際の政策に応用されているのが印象的だ。経済学は政策科学なのだから、学会誌に投稿するのは練習で、本番はこういう仕事である。日本も高い授業料を払ったのだから、その経験を踏まえて専門家が制度設計の提案をしてはどうだろうか。