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とうほく唯物論

三味線に映し出される、竹山の魂。

【写真の説明】ラジオ畑にいた頃、収録でステージにいる竹山の背中を叩くことで“キュー出し”をしていたという木村氏。「局に新人で入ると必ずみんなが経験する役でした」。

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【写真の説明】「津軽三味線の名手と言えば、白川軍八郎や木田林松栄(りんしょうえい)。でも竹山師のレコードを聴いた瞬間、この人は津軽三味線のジャンルを超えてしまったと思いました」(木村氏)

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【写真の説明】『寒撥』が芸術祭優秀賞を受賞した記念に作られたパンフレット。モノクロならではの強さと、現在の印刷物とは異なる分厚い質感が伝わってくる。タイトルを付けたのは木村氏。写真は葛西氏。

津軽から全国、そして世界へ。

ようやく独奏者として歩み始めた竹山。レコードと共にその名を全国へととどろかせるきっかけとなったのが、1971年(昭和46年)に青森放送が制作した番組『津軽竹山節』民放連のコンクールでテレビ娯楽部門の金賞を受賞したこの番組を下地に、翌年には、芸術祭参加のためのスタジオドキュメンタリー『寒撥(かんばち)』が制作された。
「上からは予算が無いのに賞を取れという号令。“だったら竹山師ひとりでスタジオで撮ろう”と企画したんです。もちろん周囲は大反対。三味線演奏だけでは番組がもたないと」と回想するのは、演出ディレクターを務めた木村昱介氏。しかし木村氏には勝算があった。
「竹山師は三味線も上手いが、語りも味があって魅力的。だからジャズピアニストのように“弾き語り”を交えながら、とにかくきれいに、あくまでもきれいに竹山師の世界観を撮ろうと思ったんです」。
結局、竹山は木村氏と練習に2週間余りを費やして弾き語りを習得。それが番組での重要な表現となり優秀賞を受賞。また弾き語りはその後の演奏活動でも竹山の人となりを伝える方法になった。
この頃、竹山の姿を公私にわたり写真に収めていたのが、青森放送入社2年目のスチルカメラマン葛西梧郎氏だ。
「いつも周囲に気を配る人で、駆け出しの私にも“おらでいいならなんぼでも撮れ”と声を掛けてくれた。ある時、ハイキングに出かけた山で竹山師の口笛に鳥が集まって来たのには驚きました。柔和な表情で周囲の自然と見事に同化している。舞台の上で演奏する姿が“無”なら、そこには“喜”の竹山師がいました」。やがて竹山は、全国各地に広がる労音(勤労者音楽協議会)のステージ、東京と沖縄の『ジァン・ジァン』などを拠点として、津軽三味線の魅力を全国、そして世界へと広める伝道師となっていった。

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【写真の説明】「演奏する姿を捉えようとファインダーを覗いていても、シャッターを切れないことがよくありました。撮る以前に聴き惚れてしまうんですね」(葛西氏)

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【写真の説明】東京でカメラマンとして活躍する葛西氏のご子息が、仕事で竹童氏を撮影したという世代を越えた縁のエピソードも。竹山が引き合わせた奇遇なのか。

【写真の説明】津軽民謡の神様、成田雲竹に尺八で伴奏をつける竹山。他に横笛や太鼓の演奏も秀逸だった。貴重なツーショット写真。

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