2008年11月
特に著者(FTの著名コラムニスト)が強調するのは、中国の急速な成長と国内の貧弱なインフラである。その成長の最大の原因は先進国の企業の部品調達や海外生産なので、国内消費はあまり伸びていない。また社会福祉は無に等しいので、貧しい人々も老後にそなえて貯蓄せざるをえない。国内の金融機関は信用できないので、輸出で稼いだ外貨を欧米に投資する"vender financing"になっている。
その過剰貯蓄の最大の受け皿になっているのが、アメリカの過剰消費だ。これは以前から問題になっているが、改めるのは容易ではない。その原因は単なるアメリカ人の浪費癖ではないからだ。自動車がないと動けない町、GDPの2割を超える医療費、そして低所得者にも一戸建ての家を所有させるブッシュ政権の"ownership society"政策など、社会全体が高コスト構造になっているのだ。
他方、このようにアメリカがborrower of last resortになったおかげで過剰貯蓄が吸収できたメリットも否定できない。しかしこれは実力以上に高いドルと低金利に支えられた不安定な状態で、水準訂正が起こることは避けられなかった。これは1990年代後半にアジア金融危機で起こったのと同じ「グローバルな取り付け」だから、混乱は数年で収まるだろうが、以前の巨大なマクロ的不均衡に戻ることはないだろう。いわばアメリカが全世界に対してバラマキをやっていたようなものだから、その宴が終われば低成長になることは避けられない。
したがって著者が提言するのは、新興国(特に中国)が金融システムや流通機構を整備することと、アメリカの過剰消費を減らすことだ。ただアメリカの経常赤字がなくなっても困るので、ほどほどに縮小するのがいい。IMFの権限強化は、できればやったほうがいいが、政治的に困難だろう。各国が今回の騒ぎにこりて保護主義に走るのではなく、それぞれの国で貯蓄を吸収する投資機会をつくることが最善の危機防止策だ(特に日本では)。
15日にワシントンで「金融サミット」が開かれる。IMFの機能を拡大することが最大の議題になりそうだが、Rogoff(IMF元理事)は「IMFのsuper-sizingは間違いだ」と論じている。その融資枠は2500億ドルしかなく、これはアメリカ1国よりはるかに小さい。IMFのスタッフもその規模に見合ったものしかなく、融資枠だけを拡大することは、今でも(欧州の議決権が大きすぎるなど)問題のあるIMFのガバナンスをさらに歪めるおそれが強いという。
フランスを先頭に「規制強化」の声が強いが、実際にできることは限られている。今回の騒動で批判を浴びた格付け会社を規制することは容易に合意がえられようが、ヘッジファンドや金融商品を規制するのは無理だ。規制を強めた国から資金が流出するだけで、かえって経済は悪化する。投資銀行やファンドの資金運用の大部分は、実際にはオフショアで行なわれているからだ。
たとえば、ある外資系投資銀行のSPVは、かつてはオランダなどに置かれていたが、税務署の命令で日本に置くことになった。その出資者も51%以上は日本法人でないとだめなので、形の上では日本国籍の企業が最大株主である。しかしこれはペーパーカンパニーで、その資金はすべてケイマンにあるこの投資銀行のSPVから融資されている。日本で上げた利益はケイマンへの支払利息と相殺されて、実際にはほとんど税金は払っていない。
もちろんケイマンの法人もペーパーカンパニーで、すべての運用はウォール街で行なわれている。こうした取引はほとんどオフバランスなので、課税対象にもならない。つまり派生証券の主要な機能は、法人の利益を複雑なネットワークを介してファンドの金利に変え、法人税を逃れることなのだ。Gortonは、こうしたオフバランスの金融システムを「影の銀行システム」と呼んでいる。
今回の金融危機の原因は、この影の銀行システムで取り付けが起こったことだ。オフバランスの取引は、通常は差額だけを決済すればいいが、今のように資産を清算するとなると巨額の資金が必要になる。特に多くの金融商品を組み合わせたCDOやSIVは、中身がわからないために値付けを格付け会社に頼っていたが、格付けが当てにならないことが判明して市場で拒否され、値がつかなくなった。
だから問題の本質は、決済ネットワークが崩壊したことによる短期的なilliquidityであって、資金の不足によるinsolvencyではない。資金は新興国に余っているので、必要なのは「最後の貸し手」を肥大化させることではなく、まずこのもつれた糸をほぐして資金が流れるように市場を建て直すことだ。そのためには、すでに議論が始まっているように金融商品を標準化して決済を取引所に集約し、市場で値付けを行なうインフラが必要だろう。
こうした改革には、法的な規制は不可欠ではない。これまでSIVが多用されていた最大の理由は(実際には)顧客が逃げられないようにするためだから、そのロックイン効果より流動性の低下によるリスクのほうがはるかに大きいことがわかった以上、投資銀行は自発的にloose couplingにするだろう。投資の世界の鉄則は、ウォーレン・バフェットのいう"skin in the game"だから、仲介者にもリスクを負わせることがもっとも確実なガバナンスである。
きょう田母神俊雄・元航空幕僚長が国会で参考人質問を受けたが、「私は間違っていない」と豪語し、反省の様子は見せなかった。けさの朝日新聞で、秦郁彦氏と保坂正康氏が彼の論文を史実と照合している(ウェブには出ていない)。おおむね私の前の記事と同じだが、彼らのふれていない点について簡単に検証してみよう。論文はこう書く:
このように彼の論文は、基本的な文献考証もしないで「日本の戦争は正しかった」という思い込みに合致する噂だけをつなぎあわせた、幼稚な「謀略史観」だ。しかし自衛官が94人も懸賞に応募し、その大部分が組織の指示だったとすれば、これは彼個人の問題ではない。こういうナンセンスな「史観」がいまだに繰り返される背景には、「従軍慰安婦を軍が強制連行した」とか「軍が沖縄の集団自決を命令した」などというデマゴギーが朝日新聞や岩波書店によって流布されている状況がある。これが「公定史観」になって海外にも広まり、それに対する批判は「侵略を擁護する軍国主義」とされ、「アジア諸国の反発」を理由にして封殺されてきた。
まず「軍が100%悪く、国民は被害者だった」という結論が決まっており、それに合わせて都合よく歴史を改竄する朝日新聞の手法は、田母神氏と同じだ。私は日本がアジア諸国を侵略したと思うが、この考え方は歴史や国際法の解釈によって違うだろう。しかし慰安婦や集団自決が軍命によるものだったかどうかは、それとは別の客観的事実の問題である。南京事件をめぐっても「30万人を虐殺した」という極論と「虐殺はなかった」という極論が対立し、それを主張する論者は他の問題についても同様の事実を主張する。このようにイデオロギーと史実を「バンドル」するのはやめ、冷静に事実を検証する時期に来ているのではないか。
その意味で田母神氏が、「懲戒手続きで私のどこ悪かったのか、はっきりさせたほうがよかった」というのは正しい。いつまでもこういう茶番劇を繰り返すのはやめ、政府が調査委員会をつくって日中戦争についての事実関係を徹底的に調査してはどうだろうか。
1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。これは櫻井よしこ氏などからの孫引きだが、櫻井氏の話もユン・チアンの『マオ』の孫引きだから、「曾孫引き」というべきか。『マオ』が偽書に近いことは矢吹晋氏が指摘しており、その根拠となったGRU資料にも信憑性はない。
日中戦争の開始直前の1937年7月7日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争( 岩間弘、岩間書店)」。この『大東亜解放戦争』なる本はアマゾンでも扱っていない自費出版で、著者はアマチュア。「眞相は日本が勝ったのだ」とうたい上げるもので、常識的には防衛省のプロが相手にする本ではない。盧溝橋事件の真相はいまだに不明だが、少なくとも1937年7月7日に延安にいた劉少奇(共産党の最高幹部)が「現地指揮官」をやるはずがない。
ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。これはNSAが1990年代になって公開したVENONA文書にもとづく話である。この文書そのものは第一級の史料で、特に「冤罪」といわれたローゼンバーグ夫妻がKGBのエージェントだった事実が明らかにされたことは大きな話題になった。VENONA文書には1941年当時の財務次官Harry Whiteが暗号名で出ており、彼がソ連の協力者だったことはほぼ間違いない。また彼がハル・ノートの草案を起草したことも事実である。しかしそれは、ハル・ノートが「コミンテルンの工作」によって書かれたという根拠にはならない。ホワイトの案は複数の草案の一つであり、最終的に「最後通告」ともいえる内容に決めたのはルーズベルト大統領だ。当時の政権では、ルーズベルトが「最強硬派」だったのである。
このように彼の論文は、基本的な文献考証もしないで「日本の戦争は正しかった」という思い込みに合致する噂だけをつなぎあわせた、幼稚な「謀略史観」だ。しかし自衛官が94人も懸賞に応募し、その大部分が組織の指示だったとすれば、これは彼個人の問題ではない。こういうナンセンスな「史観」がいまだに繰り返される背景には、「従軍慰安婦を軍が強制連行した」とか「軍が沖縄の集団自決を命令した」などというデマゴギーが朝日新聞や岩波書店によって流布されている状況がある。これが「公定史観」になって海外にも広まり、それに対する批判は「侵略を擁護する軍国主義」とされ、「アジア諸国の反発」を理由にして封殺されてきた。
まず「軍が100%悪く、国民は被害者だった」という結論が決まっており、それに合わせて都合よく歴史を改竄する朝日新聞の手法は、田母神氏と同じだ。私は日本がアジア諸国を侵略したと思うが、この考え方は歴史や国際法の解釈によって違うだろう。しかし慰安婦や集団自決が軍命によるものだったかどうかは、それとは別の客観的事実の問題である。南京事件をめぐっても「30万人を虐殺した」という極論と「虐殺はなかった」という極論が対立し、それを主張する論者は他の問題についても同様の事実を主張する。このようにイデオロギーと史実を「バンドル」するのはやめ、冷静に事実を検証する時期に来ているのではないか。
その意味で田母神氏が、「懲戒手続きで私のどこ悪かったのか、はっきりさせたほうがよかった」というのは正しい。いつまでもこういう茶番劇を繰り返すのはやめ、政府が調査委員会をつくって日中戦争についての事実関係を徹底的に調査してはどうだろうか。
オバマ政権の誕生で、GMを米政府が救済する可能性が強まってきた。金融機関の救済に賛成した経済学者も、これにはほとんどが反対で、NewsweekではJeffrey Gartenが"Stop The Bail Outs Now"と書いている。しかしこの問題は、政治的には困難だ。GMを救済することは、経営者にとっても労働者にとっても政府にとっても、事後的にはプラスになるパレート改善的な政策だからである。しかしそれを許すと事前のインセンティブが歪んで、いい加減な経営をして苦しくなったら補助金をあてにする時間非整合性が生じる。
これは旧社会主義国で深刻な問題となり、コルナイはsoft budget constraint(SBC)と名づけた。特に中国では、国有企業を(経営者から賄賂を取った)共産党幹部が公金で救済する腐敗が問題となった。サンクコストの大きいときは追い貸しが事後的に合理的になるので、SBCを事前に防ぐcommitment deviceが必要になる。Dewatripont-Maskinは、銀行のような「集権的ファイナンス」においてはrenegotiationが容易なので、予算制約のきびしい株式のような「分権的ファイナンス」のほうが効率性が高いとした。株式市場は、効率の悪い企業から資金を移転して予算制約を「硬化」する役割を果たしているのである。
移行経済学でもSBCの研究は理論・実証の両面で行なわれたが、政府が社会的な外部性を考えるとSBCが起こりやすい(Berglof-Roland)。たとえばGMの株主にとっては自分の資金を回収できるかどうかだけが問題だから危ない株は売るが、政府(究極の集権的ファイナンス)は雇用や地域経済への影響を考えるから救済することが合理的になってしまう。したがって、そういう「諸事情」を考慮しないで当事者の利害だけで処理を決める破産手続きのほうが、コミットメント装置としてはすぐれている。
時間非整合性は普遍的な問題だ。犯罪が起こったあとで犯罪者を罰することは事後的には意味がないが、それを「水に流す」と秩序が維持できないので、刑法でハードな基準を決めて刑罰を科すのが司法の本質的な役割である。「因果応報」を好む感情も、こうした(事後的には不合理な)報復を行なうことで秩序を維持するための遺伝的メカニズムだと推定されている。
この観点から考えると、今回よく批判の対象になるリーマン・ブラザーズの破綻も逆だろう。アメリカの破産法が金融機関を想定していない(銀行の債務は破産法の対象外)ため、裁判所の管理下に置かれるとcounterpartyが消滅してしまい、パニックが起こった。もう商業銀行と投資銀行の区別は実態としてはないのだから、counterpartyを保全しながら債務整理を行なう破産手続きが必要ではないか。アメリカの破産法はよく「甘すぎる」と批判されるが、司法的に債務処理することは政府のbailoutよりずっといい。
日本の90年代にはゾンビ企業のSBCが問題だったが、アメリカの債務者は小口の住宅所有者なので、交渉問題ははるかに膨大になる。こういうときオバマのいうように債務者を救済するのは、問題を複雑にする最悪の政策だ。といっても個別の金融機関の「自主的処理」にゆだねると、日本のような先送りが起こるので、Zingalesのいうようなrenegotiatin designが必要だろう。時価会計もコミットメント装置として重要なので、凍結すべきではない。
GMには金融のような外部性はないので、裁判所で処理すべきだ。ユナイテッド航空も、破産したが飛行機は飛んでいる。Gartenもいうように救うべきなのは企業ではなく労働者だから、GMにつぎ込む金があったら失業給付や労働者再訓練にあてたほうがいい。同じ意味で裁量的な財政・金融政策は、時間非整合的なのでインセンティブを歪める(Kydland-Prescott)。特に税金を「中小企業の資金繰り対策」につぎこむ日本の「緊急経済対策」は、SBCを誘発する有害無益な政策である。
これは旧社会主義国で深刻な問題となり、コルナイはsoft budget constraint(SBC)と名づけた。特に中国では、国有企業を(経営者から賄賂を取った)共産党幹部が公金で救済する腐敗が問題となった。サンクコストの大きいときは追い貸しが事後的に合理的になるので、SBCを事前に防ぐcommitment deviceが必要になる。Dewatripont-Maskinは、銀行のような「集権的ファイナンス」においてはrenegotiationが容易なので、予算制約のきびしい株式のような「分権的ファイナンス」のほうが効率性が高いとした。株式市場は、効率の悪い企業から資金を移転して予算制約を「硬化」する役割を果たしているのである。
移行経済学でもSBCの研究は理論・実証の両面で行なわれたが、政府が社会的な外部性を考えるとSBCが起こりやすい(Berglof-Roland)。たとえばGMの株主にとっては自分の資金を回収できるかどうかだけが問題だから危ない株は売るが、政府(究極の集権的ファイナンス)は雇用や地域経済への影響を考えるから救済することが合理的になってしまう。したがって、そういう「諸事情」を考慮しないで当事者の利害だけで処理を決める破産手続きのほうが、コミットメント装置としてはすぐれている。
時間非整合性は普遍的な問題だ。犯罪が起こったあとで犯罪者を罰することは事後的には意味がないが、それを「水に流す」と秩序が維持できないので、刑法でハードな基準を決めて刑罰を科すのが司法の本質的な役割である。「因果応報」を好む感情も、こうした(事後的には不合理な)報復を行なうことで秩序を維持するための遺伝的メカニズムだと推定されている。
この観点から考えると、今回よく批判の対象になるリーマン・ブラザーズの破綻も逆だろう。アメリカの破産法が金融機関を想定していない(銀行の債務は破産法の対象外)ため、裁判所の管理下に置かれるとcounterpartyが消滅してしまい、パニックが起こった。もう商業銀行と投資銀行の区別は実態としてはないのだから、counterpartyを保全しながら債務整理を行なう破産手続きが必要ではないか。アメリカの破産法はよく「甘すぎる」と批判されるが、司法的に債務処理することは政府のbailoutよりずっといい。
日本の90年代にはゾンビ企業のSBCが問題だったが、アメリカの債務者は小口の住宅所有者なので、交渉問題ははるかに膨大になる。こういうときオバマのいうように債務者を救済するのは、問題を複雑にする最悪の政策だ。といっても個別の金融機関の「自主的処理」にゆだねると、日本のような先送りが起こるので、Zingalesのいうようなrenegotiatin designが必要だろう。時価会計もコミットメント装置として重要なので、凍結すべきではない。
GMには金融のような外部性はないので、裁判所で処理すべきだ。ユナイテッド航空も、破産したが飛行機は飛んでいる。Gartenもいうように救うべきなのは企業ではなく労働者だから、GMにつぎ込む金があったら失業給付や労働者再訓練にあてたほうがいい。同じ意味で裁量的な財政・金融政策は、時間非整合的なのでインセンティブを歪める(Kydland-Prescott)。特に税金を「中小企業の資金繰り対策」につぎこむ日本の「緊急経済対策」は、SBCを誘発する有害無益な政策である。
- いつもは挑発的な言辞を弄するが、これについては(規制派のジョージ・ソロスと規制反対派のロバート・マートンの)中間的な立場を取る。
- 金融工学の立場からボブ(マートン)がいろいろ解説してくれたが、それは飛行機の墜落事故の原因究明において、誘導制御の問題やパイロットのミスについて述べるのに似ている。しかし、飛行機が相次いで墜落し始めたら、航空産業全体の問題として考えるべき。
- 一方で、金融工学に経済危機問題の原因をすべて帰するのも行き過ぎ。たとえば、日本の90年代の不況やITバブルの崩壊は金融工学が原因で起きたわけではない。
- 金融工学は専門家だけに任せるには重大すぎる。たとえばファニーメイとフレディマックは、政府がプットオプションを売ったと考えることができるが、その危険性を金融工学の専門家は認識していたものの、彼らの啓蒙が不十分だったこともあり、世間は十分理解していなかった。
- 古代ギリシアの時代から、経済危機の原因が貪欲と恐怖にあることも忘れてはならない。
「環境立国」を唱える向きも多いが、環境問題というのはグローバルな課題の一つにすぎず、唯一の問題でも最大の問題でもない。「すべての選択にはトレード・オフがある」というのが、マンキューの教科書の冒頭にも掲げられている経済学の根本原則だが、思い込みの強い科学者や、危機感をあおってネタにしようとするマスコミには評判が悪い。そういう人々には、せめて本書ぐらい読んでから議論してほしい。
『文藝春秋』12月号(10日発売)に、「世界同時不況 日本は甦るか」と題して、高橋洋一、榊原英資、竹森俊平、水野和夫氏などの座談会が出ている。議論が未整理だが、論点として重要なのは今後、日本がどう対応すべきかで意見がわかれていることだ。
バラマキ財政には全員が反対だが、高橋氏と竹森氏は日銀が「ゼロ金利・量的緩和」に戻すべきだといい、榊原氏と水野氏は反対している。前者は「世界各国が極端な金融緩和政策をとっているのに、日銀だけが利下げしないから円高が進む」というのに対して、後者は「国内に資金需要がないのに資金を供給しても海外に資本が流出するだけで、円の水準は今ぐらいが妥当だ」という。
高橋氏や竹森氏の主張するのは経済政策の目標は短期の安定化だというケインズ政策であり、榊原氏や水野氏が主張するのは経済が長期的に適正な水準にあれば政府は介入する必要はないという新古典派的な政策だ。また前者がマクロ経済が重要だとするのに対し、後者は産業のグローバル化などのミクロ的な改革が重要だという。このように短期/長期、マクロ/ミクロという区別を設けたのは、ケインズである。彼が『貨幣改革論』で次のようにのべたのは有名だ:
もちろん実際に長期均衡が実現するとは限らないが、この長期は政策目標として重要であり、misleading guideではない。伝統的なケインズ政策では、経済を安定化することは無条件に望ましいと考えられているが、Prescottなども指摘するように、名目賃金を安定化することは相対価格をゆがめ、失業を長期化させるとともに成長率も低下させる。これによる安定性の利益と効率性の損失のどっちが大きいかは、先験的にはわからないが、重要なのはそこにトレード・オフがあるのを認識することだ。
ヴィクセル(およびオーストリア学派)が警告したように、自然率から乖離した政策金利はバブル引き起こし、かえって経済を不安定化させる。2000年以降、ゼロ金利・量的緩和・ドル買い介入によって預金者から輸出産業に所得を移転して日本経済を支えたことが、トヨタ・バブルともいうべき事態をまねいた。またNeo-Wicksellianが指摘するように、裁量的な金融政策はインフレ・バイアスをもつ。金融緩和は、政治家も労働組合も好むので、その政治的圧力を中央銀行が拒むことはむずかしい。1989年に日銀が公定歩合を引き上げたとき、橋本蔵相(当時)は「利上げを撤回させる」と怒り、日経新聞は「自分勝手な利上げ競争は回避せよ」と批判した。
このように動学的な効果を考えると、とるべき政策は単純ではなく、短期的なマクロ政策が長期的な効率性を低下させるトレード・オフの中から国民が何を選択するかという問題になる。かつてのような円キャリーが起こるとは考えられないが、0.3%の金利をゼロにすることによる「サプライズ」はなく、deleveragingの進んでいる中では量的緩和の効果も限定的だ。むしろ竹森氏も水野氏もいうように、今回の金融危機が「歴史的な転換点」だという認識に立ち、日本経済の非効率な部門を整理して「自然成長率」を高める政策が必要なのではないか。
バラマキ財政には全員が反対だが、高橋氏と竹森氏は日銀が「ゼロ金利・量的緩和」に戻すべきだといい、榊原氏と水野氏は反対している。前者は「世界各国が極端な金融緩和政策をとっているのに、日銀だけが利下げしないから円高が進む」というのに対して、後者は「国内に資金需要がないのに資金を供給しても海外に資本が流出するだけで、円の水準は今ぐらいが妥当だ」という。
高橋氏や竹森氏の主張するのは経済政策の目標は短期の安定化だというケインズ政策であり、榊原氏や水野氏が主張するのは経済が長期的に適正な水準にあれば政府は介入する必要はないという新古典派的な政策だ。また前者がマクロ経済が重要だとするのに対し、後者は産業のグローバル化などのミクロ的な改革が重要だという。このように短期/長期、マクロ/ミクロという区別を設けたのは、ケインズである。彼が『貨幣改革論』で次のようにのべたのは有名だ:
Long run is a misleading guide to current affairs. In the long run we are all dead.しかし現代の経済学では、このようにミクロとマクロに別々のメカニズムを想定しない。「マクロ経済学」と呼ばれるDSGEの内容は、動学的なミクロ経済学である。Neo-Wicksellianは長期を自然率の成立する状況と考え、そこから短期的に乖離した状況を安定化するために金融政策が必要だと考えるが、ここでも金融政策で自然率と異なる状態を持続させることはできない。かつては長期は投資水準の変わる(数年以上の)期間と考えられたが、現代の理論では価格調整の行なわれる期間なので数ヶ月だ。長期的には、われわれはみんな死んではいないのである。
もちろん実際に長期均衡が実現するとは限らないが、この長期は政策目標として重要であり、misleading guideではない。伝統的なケインズ政策では、経済を安定化することは無条件に望ましいと考えられているが、Prescottなども指摘するように、名目賃金を安定化することは相対価格をゆがめ、失業を長期化させるとともに成長率も低下させる。これによる安定性の利益と効率性の損失のどっちが大きいかは、先験的にはわからないが、重要なのはそこにトレード・オフがあるのを認識することだ。
ヴィクセル(およびオーストリア学派)が警告したように、自然率から乖離した政策金利はバブル引き起こし、かえって経済を不安定化させる。2000年以降、ゼロ金利・量的緩和・ドル買い介入によって預金者から輸出産業に所得を移転して日本経済を支えたことが、トヨタ・バブルともいうべき事態をまねいた。またNeo-Wicksellianが指摘するように、裁量的な金融政策はインフレ・バイアスをもつ。金融緩和は、政治家も労働組合も好むので、その政治的圧力を中央銀行が拒むことはむずかしい。1989年に日銀が公定歩合を引き上げたとき、橋本蔵相(当時)は「利上げを撤回させる」と怒り、日経新聞は「自分勝手な利上げ競争は回避せよ」と批判した。
このように動学的な効果を考えると、とるべき政策は単純ではなく、短期的なマクロ政策が長期的な効率性を低下させるトレード・オフの中から国民が何を選択するかという問題になる。かつてのような円キャリーが起こるとは考えられないが、0.3%の金利をゼロにすることによる「サプライズ」はなく、deleveragingの進んでいる中では量的緩和の効果も限定的だ。むしろ竹森氏も水野氏もいうように、今回の金融危機が「歴史的な転換点」だという認識に立ち、日本経済の非効率な部門を整理して「自然成長率」を高める政策が必要なのではないか。
先日も書いた通り、FCCはホワイトスペースを免許不要帯として開放することを決めた。放送局は「オークションをやれ」などと反撃していたが、免許不要にしたことは重要な決断だ。日本では、UHF帯のホワイトスペースは全国平均で200MHzぐらい空いているので、これを自由に使えば超低コストの無線ブロードバンドが可能になる。
グーグルなどの作っているWireless Innovation Allianceも歓迎のメッセージを出しているが、具体的にどういう技術が採用されるのか、はっきりしない。"Wi-Fi on steroids"という冗談みたいな名前はついているが、仕様はまだ策定中だ。今のWi-Fiより高出力で公衆無線にも使える技術が検討されており、周波数がなくて見果てぬ夢だったメッシュ・ネットワークが実現するかもしれない。どうやって干渉を防いで高いスループットを実現するかが課題だが、おそらくFCCの端末認証によってやることになろう。
「アメリカで決まった」というのは、日本の官僚機構に要求する最強の根拠になる。日本のUHF帯のうち、710~806MHzはまとめてオークションにかければ、20MHz×5スロット取れるが、同時に470~710MHzのホワイトスペースを免許不要で開放すれば、落札価格はかなり安くなるだろう。ホワイトスペースで「第4世代携帯電話」よりすぐれた技術が出てくる可能性が高いからだ。710~740MHzをITSに割り当てるのも無駄だから、汎用無線で「車車間通信」をやればよい。
日本経済にとっても、電波開放のメリットはバカにならない。アメリカの基準で計算しても、トータル300MHzで3兆円以上だが、これによって端末が売れ、新しいサービスが可能になる経済的なメリットは数十兆円になろう。免許不要で開放すると国庫収入は減るが、消費者余剰ははるかに大きくなる。
何より重要なのは、ホワイトスペースで自由なイノベーションが可能になり、既存キャリアとグーグルなどの競争が実現することだ。今回の経済危機で、輸出産業の稼ぎに非効率な国内産業がぶら下がる構図は崩れてしまった。これからは、国内で古い企業の「創造的破壊」を進め、新しい市場を開拓することが重要だ。特に高コストのサービス業を効率化する必要があり、通信サービスはその余地がもっとも大きい。
バラマキ財政でも「真水」の規模はたかだか5兆円で、3年したら増税で帳消しだ。それに対して、電波の開放はコストなしで数十兆円の市場と無限のイノベーションを生み出す「フリーランチ」であり、最強の経済対策である。
グーグルなどの作っているWireless Innovation Allianceも歓迎のメッセージを出しているが、具体的にどういう技術が採用されるのか、はっきりしない。"Wi-Fi on steroids"という冗談みたいな名前はついているが、仕様はまだ策定中だ。今のWi-Fiより高出力で公衆無線にも使える技術が検討されており、周波数がなくて見果てぬ夢だったメッシュ・ネットワークが実現するかもしれない。どうやって干渉を防いで高いスループットを実現するかが課題だが、おそらくFCCの端末認証によってやることになろう。
「アメリカで決まった」というのは、日本の官僚機構に要求する最強の根拠になる。日本のUHF帯のうち、710~806MHzはまとめてオークションにかければ、20MHz×5スロット取れるが、同時に470~710MHzのホワイトスペースを免許不要で開放すれば、落札価格はかなり安くなるだろう。ホワイトスペースで「第4世代携帯電話」よりすぐれた技術が出てくる可能性が高いからだ。710~740MHzをITSに割り当てるのも無駄だから、汎用無線で「車車間通信」をやればよい。
日本経済にとっても、電波開放のメリットはバカにならない。アメリカの基準で計算しても、トータル300MHzで3兆円以上だが、これによって端末が売れ、新しいサービスが可能になる経済的なメリットは数十兆円になろう。免許不要で開放すると国庫収入は減るが、消費者余剰ははるかに大きくなる。
何より重要なのは、ホワイトスペースで自由なイノベーションが可能になり、既存キャリアとグーグルなどの競争が実現することだ。今回の経済危機で、輸出産業の稼ぎに非効率な国内産業がぶら下がる構図は崩れてしまった。これからは、国内で古い企業の「創造的破壊」を進め、新しい市場を開拓することが重要だ。特に高コストのサービス業を効率化する必要があり、通信サービスはその余地がもっとも大きい。
バラマキ財政でも「真水」の規模はたかだか5兆円で、3年したら増税で帳消しだ。それに対して、電波の開放はコストなしで数十兆円の市場と無限のイノベーションを生み出す「フリーランチ」であり、最強の経済対策である。
Gmailで「クラウド・コンピューティング」ができるという話を野口悠紀雄氏が書いているが、自分あてにEメールを出すとか「下書き」として保存するのは、メールと混じると気持ち悪い。そんなことをしなくても、文字通りGmailをディスクとして使えるGmail Driveというユーティリティがある。
使い方は簡単で、上にリンクを張ったサイトからZIPファイルをダウンロードして解凍し、Gmailのアカウントとパスワードを入れると、6GBもあるリモートディスクができる。上の図のように普通のディスクと同じように使え、「マイコンピュータ」にもディスクとして出てくる。日本語パッチもあるが、メニューなどが日本語になるだけなので、必要ない。
私は3年ぐらい使っているが、グーグルはこういう使い方を歓迎していないようで、一時は使えなくなった。最新版(1.0.13)は問題なく動くが、今後グーグルがシャットアウトしたら使えなくなる。しかしファイルそのものはメールとして自分あてに出されているので、消えることはない。ただメールと混在するとわずらわしいので、別のアカウントを作ったほうがいいだろう。
・・・と書くと若手の経済学者のことと思う人がいるかもしれないが、Knut Wicksell(1851-1926)は20世紀前半の金融理論に影響を与えた(が今は忘れられた)スウェーデンの経済学者である。彼を葬ったのはケインズで、『一般理論』ではヴィクセルの自然利子率を混乱した概念とし、完全雇用と両立しない利子率は「自然」ではないと否定した。ハイエクは「ケインズはヴィクセルをちゃんと読んでいない」と批判し、ケインズものちに誤りを認めた。
自然利子率の概念を再評価したのは、フリードマンの有名な論文(1968)だが、このときは彼がヴィクセルをもじって「自然失業率」と名づけた概念が大きな話題を呼んで、自然利子率のほうはあまり話題にならなかった。しかしその後のNew Classicalの研究は、長期均衡状態としての自然利子率が(少なくとも理論的には)存在することを明らかにし、2000年代に入って出てきた新ケインズ派総合はNeo-Wicksellianとも呼ばれる。
Neo-Wicksellianの代表であるWoodfordの本には、ウィクセルの主著(ウェブで全文が読める)と同じ"Interest and Prices"という題名がつけられ、基本的な考え方もヴィクセルに依拠している。それは自然率(長期均衡)を現実の状態と考えず、達成すべき目標と考えることだ。現実の経済は自然率からつねに乖離しているが、それを自然率に近づける手段として金融政策が位置づけられる。逆にいうと、自然率から乖離した状態をマクロ経済政策によって長期的に持続させることはできない。
これはDSGEのコアになっているRamseyモデルが、もともと「最適貯蓄」の理論だったことから考えても当然だ。ほんらい最適成長理論だったRamsey-Cass-Koopmansモデルが、New Classicalで現実を記述する理論にすり替わったのが間違いで、規範的理論と考えるならRBCの空想的世界も意味をもつ。今後の世界経済を考える上でも、今の大混乱の先にどういう均衡状態があるのかを考えないと、長期的な政策は立てられない。
ただしヴィクセルも強調したように、自然率は安定した状態とは限らない。それはイノベーションや供給ショックによってつねに変動するので、こうしたリアルな要因を政府や中央銀行がコントロールすることはできない。その最善の役割は、期待形成の基礎となる物価を安定させて経済のコーディネーションを促進することだ。インフレ目標はこの観点から重要で、これを最初に提唱したのはヴィクセルである。ただしDSGEには(ヴィクセルと違って)資本蓄積が入っていないので、物価だけを目標にすると資産バブルを制御できないという批判がある。
Kehoe-Prescottは、RBCの立場から1930年代と最近(日本の90年代を含む)の長期不況を比較し、それが一時的な景気循環を超える経済危機に発展した原因は、生産性(TFP)の低下によってベースラインとなる「自然成長率」が低下したことだと論じている。したがって長期的に最適な政策はTFPを高めることであり、そのために必要なのは「競争を促進して非効率な企業を淘汰する」ことだ。既存の企業や労組の利益を守るカルテルが、アメリカの大恐慌を長期化させたのである。
自然利子率の概念を再評価したのは、フリードマンの有名な論文(1968)だが、このときは彼がヴィクセルをもじって「自然失業率」と名づけた概念が大きな話題を呼んで、自然利子率のほうはあまり話題にならなかった。しかしその後のNew Classicalの研究は、長期均衡状態としての自然利子率が(少なくとも理論的には)存在することを明らかにし、2000年代に入って出てきた新ケインズ派総合はNeo-Wicksellianとも呼ばれる。
Neo-Wicksellianの代表であるWoodfordの本には、ウィクセルの主著(ウェブで全文が読める)と同じ"Interest and Prices"という題名がつけられ、基本的な考え方もヴィクセルに依拠している。それは自然率(長期均衡)を現実の状態と考えず、達成すべき目標と考えることだ。現実の経済は自然率からつねに乖離しているが、それを自然率に近づける手段として金融政策が位置づけられる。逆にいうと、自然率から乖離した状態をマクロ経済政策によって長期的に持続させることはできない。
これはDSGEのコアになっているRamseyモデルが、もともと「最適貯蓄」の理論だったことから考えても当然だ。ほんらい最適成長理論だったRamsey-Cass-Koopmansモデルが、New Classicalで現実を記述する理論にすり替わったのが間違いで、規範的理論と考えるならRBCの空想的世界も意味をもつ。今後の世界経済を考える上でも、今の大混乱の先にどういう均衡状態があるのかを考えないと、長期的な政策は立てられない。
ただしヴィクセルも強調したように、自然率は安定した状態とは限らない。それはイノベーションや供給ショックによってつねに変動するので、こうしたリアルな要因を政府や中央銀行がコントロールすることはできない。その最善の役割は、期待形成の基礎となる物価を安定させて経済のコーディネーションを促進することだ。インフレ目標はこの観点から重要で、これを最初に提唱したのはヴィクセルである。ただしDSGEには(ヴィクセルと違って)資本蓄積が入っていないので、物価だけを目標にすると資産バブルを制御できないという批判がある。
Kehoe-Prescottは、RBCの立場から1930年代と最近(日本の90年代を含む)の長期不況を比較し、それが一時的な景気循環を超える経済危機に発展した原因は、生産性(TFP)の低下によってベースラインとなる「自然成長率」が低下したことだと論じている。したがって長期的に最適な政策はTFPを高めることであり、そのために必要なのは「競争を促進して非効率な企業を淘汰する」ことだ。既存の企業や労組の利益を守るカルテルが、アメリカの大恐慌を長期化させたのである。