2008年11月
本書は、学習ダイナミクスなどの高度な進化ゲーム理論を解説した、日本語で唯一の教科書である。内容は一般向けではないが、これまでWeibullの古い教科書しかなかったので、研究者には便利だろう。特に金融危機との関連で重要なのは、協調ゲームのような複数均衡状態で悪い均衡にはまり込んでいるとき、よい均衡に移行するにはどうすればいいかという戦略だ。
RBCの想定するようなself-confirming equilibriumがどういう条件で成立するかという問題を扱った本としてはFudenberg-Levineがあるが、おおむねいえるのは、口先だけのcheap talkはだめで、言ったことを必ず実行するコミットメントが重要だということだ。中央銀行がインフレを起す手段をもっていないのにインフレ目標を設定しても、誰も信用しない。厄介なのは望ましい状態が何かを誰も知らないことで、政府が勝手に「公正価値」を決めてもそこに収束するとは限らない。
この種の話はコンピュータ・サイエンスではよく知られており、遺伝的アルゴリズムのように大きなショックを与えてプレイヤーに試行錯誤させればよい。また知識が蓄積されて共有されることが重要なので、情報は多ければ多いほどよい。時価会計を凍結するとか、自己資本規制を緩和するといった情報隠蔽によってショックをやわらげる政策は、経済を悪い均衡で安定させてしまい、90年代の日本のように低空飛行を続けるおそれが強い。
官僚やジャーナリストが、学問的には30年以上前に否定されたIS-LM図式を脱却できない一つの理由は、最近の動学マクロが数学的にむずかしく、直感的にわかりにくいことだろう。この問題を解決するために、次のような簡単な図を描いてみた。これはおなじみのエッジワース・ダイヤグラムで、上に凸の曲線が企業の生産可能曲線、下に凸の曲線が消費者の無差別曲線、斜めの直線が相対価格である:

一つだけ普通の図と違うのは、この価格では均衡が成立していないことだ。消費者は財をY消費したいのだが、この価格では企業はY'しか売らず、L働きたいが企業はL'しか雇用してくれない。こういう場合、ミクロ経済学では賃金が下がって均衡が成立する(二つの曲線が接するようになる)と教わるが、このためには企業と消費者が現在の価格で取引をせず、(せり人が)新しい価格を決めて再契約しなければならない。これは奇妙な仮定である。あなたがスーパーマーケットへ行って商品の値段が高かったとき、「価格を変更して再契約しよう」とスーパーに提案するだろうか?
現代の産業社会では、店頭で価格交渉なんかしない。消費者は定価で買い、スーパーは売れ残ったら在庫を抱える。また経営者が「失業があるから賃金を下げる」という交渉を労働組合とすることは不可能だから、雇用を削減する。つまり、たまたまこの図のような価格が与えられたら、人々はその価格で取引して数量調整を行なうので、非自発的失業L-L'が発生する。失業者には所得がないので有効需要はY'にとどまり、需給ギャップY-Y'が残る。
これがClower, "The Keynesian Counterrevolution"(1965)の説明である。私の学生のころには、これに端を発したBarro-Grossmanなどの「一般不均衡理論」が流行したが、しばらくするとLucasの合理的期待論のほうが優勢になり、Barroも不均衡理論を放棄してしまった。その理由は、こうしたモデルでは不均衡状態が長期にわたって続く理由を説明できないことだ。スーパーは短期的には数量調整しても、売り残ったら翌日は価格を下げるだろうし、求人倍率が下がったら賃金も下がるので、長期ではワルラス的な均衡が成立する。不均衡がナッシュ均衡になるcoordination failureも起こるが、マイナーな撹乱だ。
・・・というのが通説だが、現在の状況について均衡理論は何も教えてくれない。Lucasのいうように人々が完全な情報をもっているなら、そもそも金融危機なんて起こらない。この図でYとLを二つの証券の供給量とすれば、派生証券の値がつかない状態の表現にもなる。こうした不均衡状態から、人々が試行錯誤によって均衡価格をさがす過程を明示的に考えるほうが建設的だろう。そういう理論的な試みは始まっている。いずれにしても、こうしたmicrofoundationのないIS-LMが何の説明にもなっていないことは、学問的なコンセンサスである。
追記:図の符号がおかしかったので修正した。
現代の産業社会では、店頭で価格交渉なんかしない。消費者は定価で買い、スーパーは売れ残ったら在庫を抱える。また経営者が「失業があるから賃金を下げる」という交渉を労働組合とすることは不可能だから、雇用を削減する。つまり、たまたまこの図のような価格が与えられたら、人々はその価格で取引して数量調整を行なうので、非自発的失業L-L'が発生する。失業者には所得がないので有効需要はY'にとどまり、需給ギャップY-Y'が残る。
これがClower, "The Keynesian Counterrevolution"(1965)の説明である。私の学生のころには、これに端を発したBarro-Grossmanなどの「一般不均衡理論」が流行したが、しばらくするとLucasの合理的期待論のほうが優勢になり、Barroも不均衡理論を放棄してしまった。その理由は、こうしたモデルでは不均衡状態が長期にわたって続く理由を説明できないことだ。スーパーは短期的には数量調整しても、売り残ったら翌日は価格を下げるだろうし、求人倍率が下がったら賃金も下がるので、長期ではワルラス的な均衡が成立する。不均衡がナッシュ均衡になるcoordination failureも起こるが、マイナーな撹乱だ。
・・・というのが通説だが、現在の状況について均衡理論は何も教えてくれない。Lucasのいうように人々が完全な情報をもっているなら、そもそも金融危機なんて起こらない。この図でYとLを二つの証券の供給量とすれば、派生証券の値がつかない状態の表現にもなる。こうした不均衡状態から、人々が試行錯誤によって均衡価格をさがす過程を明示的に考えるほうが建設的だろう。そういう理論的な試みは始まっている。いずれにしても、こうしたmicrofoundationのないIS-LMが何の説明にもなっていないことは、学問的なコンセンサスである。
追記:図の符号がおかしかったので修正した。
このところ「大麻汚染」についてのニュースが多いが、大麻の種を10粒もっていたぐらいで逮捕する国は、先進国にはない。アメリカの大統領選挙と一緒に行なわれた住民投票では、多くの州で大麻は合法化されるかきわめて軽微な罰則になった。
もちろん大麻に問題がないわけではない。しかし、その毒性も依存性も、アルコールやタバコより低い。大麻にこれほど大騒ぎするなら、日本も禁酒法をつくり、喫煙者を逮捕しなければ論理的におかしい。こんにゃくゼリーを禁止するなら、餅の販売も禁止すべきだ。ついでに、あなたを殺す最大のリスクである自動車も禁止すべきだ。
世の中にはさまざまなリスクがあり、それをゼロにすることは必要でも可能でもない。タバコの社会的コストは5兆6000億円という推定もあり、大麻とは比較にならない。タバコのリスクを「自己責任」で認めるなら、同じ理由で大麻も合法化すべきだ。フリードマン以来、指摘されてきたように、コカインのような麻薬でも、その健康被害より(非合法化による)麻薬取引にからむ犯罪被害のほうが多い。麻薬ですらない大麻で逮捕するのはナンセンスだ。
もちろん大麻に問題がないわけではない。しかし、その毒性も依存性も、アルコールやタバコより低い。大麻にこれほど大騒ぎするなら、日本も禁酒法をつくり、喫煙者を逮捕しなければ論理的におかしい。こんにゃくゼリーを禁止するなら、餅の販売も禁止すべきだ。ついでに、あなたを殺す最大のリスクである自動車も禁止すべきだ。
世の中にはさまざまなリスクがあり、それをゼロにすることは必要でも可能でもない。タバコの社会的コストは5兆6000億円という推定もあり、大麻とは比較にならない。タバコのリスクを「自己責任」で認めるなら、同じ理由で大麻も合法化すべきだ。フリードマン以来、指摘されてきたように、コカインのような麻薬でも、その健康被害より(非合法化による)麻薬取引にからむ犯罪被害のほうが多い。麻薬ですらない大麻で逮捕するのはナンセンスだ。
本書は彼の初期の作品の30年ぶりの再刊で、名大で全共闘と一緒に闘って辞職し、プータローだったころの本だ。このころ彼は、生活のために大量の原稿を書き、年に5冊ぐらいのペースで本を出していた。彼の読書と執筆のスピードは驚異的で、死去したときは400字詰めで1万枚の未発表原稿が残されていたという。
彼の代表作も、この浪人時代に集中している。『原像』も『マルクス主義の地平』も『マルクス主義の成立過程』も、このころだ。本書もその時期の著書だが、彼の「本流」の作品とは違うので、廣松を最初に読む人にはおすすめできない(主著は学部の卒業論文!)。ただ、また「疎外論」が悪い意味で注目されている昨今には、読む価値があるかもしれない。
いま読みなおしておもしろいのは、マルクスが法哲学徒として出発したことだ。ヘーゲルの法=権利の哲学は、近代初期の社会科学を集大成して、その後のあらゆる分野に影響を与えた巨大なモニュメントである。それはカントの「定言命令」に代表される啓蒙的な自然法思想を否定して、「自然」な道徳などというものは存在せず、近代国家の法は「欲望の体系」としての市民社会の疎外態だとする。
これは法哲学という学問の否定で、法は経済システムの「上部構造」だという現在に至る社会科学の通念の元祖である。フォイエルバッハはこの大前提を認めたうえで、ヘーゲルの「絶対精神」を「類的存在」に置き換えた。『経済学・哲学草稿』のころのマルクスは、基本的にフォイエルバッハの枠内にあるが、社会主義運動の影響を受けて、フォイエルバッハの類的存在=人間の概念もヘーゲルと同じ観念にすぎないのではないか、と問題提起するところで終わっている。
このあとマルクスは「フォイエルバッハ・テーゼ」で、人間の本質は社会的諸関係のアンサンブルだという有名な認識にたどりつく。この転換を廣松は「疎外論から物象化論へ」と表現したが、これはいま思えば廣松哲学の読み込みだった(物象化という言葉もマルクスは使っていない)。マルクスの唯物論(Materialismus)は、ヘーゲル的な大文字の主体(超越論的主観性)を否定して、具体的(material)な現実にすべてを還元することだったのではないか。この意味では、認知論的転回の元祖だったのかもしれない。
・・・などと際限なく最新の思想的ファッションに合わせて読み込みできるところがマルクスの特長だが、やはり彼は近代市民社会の亡霊性の背後に「労働」とか「共同体」という本質を措定していたというデリダの批判はまぬがれない。廣松の晩年の議論も形而上学的になって、行き詰まってしまった。それは「学問」として格好をつけるためには、生成の側面を捨てて完成されたコードの体系を見せなければならないというアカデミズムの限界だろう。彼の代表作が浪人時代に書かれたのは、偶然ではない。
According to Newsday, Obama named Susan Crawford and Kevin Werbach to lead the FCC transition team with the responsibility of advising the incoming administration on policy.
Congratulations!
Congratulations!
首相が金融サミットを前にWSJに寄稿した論文が興味深い。まず彼は日本の教訓を次のようにあげる:
しかし、ここに抜けている大事な論点がある。それは金融システムの安定化を妨害する最大の敵は政治家だということだ。今回の世界的な株の大暴落の引き金も、米議会が財務省の金融危機対策を否決したことだった。日本でも1995年末の住専の処理に際して、武村正義蔵相が農協の政治的圧力に屈して問題を決定的に混乱させ、あげくの果てに国会で追及されるのを恐れて、年明けに村山首相を道連れにして辞めてしまった。武村氏は「失われた10年」のA級戦犯である。
もう一つの教訓は、金融のように高度に専門的な問題の処理を、法学部しか出てないど素人にやらせてはいけないということだ。リーマン・ブラザーズが破綻してからポールソンが危機対策を出すまでに1週間しかかからなかったが、日本のバブルが崩壊してから大蔵省が資本注入を打ち出すまでに8年かかった。官僚の最大の仕事が政治家への根回しになっている状況を変え、専門知識を尊重しないと、日本はまた同じ失敗を繰り返すだろう。外国に説教している場合ではない。
- 不良債権の実態を早急に開示させ、それを銀行のバランスシートから除くことが最優先の課題である。不十分な情報開示が、日本の不良債権処理を遅らせた。
- 銀行への資本注入に際しては、それでも破綻した場合の最終処理策を決めておく必要がある。日本の場合は、銀行を国有化したことが最終処理だった。
- 中央銀行による流動性の十分な供給が不可欠である。国際協調のほかに、Chiang Mai Initiativeのような地域的メカニズムも有効だ。
- グローバルな経常収支の不均衡が続くかぎり、国際通貨制度は不安定になる。過剰消費国が自制するとともに、輸出に過度に依存している国は内需による経済成長を促進すべきだ。
- 金融機関を監視するIMFの機能を強化し、融資枠を拡大すべきだ。日本は1000億ドル拠出する用意がある。
- 国際的な開発融資も重要だ。特にアジア開銀の資本を増強する必要がある。
- IMFの統治構造(出資枠や議決権)を見直し、新興国の状況を反映するよう改善すべきだ。
- 金融安定化フォーラムにバーゼル委員会より上位の権限をもたせ、金融機関の基準を作成すべきだ。
- 国際会計基準の標準化を進めるべきだ。
- 格付け会社の規制を強化すべきだ。
しかし、ここに抜けている大事な論点がある。それは金融システムの安定化を妨害する最大の敵は政治家だということだ。今回の世界的な株の大暴落の引き金も、米議会が財務省の金融危機対策を否決したことだった。日本でも1995年末の住専の処理に際して、武村正義蔵相が農協の政治的圧力に屈して問題を決定的に混乱させ、あげくの果てに国会で追及されるのを恐れて、年明けに村山首相を道連れにして辞めてしまった。武村氏は「失われた10年」のA級戦犯である。
もう一つの教訓は、金融のように高度に専門的な問題の処理を、法学部しか出てないど素人にやらせてはいけないということだ。リーマン・ブラザーズが破綻してからポールソンが危機対策を出すまでに1週間しかかからなかったが、日本のバブルが崩壊してから大蔵省が資本注入を打ち出すまでに8年かかった。官僚の最大の仕事が政治家への根回しになっている状況を変え、専門知識を尊重しないと、日本はまた同じ失敗を繰り返すだろう。外国に説教している場合ではない。
これについては多くの論争があったが、きのうの記事でも書いたように、フィッシャーのいうdebt deflationと、輸入や技術革新による相対価格の変化の両方が原因だと思われる。特に現在のdeleveragingは、かつての邦銀よりはるかに激しいスピードで進んでいるので、自然利子率はすでに負になっている可能性が高い。しかし名目利子率の非負制約のもとでは、デフレ状況で実質金利を負にすることはできない。
この悪夢のような状況に全世界が陥るとすると、日本の状況についての研究は重要な意味をもつ。これまでに提案された(あるいは行なわれた)政策は、おおむね次の4種類だ:
- 負の金利をつける(貨幣に課税する):これはケインズが冗談で提案した政策だが、現実には困難だろう。
- 輸入デフレを防ぐために関税を引き上げる:これは1931年にSmoot-Hawley法で実施された政策だが、最悪の選択だった。今回はさすがに各国ともこの教訓に学んで、保護主義の動きはない。
- 財政出動によってインフレを起す:これは伝統的なケインズ政策だが、財政赤字が大きいと人々の不安をかえってあおる。麻生政権の「定額給付金」をめぐるドタバタは、負の景気対策になるだろう。
- インフレ期待を起す:これはクルーグマンの提案だが、加藤涼氏や植田和男氏も指摘するように、理論的な「穴」がある。現実にも、日銀の「時間軸」政策はインフレ目標に近い政策だったが、うまく行かなかった。
- デフレは不況の結果であって原因ではない:これは2003年以降、企業収益が上がって景気が回復したあとデフレが緩和された(その後も残った)ことでも明らかだ。「デフレ対策」を政策目標にするのは、風邪を直すために体温計を冷やすようなものだ。
- デフレの中で中央銀行がインフレ期待を作り出すことはできない:白川総裁もいうように、国民のほとんどは「量的緩和」という言葉すら知らなかった。「インフレが起こる」と思うのは実際にインフレが起こったときであって、物価が下がっているときインフレを予想する人はいない。
- 実体経済がよくなることが最善のデフレ対策である:日本の場合、竹中金融相が不良債権の処理を強制的に進めたことが、結果的には信用不安の出口が見えたという安心感をもたらし、景気を回復させた。
日本の教訓を生かすなら、これから始まりそうな世界デフレにも、非正統的な金融政策などの「魔法の杖」はない。過剰債務をすみやかに整理して金融システムを正常化し、人々を安心させることが最善の策だ。そして何より大事なのは、そういう政策を国民に伝え、信頼を得ることのできる力強い指導者だ――という日本の教訓は、そのまま世界各国にも生かせるのではないか。この時期にオバマが大統領に就任するのは、不幸中の幸いだ。
90年代前半まで著者は「日本型資本主義」を賞賛し、西部邁氏などと一緒になってすべての改革を否定する「真の保守主義」を標榜していた。しかし国際金融局長として為替手数料の自由化によって「日本版ビッグバン」の引き金を引いた後は「改革派」に転向し、「グローバル化に乗り遅れるな」と説くようになった。本書もその延長上で、「よいデフレ」とか「マクロ経済学は役に立たない」などの持論を展開している。
学問的には、「よいデフレ」論には異論も多い。本書の統計にも示されているように、輸入のGDP比が10%程度で、中国からの輸入はその20%だからGDPの2%である。それが「構造的デフレ」をまねいたという議論には無理があり、日本だけがデフレになった理由も説明がつかない。公平にみて、国内要因(自然利子率の低下)と両方がきいたと考えるのが妥当なところだろう。
ただ2003年に行なわれた「テイラー=溝口介入」が失敗だったという批判は、私も同感だ。「ミスター円」といわれた著者が1ドル=80円のとき行なった介入でさえ6兆円だったのに、10ヶ月で35兆円もの資金を不胎化しないでばらまいた超緩和政策が、結果的には円キャリーによってアメリカのバブルの原因になった。これを止めたのはグリーンスパンだったので、彼を責めるのも気の毒だ。
こうした異常な金融政策の背後にあったのは、著者のいう1財モデルのマクロ経済学だ。経済学を知らない人は驚くかもしれないが、教科書的なマクロ経済学では、日本中で取引される商品は1種類しかないと仮定する。つまり相対価格の変化を捨象し、すべての価格変動は「物価水準」の変化と考えるのだ。おかげで輸入や情報技術革新による相対価格の低下と、マネーストックの変化によるデフレの区別がつかず、部門ごとの生産性格差は無視される。
しかし最近のミクロ的な実証研究も示すように、こうした構造的要因(特に非製造業の労働生産性の低さ)が日本の成長率低下の最大の原因だ。2000年代の異常な金融緩和は――当局の意図はともかく結果的には――トヨタなどの超効率的な輸出産業に円安・低金利という恩恵を与え、さらにアメリカの消費バブルによって収益を高めた輸出補助金だった。裁量的な補助金は有害だという経済学の基本原則は、マクロ政策についても正しかったのだ。
金融化の流れは止まらないので「ものづくり」にこだわっていてはだめだという点や、円高を生かして資産大国として金融資産を戦略的に活用し、アジアの金融センターをめざすべきだという結論は同感だ。しかし時代遅れのマクロ経済学に代わって著者の開陳する、プリゴジンからウォーラーステインまで横断する歴史哲学は、かなり大ざっぱで説得力がない。また著者が民主党政権の財務相と目されているのを意識してか、農業補助金によって食糧自給率を引き上げるという非経済学的な政策が出てくるのもいただけない。
以前からgooブログの事務局にシステムの改善を要望しているのだが、言い訳ばかりでまったく改善されないので、ここで列挙しておく。
- 検索で、タイトルの文字列が検索できない(これは「既知の問題」だという)。
- javascriptが使えない(これは「安全性」のための仕様だそうだ)。
- 記事ごとに「gooIDのみ許可」を選ばなければならないので、すべての記事に一律に適用できない。
- コメント欄に題名は必要ない。空白のとき"Unknown"という表示はみっともない。
- 管理画面の「コメント管理」の表示が今年の後半から異様に遅くなり、Firefoxでは1分以上かかる。IEでは何度もクリックしないと表示されない(これはNTTレゾナントのイントラネットでは「再現しない」とのこと。客と同じ環境でやってみろ)。