大学教授匿名座談会
ゆとり教育の成果を見よ
 キャンパスは『 極楽トンボ 』 ばかりで日本沈没!?
  英語は中学生以下、レポートはネットから剽窃、……
   センセイも勉強不足 ……… 最高学府とは名ばかり
日本大学教授神田 桜樹かんだ おうじゅ
京都大学教授北白川 夜船きたしらかわ よふね
東京大学教授本郷 三四郎ほんごう さんしろう
早稲田大学教授馬場 大江ばば だいこう




亡国の学力崩壊
馬場 安倍総理は「 教育再生 」 を政策の大きな柱と位置づけ、総理直属の諮問機関として「 教育再生会議 」 も立ち上げました。 会議のメンバーを拝見すると、なるほど高名な先生方ばかりですが、いま足元の教育現場で起きていることをリアルに把握されている方は残念ながら少ないのではないでしょうか。 高邁な教育論も大切ですが、今日はひとつ、大学教育の現場に携わる立場から、学生、教師、大学が抱える問題点を大いに語ってみたいと思います。
それにしても、近年の学生気質はずいぶん変わったものですね。
神田 私はある女子短大でも教鞭をとっているのですが、授業中におしゃべりするなどまだ序のロ。 遅れて教室に入ってきたかと思ったら、コンパクトを取り出して入念に化粧を始める女学生や、長く伸ばした爪に一心不乱にネイルアートを施している女学生もいる。 しかもその間、一切私を見 ない( 笑 )。 まるで出勤前の銀座のホステスを見ているような気分にさせられます( 怒 )。
一方、学業の方には爪の先に懸ける情熱の半分も振り向けていない。 いわゆる学力低下は、深刻な状況です。 一時期、『 分数ができない大学生 』 ( 東洋経済新報社 )という書籍が話題になりましたが、これは決して誇張ではありません。 実際、日大の新入生のクラスでは、中学レベルの単語である「 university( 大学 ) 」 すら正確に書けない者が何名もいる。 そんな学生がいったいどうして入試を突破してきたのか、不思議でなりません。
馬場 早稲田でもこんなことがありました。 助動詞を含む文章の過去形を作らせたら、現在形の助動詞の次に過去形の動詞をくっつけて平然としている生徒がクラスに2名もいた。 たとえば I can go の過去形を、 I could go じゃなくて I can went と書いて恥じる素振りもない( 笑 )。 しかも1度きりの単純ミスではなく、毎回同じ間違いをしている。 もしや裏口入学など不正な選抜があったのではと、ひそかに彼らの出身高校を調べてみたのですが、2人とも昔はナンバースクールと呼ばれた有名都立高校の出身だったことがわかり、もう一度仰天したものです。 発音も、 warm を「 ワーム 」 、 worm を「 ウォーム 」 、 allow を「 アロー 」 と発音する学生が10人に少なぐとも3人はいる。 これは公立高校出身者に顕著な現象なので、「 高校の教室で1人立って教科書を音読させられたことがあるか 」 と聞くと、「 ほとんどない 」 「 1回もない 」 という答えがかえってくるんです。
さすがに東大ではそんな例はないでしょ。
本郷 う〜ん、私自身は英語が専門ではありませんが、学生と一緒に原書を輪読していても、さほど英語力が低下したという印象は受けません。 ただし、ここで注意すべきは、専門分野の学術論文で使用される英文にはそれぞれ非常に特殊な「 型 」 があり、決して一般的な英語力とイコールではないという点です。 専門分野の論文が読めたからといって、サマセット・モームやジョージ・オーウェルの作品が読みこなせる英語力や教養があるとは限りません。 理系の学術論文など、その最たるものですよね。
北白川 おっしゃる通り。 あれは英文というより、限られた狭い世界の情報を効率的に交換するための記号にすぎません。
本郷 英語以外の科目においても、東大生を見る限り、いわゆるペーパーテストで測定できるような学力はそれほど落ちていないようです。 何でもソツなくこなすし、解答を出すのも早い。 しかし、それが本当の『 学力 』 かというと、ちょっと違う。 短時間で要領よく正解を探し出す頭脳は、資格試験向きかもしれないけど、しょせんは単なるテクニックにすぎません。 逆に、「 未解決の領域を何年かかってもいいから腰をすえて取り組んでやろう 」 どいうようなポテンシャルがあるかを見てみると、残念ながら東大生の学力は確実に低下していると思います。
たとえば講義の課題としてレポートを課すと、みな流麗な文体で理路整然とした論文を書いてくる。 訝しく思って調べてみると、他人のホームページから文章を剽窃し て丸ごとペーストしていたものばかりだったなんてこともありました。 あるいは、ある一人の学生が作成したレポートのファイルを、数人の学生がそのままコピーして提出していたこともありました。 この時はさすがに「 お前ら、少なくともフォントを変えるぐらいの工夫をしろ! 」 と怒鳴りましたがね( 笑 )。
北白川 それは京大もほぼ同じことが言えますね。 京大に入学してくる学生も全国の高校生の中でもトップの水準ではありますが、以前と比較して学生全体の水準は間違いなく低下しています。 近頃の京大生を2、30年前の基準で比べると、真ん中から少し上の程度ではないでしょうか。 理学、工学、農学などの学部では、留年率が確実に上昇しています。 もっとも、これは「 20年前は今よりもっと卒業しやすかっただけ 」 と反論されるかもしれませんが( 苦笑 )。 理系では学部4年で就職する学生は皆無に近く、ほとんどは大学院へ進学します。 良い学生は大学院修士1年の時にグンと伸びる者が多いのですが、修士1年生の時の伸び方がいまひとつという例が多くなりましたね。
今、私が最も懸念しているのは、理系の上位4分の1までの「 準エリート層 」 が、著しく劣化していることです。 理系の場合、ニュートンが万有引力の法則を発見したような大仕事は天才にしかできません。 それゆえ、教育政策の効果を測定するには、ごく一握りの天才を生み出せたかどうかよりも、企業や研究機関で地道な研究の下支えをする準エリート層の研究者や技術者をどれだけ輩出できたかという部分をみるべきです。 戦後日本の経済成長を支えてきたのは、決して天才ではないけれど優秀で勤勉な技術者たちであり、彼らの存在なくして今日の繁栄はありえませんでした。 ところが近年、この層が音を立てて崩壊しつつある。 つい先日、ある一流企業の技術部長と話して驚いたのですが、なんと彼は「 モル( mol )の概念がわかっていない若手技術者がいる 」 というんです。
馬場 エッ、高校化学の初歩で学ぶ知識でしょう?
本郷 私は30年前に受験で化学を選択したきりですが、文系の私でさえ覚えてますよ( 笑 )。 ご存知の読者も多いでしょうが、念のため解説しておくと、12グラムの炭素( 原子量12 )に含まれる原子の数( アポガドロ数=約6.022 X 1023個 )と等しい構成要素( 原子、分子など )をもつ物質量を 1モル と定義するものです。 モルの概念を導入することによって複雑な化学計算式も単純明解に扱えるようになるわけですが、これがわからなくては研究者とはいえないし、その前に大学入試に受かるわけがない。 それがなぜ?・・
北白川 少子化の影響による定員割れを危惧した私大や一部の国立大学が入試の理科を一科目にしたため、工学部ですら化学を勉強せずに受験をくぐり抜けてきた学生が増えたためです。 また、そもそも「 ゆとり教育 」 のカリキュラムでは高校で化学を学習しなくても済むんですね。 そんな条件が重なって、ふと気づいてみたら高校レベルの基礎が欠けている者が一人前の研究者ヅラして大企業に勤めているわけです。
こんな研究者が製品の開発や工場の運営などを任されているのだから、消費者の安全という観点から見ても非常に由々しき問題です。 長らく日本は「 技術立国 」 と自称してきましたが、もはや技術立国など神話であり、我々の日常生活に深刻な悪影響を及ぼしかねないところまで来ていると思います。

「 教養なき日本人 」 の大量生産
神田 それは恐ろしい。 いわゆる「 ゆとり教育 」 は 」 1980年の学習指導要領改訂から始まり、その後は段階的に学習内容が削減されてきました。 20年前のゆとり教育を受けた世代でもこれほど酷いのに、さらに学習内容を3割削減した「 新学習指導要領 」 ( 2003年度から実施 )の下で理科を履修する高校生はいったいどうなるのかと考えると、もはやこの国に未来はないのがもしれない。
北白川 2007年4月、いよいよ3割削減課程の学生が入学してくるのですが、理系の教授陣の間では「 2007年問題 」 として頭痛のタネになっているほどです。 初歩的な化学の知識すらない学生を、どうやって教育したものか、と。
本郷 じつは東大でも同じ問題に直面しており、すでに2006年度から高校の授業の「 補習 」 にあたる講座が開設されました。 3割削減課程で履修した学生が初めて入学し、高校のカリキュラムと大学で教える内容の整合性が失われたため、穴埋めのために補習をせざるをえなくなったわけです。 たとえば理系の新入生では、入試では物理・化学を選択した学生が圧倒的です。 そのくせ、今流行りのバイオ関係の学科を希望する学生が多い。 そんな彼らに大学レベルの生物学の講義を受けさせてもまったくついて行けないわけですから、高校の授業からやり直すしかない。 しかし、大学の教員が新入生に高校レベルの補習をするなんて、どうかしています。 仮にも最高学府と言われる大学ですよ( 苦笑 )。
馬場 中学レベルの英文法さえマスターしていない学生が入学してきたのも、ゆとり教育導入以後ですね。 以前はとにもかくにも文法をキッチリ押さえ、その上で長文読解や音読をさせていました。 教科書や入試の素材となる長文もアインシュタインの自叙伝やヘミングウェイー『 老人と海 』 の一 節など味わい深いものが多く、教養の涵養という点からも好ましい作品が揃っていました。 ところが新指導要領では「 オーラルコミュニケーション 」 に重点が置かれ、そのぶんボキャブラリーの充実や長文の英文和訳が軽視されるようになってしまった。
神田 旧制高校卒のエリートたちはカントやショーペンハウエルを原書で読んだうえで論を闘わすことができました。 朱牟田夏雄先生の『 翻訳の常識 』 に出てくるエピソードですが、教師もまた激烈で、新入生に初回の授業からいきなり「 ここを訳せ 」 という。 「 わかりません 」 と答えると、「 こんな怠け者に俺は教えん 」 と怒って出ていってしまう。 それで仕方なく自分たちで輪読したり先輩に教わったりしながらドイツ語を勉強する。 死に物狂いでドイツ語と格闘するうちに、徐々にできるようになってくる…結局、語学の習得はこうした方法が王道であり、本当に力がつくやり方だと思います。 「 これさえ押さえれば短時間で効率的に英語が身につく 」 なんていう謳い文句はインチキです。
北白川 「 諸君 」 でお訓染みの中西輝政さんも著書で強調されていましたが、結局、語学の習得は「 クソ勉強 」 しかないんですよ。 その手間を惜しんで、なんとかうまい具合に短時間でぺラペラになろうという発想が間違っている。
神田 以前、国連の会議の模様をテレビで眺めていて愕然としたんですが、日本の国連大使より北朝鮮の国連大使のほうがはるかに綺麗な英語を喋っていた( 笑 )。
全員 エーッ( 驚 )。
馬場 おそらく北朝鮮では、日本統治時代に根づいた旧制高校方式の勉強法が今でも生きているんでしょうね。 私自身、大学の夜間部に入学したのですが、英語を習得するためにはそれこそ何でもやりました。 昼間は海外の英字紙を翻訳・要約して1本の商社に売る事務所でアルバイトをし、英字紙を隅々まで読み込む日々でした。 当然、インタビューも英語でやる。 昼間部の学生はもっと勉強しているのだと思って、必死でやりました。 こんな生活をしていたのは私だけでなく、同じクラスの中には米軍将校の家でボーイのアルバイトをやりながら勉強したり、米軍キャ ンプ内でタイピストをしながら通ってきている女性もいました。 クラスの学生の何人かは、自分達の方が何人かの英文科の先生よりも英語を読み、書き、話すという総合能力では上だと思っていました。
本郷 今、東大では英語の授業は教養課程で2コマしかありません。 高校で口語主体の軽い英語しか勉強していないのに、大学では「 英語は出来るもの 」 という前提でカリキュラムを組んでいる。 これでは専門分野の学術論文が読める程度の英語力はついたとしても、かつての旧制高校出身のインテリたちのような語学力は身につくはずがありません。 世間の英語熱とは裏腹に、どうも英語教育はおかしな方向に進んでいる。
神田 その結果、学生の質はどう変わっ たか? ハワイに行ってマクドナルドでペラペラ注文できるような学生は増えたかもしれない。 しかし、会話は下手糞でもオーウェルを原書で読めて豊かな教養を持っているような学生は姿を消しました。 新指導要領を考えた文部科学省の役人たちは、「 英文の評論を読めるインテリ 」 ではなく「 軽い英語をしゃべる馬鹿 」 を大量に生産しているわけです。
北白川 確かに、教養ある若者が減りましたね。 とくに理系の学生をみていて危惧するのは、彼らがあまりにも歴史を知らないことです。 どこかの飲料会社の社長じゃないけれど、熊襲が東北で蝦夷が九州だと信じ込んでいる者までいる( 苦笑 )。 よくよく聞いてみると、「 日本史は必修じゃないので、高校で履修してません 」 と言う。 これにはさすがに開いた口がふさがりませんでした。 自国の歴史を勉強しないで大学生になれる国なんて、おそらく世界中見渡しても日本だけでしょう。 これを亡国教育と呼ばずしてなんというべきか。 ただでさえ理系の各分野は蛸壷化しており、同じ物理学科の学生同士でも専攻分野が違うと話が通じないほどですが、文学、歴史、芸術に関する最低限の教養がなければ社会に出ても相手にされないし、様々な場面で支障をきたすでしょう。 ましてや自国の歴史さえ知ちないとなると、日本人としてのアイデンティティさえ疑わしくなってくる。
神田 アメリカでは小学校から大学院まで一貫しで自国の歴史を教えますから、教養と愛国心が自然と涵養されるようになっています。 しかし、日本では文科省の役人自身が自国の歴史を知らないから( 笑 )、中国・韓国の言いなりになって教科書検定で奇妙な難癖をつけ、’歴史を歪曲する。 そんな教科書で歴史を学んだ子供が大きくなって役人になり、今度は「 ゆとり教育 」 だと言って日本史そのものを必修科目から外してしまう。 一方、大学側は「 少子化・定員割れ 」 を危惧して日本史すら試験科目から外してしまう。 学校教師になった連中は「 進学成績を上げる 」 ことをロ実に、世界史の時間を削って受験対策に狂奔している……こんな滅茶苦茶な教育をしていれば、歴史観の崩壊が起こるのもやむをえないでしょう。

実態は就職予備校
本郷 ただし、最近の学生は我々が学生だった頃よりもひとつだけ優れていることがあるんです。
全員 何ですか?
本郷 出席率( 笑 )。 私が学生の頃など、出席を取らない講義は片っ端からサボっていましたし、試験の際に初めて教授の一顔を知るということさえありました。 しかし、最近の学生はちゃんと授業に出席するんですよ。
北白川 ウチもそうですね「 出席をとらないから来なくていいよ 」 と言ってあるのに、なぜか教室は満員になる。 で、真面目に講義を聞くのかと思いきや、最前列で寝ている( 苦笑 )。
本郷 まったく同じです。 きちんと講義に来るくせに、おし ゃべりしたり寝ていたりする。 「 お互い不愉快なんだから来るな 」 と言っているのですが( 笑 )、それでもなぜ大学に来るのか不思議でなりません。
推測するに、今の学生は「 やりたいこと 」 がないのでは、と思います。 我々の頃は、いったん大学受験を切り抜ければ、4年間は後先考えず何でも好きなことをやっていいという雰囲気がありました。 いわば、大学4年間は知的モラトリアムの期間だった。 だから、アルバイトやサークル活動に明け暮れる学生もいたし、あえて難解な専門書を選んで徹夜して読み込むこともあった。 中にはマルクス主義に嵌って抜け出せなくなった奴もいたし、ジャズ喫茶のお姉ちゃんに溺れたのもいたけれど( 笑 )。 勉強する奴は大学の講義などに頼らず自分で勉強したし、大学院レベルまで遥かに先に進んでしまう奴もいた。 要するに皆それぞれやりたいことが山ほどあり、4年間の知的モラトリアムを謳歌していたんです。 翻って今日の学生をみると、やりたいことを自発的に見つけ出す意欲すらなく、知的ポテンシャルが非常に低下しているような印象を受けるんです。
馬場 学問に限らず、意欲は非常に低いですね。 その理由として、今の子供は豊かな社会の中で大事に育てられてきたため、挫折や障害を経ていないこともあるのではないでしょうか。 そもそも少子化の影響で、選り好みさえしなければ大学受験は難しいものではなくなりました。 早稲田では15年ほど前までは浪人生が圧倒的に多かったのですが、最近は大半が現役でスッと入ってくる。 入試もマークシート方式による機械的採点の比率が高くなってくると、塾・予備校によるいわゆる受験テクニックがますます研ぎ澄まされてきて、本質を理解していなくてもとりあえず点が稼げてしまう。 さきほど神田さんがおっしゃった「 university 」 を綴れない日大の新入生や、助動詞の後に動詞の過去形を付けて平然としている有名都立高校出身の早稲田の学生などはその典型でしょう。
北白川 昔の新入生は大学受験に必死に取り組んだ反動で五月病になるケースが多かったですが、最近はあまりそうしたケースは聞きません。 逆に、ダラダラ学生生活を送るうちに鬱病に陥ってしまう者が多いと聞きます。 仲間たちと徹夜マージャンをやるわけでもなく、かといって自宅に籠って専門書にかじりつくわけでもない。 勉強も遊びもメリハリがなく、必死さが感じられない。 なんとなく惰性で4年間を過ごす学生が多くなり、その影響で学力も落ちているのではないでしょうか。
本郷 その反面、国家公務員試験や法科大学院( ロースクLル )受験など資格取得には非常に熱心です。 法学部の学生は多くが資格試験の専門学校も掛け持ちしており、ダブルスクールの状況です。 経済学部では公認会計士や税理士、その他の学部でもTOEICやMBA留学などの準備を進める学生が目立っています。 つまり、大学は「 知的モラトリアム 」 の場から「 就職予備校 」 に変質したのではないでしょうか。
その背景には、「 即戦力 」 を求める産業界の意向が強く働いていることは間違いありません。 かつては「 大学では何をしても良い。 人材育成は、採用後に企業が行う 」 という暗黙の了解が企業、大学、学生の間にありました。 大学4年間はマルクス経済を勉強しても、サークル活動に興じていても、就職内定後には一旦リセットされ、企業が人材教育を担っていました。 その前提条件には終身雇用と年功序列という日本独自の雇用形態があったわけですが、企業経営のグローバル・スタンダード化によって、この2つの前提条件が崩壊しました。 そこで企業は、人材育成の資金をかけずに「 即戦力 」 として使える人材を求めるようになったのです。 一方、学生も自分自身により付加価値をつけるため、資格取得に走るようになった。 双方の目論見を合致させるために、大学もその使命を変えざるをえなくなった、ということではないでしょうか。
馬場 すでに大学側はそうした変化を見越して、どんどん「 塾化 」 を進めています。 早稲田では商学部を除いて英語教育の一部、あるいは全部を外注するようになりました。 かつては各学部の専任教員、あるいは教授会での審査を通った講師が英語を教えていたのですが、新しいシステムでは「 早稲田大学インターナショナル 」 という別会社で採用された非常勤講師が「 イシストラクター 」 として英語の授業を受け持つわけです。 4人の学生にチューター1人がつくクラスを週1回行い、学生は大学に納める学費とは別に1年間4万円払わなくてばなりません。
北白川 「 即戦力重視 」 という言葉が独り歩きして、却って妙な誤解を生んでいる面もあるようです。
ある大企業の理系入社希望者の面接を担 当した技術系部長から、こんな話を聞いたことがあります。 入社志望の大学院生に「 入社して何をやりたいの? 」 と尋ねたら、その院生が「 燃料電池の開発をやりたい 」 と元気よく答えたそうです。 で、その部長は院生に「 ネルンストの式 」 に関する質問をした。 ちなみにネルンストの式と は電気化学の基礎中の基礎で、大学2年で習うものです。 ところが質問された院生は、「 式の名前は知っているが、式の使い方は知らない 」 という。 それじゃ話にならんので、部長はヤケ気味に「 じゃ、入社したら燃料電池の研究じゃなくて営業をやりますか? 」 と嫌味を言った( 笑 )。 ところがその院生は「 営業でもいいです 」 と答えたそうです( 爆笑 )。 極楽トンボもいいところ。
つまり「 企業は即戦力を求めている 」 といいますが、「 基礎学問がしっかり身についており、そのうえで応用がきく人材 」 を求めているわけですね。 決して「 基礎がなくても良い 」 と言っているわけではない。 ところが学生の中には、「 燃料電池 」 「 ナノ材料 」 など、流行りの言葉を知っているのが偉いんだと勘違いする者もいる。 経済紙の記事をナナメ読みして上っ面の知識を仕入れ、さも最先端の研究に通じているようなふりをする。
本郷 学生どころか大学自身が勘違いしている例も多いのではないでしょうか。 学生集めのためか、やたらと最先端技術の名称を冠した学部を立ち上げてみたり( 笑 )。 昔は「 産学協同 」 というと「 学問の聖域に資本主義の走狗を土足であげるのか 」 といった批判が殺到しましたが、いまやどの大学も「 産業界といかに直結しているか 」 をアピールすることに必死です。 実学重視の傾向は歓迎すべきものではありますが、そのぶん大学4年間でしか体験できない様々な無駄が排除され、「 知的モラトリアム 」 が消滅しているのは寂しいことですね。

アメリカ化と官僚主義の狭間で

神田 こうした変化を後押しする産業界の意向のさらにひとつ先には、間違いなくアメリカ政府の意向があると思います。 早稲田のある学部の「 主専攻 」 「 副専攻 」 はアメリカと全く同じ方式ですし、政府が小学生から英語教育を必修化しようとしている背景にも、アメリカの存在がちらつきます。 お父さんは会社で「 TOEIC860点以上でなければ昇進できない 」 と通告されたりしますが、ある程度年齢が行っていてしかも仕事をしながらとなりますと、英語の習得は相当難しい。 単語を万単位で覚えるならともかく、大体はテープを聴いて「 勉強した 」 と思っている。 私自身は小 学校の英語必修化には大反対なのですが、そんなお父さんたちは「 お前は英語をきちんとやれよ 」 と、子供に教材を大量に買い与え、児童英検なんぞを受けさせる。
馬場 いまや成績の評定もアメリカ型の大学が多数派になりましたね。 成績を平均化したGPA(Grade Point Average)の数値を出すという方法ですが、何のためにアメリカ型にしたのか、いまひとつ理由がよくわからない。 ロースクールの導入も明らかにアメリカを意識したものだし、このまま行くと日本の大学が丸ごとアメリカナイズされてしまうんじゃないでしょうか。
北白川 そういえば2007年度から全国の国公私立大学で助教授が「 准教授 」 、助手が「 助教 」 という呼称に変わります。 これもアメリカ化の一環なのでしょうが、何か意味があるんですかね?
呼称を変える際にあらためて教員をふるいにかけ、出来の悪い助教授は准教授にさせないというならともかく、実際はほとんど横滑りでしょう。 要するに名前をアメリカ型に変えただけで、何の意味もない。 しかも助教授も准教授も英語に翻訳すれば『 アソシエート・プロフェッサー 」 としてきたのだから、なにをかいわんや( 笑 )。 ここまでアメリカナイズが進行すると、もはや笑うしかありません。
本郷 「 大学のアメリカ化 」 という観点からあらためて大学の現状を考えると、新たな問題が見えてきますね。
かつての日本の大学は、どちらかといえば欧州型−とくにイギリス型に近かったのではないでしょうか。 欧州型大学の特徴を端的に表現すると、伝統を重んじ、形而上世界に生きているようなとっつきにくい教授が多く、学生も抽象的な思考や議論を好むものの、時には既成の価値観を破壊するような思想や大発見が生まれることなどが挙げられます。 万有引力を発見したニュートンや量子力学のコペンハーゲン学派などは、既存の価値観を破壊した好例です。 日本の大学も、物理学の湯川秀樹や代数学者の高木貞治など、世界と隔絶された環境下でも既存の価値観を打ち破った学者を輩 出しています。 一方、アメリカ型大学は、抽象思考よりも実践を重視し、既存の枠組みの中においていかに競争に打ち勝つかを到達目標にしているという特徴があります。 原爆を開発したマンハッタン計画などがその象徴ですし、近年ではビジネススクールが最もよくその哲学を体現しているといえましょう。
バブル崩壊以降、アメリカ発のグローバル・スタンダードに経済界が呑み込まれてゆく中で、日本社会はヨーロッパ型の事前規制型社会から市場主導の事後取り締まり型社会へと変わりつつあります。 その過程で、大学のあり方もアメリカ型にならざるを得なくなったのではないでしょうか。
北白川 なるほど、確かにそうですね。 しかし、表面的にはアメリカ型に生まれ変わったかのように装っていますが、日本の大学にはいまだに官僚主義・組合体質が根強く残っており、これこそ学生の質的低下を招来した最大の要因だと私は考えます。 いったん教授に昇任したら降格させられる ことはないため、優れた学術論文を年間10本発表する教授も、1年間に1本もマトモな論文を書かない教授もまったく同列に評価される。 こんな悪平等主義の環境では若い研究者の意欲も湧かないし、学生だって勉強しなくなります。
神田 北白川さんと同じ京大の岩瀬正則教授( 工学部 )が「 三猿理系教授が日本を滅ぼす 」 の中で、「 教えザル 」 「 研究せザル 」 「 論文書かザル 」 の三ザル教授が跋扈ばっこしていると指摘していますが、これは文系でも同じです。 既得権益保持、権威主義、競争意識ゼロと、まるで末期の旧ソ連並みであり、大学教授は霞が関の官僚よりもたちが悪いかもしれません。
馬場 そもそも「 ゆとり教育 」 の根底にある発想からして、社会主義そのものです。 「 ゆとり教育 」 推進の立役者であり、さきごろ退官した寺脇研・元文科省広報調整官は「 子供たち全員に100点を取らせる教育 」 が「 ゆとり教育 」 の理念だと語りましたが、全員横並びであることが美しいと思う感性はじつに無気昧だと思う。 その一方で寺脇氏は、《 指導要領を3割減らしたといっても、国が決めて共通にやる部分を減らしたわけで、そうじゃないと一人ひとり違うことにはならない。 「 共通部分を減らすと、格差が生まれてまずい 」 というのは「 全部国で仕切ってくれ 」 との発想ですよね 》( 「 朝日新聞 」 2005年12月4日付 )と、あたかも「 ゆとり教育 」 が「 小さな政府・競争原理へ 」 という時代の流れに合致した政策であるかのような脆弁を弄しています。
こして二重、三重にねじれた理屈をこねくり回して「 ゆとり教育 」 を続けているけれど、現実に大学生の質は著しく低下している。 にもかかわらず、寺脇氏をはじめとする官僚はその現実を直視せず、「 新指導要領が学力低下や塾通いの増大、公・私立間格差拡大をもたらすことはあり得ない 」 ( 寺脇氏 )と強弁しているのです。

日本型教育システムの復興は可能か

本郷 無謬神話を信奉し、途中で修正が利かないという官僚の失敗体質が、教育行政においても見事に現われていますね。 計画当初とは時代状況が変わったにもかかわらず無駄なダムを造り続ける旧建設官僚や、実質債務超過であるにもかかわらず高速道路を造り続けた旧道路公団と同じメンタリティです。 寺脇氏は退官後のインタビューで「 教育内容を政府が決め一律に配給する、というのが従来のやり方だった。 だ が配給では個性は育たない。 そこでゆとり教育が登場した。 配給は最小限に留め、好みと能力に応じて選択するのが成熟時代の教育だ 」 ( 「 AERA 」 2006年11月20日号 )と語っていますが、中央から一斉に「 今度はゆとり教育ですよ。 さあ、みなさん個性を発揮して下さい 」 と大号令をかけること自体がグロテスクな官僚的発想であることに気づいていないのでしょうか。 ほとんどブラックジョークに近い発言です。
神田 文科省からの圧力といえば、近年、Ph・Dを取得しやすくせよという号令が出ていますね。 各大学・学部ごとに毎年何名というノルマがあり、その人数分だけ学位を出さなくてはならない。 ノルマを達成できないと、補助金を打ち切られるなどのペナルティがある。 その結果、従来の基準ではとても学位を与えられないような低い水準の論文にも学位を与えてしまうのだと聞きましたが……。
北白川 まさにおっしゃるとおりです。 文科省は、博士課程の学生が定員に満たないと「 定員充足率を上げろ 」 とくる。 良心的な教授なら「 レベルの低い学生を博士課程に入学させられるか 」 となるのですが、無能な教授に限って入学させたがる。 しかし、レべルの低い学生は博士課程に入学し ても3年では博士号が取れない。 いや、博士号なんて永遠に取れないかもしれない( 笑 )。 ところが文科省は「 入学させたからには博士号を出せ 」 と、さらに圧力を掛けてくるわけです。 しかも期間短縮、つまり3年かかるところを2年で博士号を出せともいう。 当然、レベルはさらに低下します。
馬場 博士号の大安売りだ( 笑 )。 近年、地方の国公立大学などにオーバードクターのポスト充当のためとしか思えないような新設学部や研究所が続々と誕生していますが、国家公務員一律25パーセント削減を見越してあらかじめパイを補充しているんじゃないかと勘ぐりたくもなります。
北白川 そして彼らが将来の無能教授予備軍になっていくという悪循環の構図ができるんですね。
じつはいま山本七平氏の著作を集中的に 読み返しているのですが、『 一下級将校の見た帝国陸軍 』 ( 文春文庫 )に、旧日本陸軍の「 員数主義 」 というのが出てきます。 「 員数主義 」 とは商店の棚卸しと同じで、帳簿上の数と物品数の数が合ってさえいれば良しとし、その内実は全く問わないという形式主義です。 旧日本軍では「 員数が合わなければ処罰 」 されるが、「 員数が合ってさえいれば不問 」 ということになる。 山本氏は「 旧日本軍壊滅の原因は何かと問わ れれば、ほとんどすべての人があげたのがこの員数主義だった 」 と痛烈に批判していますが、現在の文科省が陥っているのも員数主義にほかなりません。
本郷 旧日本軍と同じ失敗が教育現場で現在進行中だということですね。 しかし、日本は太平洋戦争に負けて多くの人命と領土を失いながらも、戦後は奇跡の復興を果たし、経済大国にのし上がりました。 それを可能にしたのは、日本人の民度と教育レベルの高さだったと思います。 逆に考えれば、教育の失敗は国家にとって取り返しのつかない事態を招いてしまう。 教育とは文化の継承ですから、どこかで一旦おかしくなると、それが後世まで延々と続いてしまうという危険性もあります。
そこで最後に問題提起をしたいのですが、欧州型でもアメリカ型でもない「 日本型の大学教育 」 を立ち上げるためにはどうすべきと思われますか?
神田 教育再生は、文化の再生なくしてありえないと思います。 大学教育を変革する以前に、まずは日本の文化の土壌を豊かにしなければ、上部構造をどれだけいじっても結局は根づかないでしょう。 今日、これだけメディアが発達した世の中に暮らしていると、学生は大学の講義よりもメディアを通じて接する情報から受ける影響のほうが重要になってくる。 街の風景や人々の挙動、あるいはニュースキャスターのコメントやネット情報に影響される面も大きいでしょう。 そんな日常のレベルから日本文化を気長に考え直して行かなければならないと思います。
北白川 最大のガンは教育関係者の官僚主義・組合体質ですから、まずは悪平等を是正すべきですね。 「 人は誰もが同じではない。 しかし、それは決して勝ちや負けではない。 単に役割が違うんだ 」 ということを、小さいうちに教えないとあかん。 アメフトでも、パントだけやる選手とクオーターバックとは比較できないんだ、と。 戦前の教育制度には高等学校以外にも士官学校や兵学校、商業学校や師範学校など多くのコースが用意されており、それぞれの分野で頑張ればエリートになるこどが出来ました。 ところが今の教育制度では、物差しが一つしかない。 一つの物差しで人間をふるいにかけるという発想そのものが官僚主義・組合体質です。 、ここを改善して、もっと多様なエリートを生み出すシステムを整えるべきじゃないでしょうか。
馬場 私は、今の日本の学生に最も足りないのは「 挫折 」 と「 孤独 」 だと思います。 イギリスのパブリックスクールでは、あえて生徒を厳しい環境に放り込んで挫折の経験を積ませます。 真っ直ぐ大学に進学するのではなく、諸外国を一通り巡って様々な体験を積んでから大学に進学する生徒も多い。 翻って日本をみると、中高一貫校から現役で大学に進学し、在学中に国家試験に通るか一流外資に内定するのが最もカッコ良いとされている。 大学ではなんとなく授業に出席し、ダラダラ過ごす。 これでは真の教養を身につけることは出来ず、薄っぺらな人格しか形成されません。
本郷 昔は良い意昧での無駄がありましたね。 たとえば図書館で文献を探していても、本来のテーマとは関係ない文献が目について、そこで新しい発見をすることもあった。 しかし、今は何かを調べようと思い立ったらネットで一直線に情報に辿り着けてしまう。 非常に効率的な反面、無駄の中に含まれる貴重な情報に触れる機会も激減しました。 寺田寅彦は科学者に向く素質を論じたエッセイの中で「 いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。 人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある 」 ( 「 科学者とあたま 」 より )と説いています。 アメリカ化も結構ですが、どうも最近の大学は、寺田のいう「 頭のいい人 」 を大量生産する工場と化しているのではないか。 今一度、無駄の効用を見直しても良いんじゃないでしょうか。
北白川 その観点からも、歴史教育の充実が急務です。 自国の歴史を知らない学生を企業や海外に送り出しているのだと想像すると、じつに空恐ろしい。 最低限、高校で日本史、いや世界史も必修にし、欲をいうなら大学でも全学部の教養課程で日本史と世界史を必修にしたらいい。
本郷 いや、そこまでやってしまうと今度は大学新入生やゼミ生を引き連れて「 慰安婦・南京謝罪ツアー 」 が流行るなんてことにもなりかねませんよ( 笑 )。 実際、関西の某有名女子高では、そんなことをやってますから。
北白川 文科省の介入を招く余地も、あらかじめ消しておかなければなりませんね。 今日は有難うございました。