第0章 甲
Chapter0 Kow
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..■一月二九日 土曜日 四時五五分
- 目覚めると、俺は白い海に漂っていた
- 柔らかなシーツの感触
- だけどベッドから抜け出すのはまだ早い。
- だって、聞きなれた呼び声が、
- まだ俺の耳には届いていないから。
ジリリリリリリリ……
残念ながら柔らかなまどろみは、聞きなれた呼び声などではなく、脳内に鳴り響く目覚ましによって破られる。自分で設定しておいてなんだが、立ち上がるまで停止できないこの目覚ましは、過剰だ。
目覚ましを止めるためと、文字通り目を覚ますためにベッドから抜け出し、大きく背を伸ばす。そして手早く着替えを済まし、階下へ向かう。
「おはようございます、甲さん」
「おはよう、レイン」
玄関を出ると、レインがすでに準備を整えている。
いつものように。
事件からすでに一週間。
当初はカルト組織による大規模テロとして話題を集めていたが、結果的に抑えられた被害と関係者の速やかな逮捕とで、すでに世間の注目は次の事件に移りつつあった。
不自然だった都市自警軍の動きは、米内派との関係を暴露されることを恐れた一部の上層部による暴走ということで片付けられている。今、都市自警軍内部では大規模な人事異動が行われているらしい。しかし米内議員の息子がジルベルトだったというのは驚きだった。まああの男のことだ、周りを巻き込むためにすべてすぐに白状するだろう。俺としては、二度と関わりたくない。
ミッドスパイアのバルドルシステムは、テロによる損壊が激しいということで都市管理からも切り離された。今後は管理にAIが介入することになりそうで、それに対する住民の反発はあるようだが、文字通り雲の上の話だ。
亜季姉ぇから聞いた話だと、実際のところはシステムとして完全停止は不可能なために、物理的に外部からの接続をすべて遮断。設置場所そのものにも電磁的にシールドを張り巡らし、アクセスを不可能にしているらしい。
俺としては完全に破壊してしまえばいいとも思えるが、あのバルドルの中に残っているノインツェーンの、その意識ではなく知識データベースは破壊するには惜しいというのも、納得はしにくいが理解できなくもない。知識そのものに善悪はないのだろう。
俺たちの生活も日常に戻りつつある。
救出後、ノイ先生に連れて行かれたレインも真ちゃんも、検査の結果では問題も後遺症もなく、先日寮に戻ってきた。
そろそろ明るくなる時間も早くなっているが、まだ朝のこの時間は暗い。わずかに日の光がさす朝の川原を、俺はレインと並んで走る。
(そういえば新学期からは久利原先生が、星修で講師に復帰されるとか)
(らしいね。監視は付くけど、日常生活程度のネット接続は大丈夫になったって聞いたよ)
(私はちゃんと久利原先生の講義を受けたことがありませんので、今から楽しみです)
(講師といえば、モホークも星修に戻ってくるってさ。あいつが講師だったってのが、驚きなんだが……)
(ああ見えて面倒見のよい方ですからね)
隠すほどのことはない他愛ない話。別に直接通話でなくともいいのだが、走りながらとなると、これはこれで便利だ。
(あとは雅経由のアヤシイ噂なんだが、新しい保険医が来るとか来ないとか……)
もうすぐ亜季姉ぇは如月寮を出る。
俺たちもあと一年で卒業だ。
雅は進学した上で都市自警軍に、千夏はすぐに統合軍に入る予定だという。
空は、詳しくは聞いていないが進路は決めているらしい。
しかし俺はまだ何も決められていない。
(新しいといえば、先日、六条学生会長からご連絡を受けました)
(六条学生会長って、鳳翔学園のか?)
一度レインの通話を覗いたときに見かけた銀髪の少女。そういえばなにかジルベルトが彼女の話をしていたような気がするが……
(はい。鳳翔学園に戻ってきて次の学生会長にならないか、とお誘いされました)
(おいおい、まさかいつかの借りを返せって話か?)
おそらく半分は冗談でしょうが、とレインは言うが半分以上は本気なんだな。やっぱりあの人に何かものを頼むのはよくない。
(六条会長ご自身もドミニオンとは浅からぬ関係がおありで、それもあって教団の活動を阻害するために、いろいろと調べておられたらしいです)
(ジルベルトはその情報を、どこかで覗き見したってことか)
もしかするとわざと知らせたという可能性もあるが、疑いだすのは止めよう。
そしてレインはなにか思い出すように、遠くを見つめていた。
(あの時、ノインツェーンに同化されかけた時、不思議なことに母の声を聞いた気がするんです。教団に近づいていたのは、父に認めてもらうためにその活動を調べようとしていた、と。そして最後に『約束を守れずにごめんなさい』って)
(AIがすべてを覚えていてくれて、遅くなったけど、レインに伝えてくれたのかもな……)
(そう信じたいですね…いえ、きっとそうなんです。母は最後まで私のためを思っていたくれたんです)
レインのお母さんはドミニオンと戦って亡くなられた。俺の母さんも、おそらくはそうなのだろう。
レインと並んで、まだ暗い川原を走る。
川向こうに見える空が、少し色付きはじめている。橙と暁、そして紫。一日のはじまりだ。
ふと、足を止めてしまう。
「学園生活はあと一年あります、その間に、甲さんの夢をかなえる方法を見つけましょう」
俺の夢、か。
「正義の味方、でしたっけ?」
「親父に憧れていたんだ。名も出さず、どこかの誰かのために戦い続ける、俺の親父はそんな正義の味方だって、信じたかったんだな」
二人並んで東雲を見上げる。
「なら、それを目指しましょう。私たちにはそれができる力が、きっとあります」
傭兵時代、俺はレインと二人、長い時を過ごした。その記憶があったからこそ、年が明けてから俺たちは近づけたのだと、そう思っていたときもある。
だが、それは違う。
あの記憶は大切だが、それを守るためにレインと共に歩むのではない。
記憶をなぞっていくのではなく、新たに書き足していくのだ。
今から進むのは、誰も知らない時間。
「そこまで付き合ってくれるか、レイン?」
「いいえ」
レインの柔らかく優しい否定。
「いいえ、そこまでとは言わず、その先まで付き合わさせていただきます、甲さん」
「ああ、そうだな。俺たちは……」
- 二人でひとつの命を共有する
「愛してる、レイン」
「私も愛しています、甲さん」
手と手、指と指を絡ませ、俺とレインは今初めて唇を重ねる。
クリスマスから続いた、長い長い灰色の夜は、明けた。
BALDR SKY World7 +Flat
"...Hello, World!"