「声が届いた」身削る出廷、実結ぶ

2011年4月23日 10時21分このエントリーを含むはてなブックマークLivedoorクリップに投稿deliciousに投稿Yahoo!ブックマークに登録
(32時間19分前に更新)

 沖縄戦時、慶良間諸島で起きた住民の「集団自決(強制集団死)」をめぐる訴訟は、自決を命じていないと訴えていた元戦隊長らの主張を3度、退けた。法廷で自身の戦争体験や母の記憶を苦しみながら紡いだ被告側の証人たちの元にも22日、待ち望んだ「吉報」が届けられた。

 訴訟が提起されてから約6年。「正義と歴史の真実が認められた。長かったがようやくゴールしたという気持ちだ」。渡嘉敷島の「集団自決」を体験した金城重明さん(82)は、そう口元を緩め、最高裁決定の重みを反すうした。

 那覇で開かれた一審の出張法廷で被告側証人として体験を証言したのは、2007年9月。戦時の証言や講演を請われれば「避けてこなかった」という。最愛の母と幼い妹弟を手にかけた16歳の記憶を、胸の傷をえぐられながらも語ってきたのは「生き延びてしまった者の使命」という信念からだ。

 出張法廷での原告側について「『集団自決』が起きた当時の社会的背景には触れず、私個人の行動を問い詰めるような尋問に終始した」と振り返る。「一木一葉に至るまで軍の支配下だった沖縄戦。軍の命令なしに『集団自決』は起きなかった」とあらためて口にし、原告の主張を退けた「最終判断」をかみ締めた。

 ただ「ゴールした」のは裁判だけでのこと。歴史教科書の「集団自決」記述では、軍の強制が削られたままだからだ。「決定を教育にどう反映させるのか。国は目を見開き、沖縄戦の真実に向き合ってほしい」

 「沖縄の人たちの声が司法に分かってもらえたよ」。上告棄却の知らせを聞いた沖縄女性史家の宮城晴美さん(61)は仏壇に手を合わせ、亡き母に報告した。

 戦時下の座間味島で日本軍の下で働いていた母の手記や島民の証言などをまとめた著書「母が遺(のこ)したもの」の一節が、軍命はなかったとする原告の主張に使われ、図らずも裁判の争点になった。「もし負けたら、島の人たちにどう顔を合わせるのか」。自分を責め、不安で眠れなくなることもしばしばあった。

 2007年7月、大阪地裁で証人尋問に立ち、「軍からの命令」を聞いた島民の証言を代弁した。「集団自決」で11歳の息子をあやめた祖父と自分を責め続けた祖母、たくさんの証言者の思いに支えられた。「戦争体験者のことをよく知り、戦後の苦しみを見てきた私たちの世代しか語れないことがある。それを一番考えた裁判だった」と表情を引き締め、これからの課題も見据える。

 「『集団自決』は軍命が背中を押した。だが、女性たちが敵に辱められることをどうしてあれだけ恐れたのか、差別やジェンダーの視点から問題の背景を整理していきたい」

証言者「感謝」

 沖縄戦時下で座間味村助役だった宮里盛秀さんの実妹で、軍命を証言してきた宮村トキ子さん(79)=沖縄市=は「裁判が始まってから、戦争を忘れようと思っても忘れられず、夜も眠れなかった。これでようやく兄も穏やかに成仏できる。周りが尽力してくれたおかげ。感謝している」と話した。

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