• 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5

とうほく唯物論

三味線に映し出される、竹山の魂。

【写真の説明】小湊で『竹山流津軽三味線』の看板を掲げる八戸氏所有の、竹山形見の撥(ばち)。

独奏者」への転換。

ボサマとして各地を巡業するうちに、竹山は津軽民謡の神様、成田雲竹と出会う。そして、雲竹に認められ伴奏者に指名された頃から、三味線の音色はより艶やかさを増してくる。
「雲竹先生が歌う時もそうですが、例えば当時、各地ののど自慢たちが集って歌を競い合う民謡大会でも、竹山先生は100人なら100人の歌い手に完璧な伴奏をつけた。譜面が読めない分、曲そのものや歌い手の持ち味を瞬時に判断できる才能を持っていた“天才”の証でしょう」。そう語るのは、竹山の運転手役として各地の興行にも共に足を運んだ“良き相棒”であり弟子の八戸竹清氏。
雲竹と津軽民謡を伝承する“黄金コンビ”として活動を広めていった竹山だったが、位置付けは歌い手より低い伴奏者にすぎなかった。しかし、それにめげることなく独奏者への夢を抱きながら音を探求し続け、日本民謡協会の三味線技能章を受けた翌年の1963年(昭和38年)、音楽業界では前代未聞の三味線の独奏だけのレコード『津軽三味線』(キングレコード)の発売で、ついに念願叶い名実ともに“独奏者”となる。実に竹山が53歳の時である。

次ページ

写真

【写真の説明】3日に1度ほど竹山に稽古をつけてもらっていた八戸氏。「プロを目指すわけではない気楽な稽古だったので、ちょこっと弾くとすぐに“おい八戸、酒飲むべや”となりました」。

【写真の説明】「ストライキで汽車が動かなかった時、片道17時間ノンストップで長野の上田市まで先生を送りました。運転する私が眠くならないようにと、車内で三味線の稽古をつけてくれたことが忘れられないですね」(八戸氏)

.

  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5