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とうほく唯物論

三味線に映し出される、竹山の魂。

写真

生きるための三味線。

高橋竹山は1910年(明治43年)、青森県東津軽郡中平内村小湊で農家を営む高橋家の次男として誕生。生家はもちろん、当時は世の中自体が貧しく生活環境も悪かったため、2歳の頃にこじらせた麻疹がきっかけで半失明となった。次男である以上、将来は家を出なければならない。しかし目が見えなくては仕事が制限される。こうして竹山は三味線と出会うことになる。つまり、生きていくために稼ぐ芸の手段が三味線だったのだ。
津軽地方でボサマ(坊様)と呼ばれた、竹山のような盲目の芸人たちは、家々を回り玄関先で三味線などを演奏する“門付け”で得る、米や金品で生計を立てていた。竹山は14歳で隣村のボサマ、戸田重次郎に弟子入り。独立後には、北海道や東北を中心に門付けの旅を続けた。まさに生きるための旅路。盲目の竹山にとっては、大地や自然など、肌身で感じる津軽の厳しさと優しさが、精神世界に蓄積されていったことは容易に想像できる。
「ただでさえ貧しかったわけですから、商売道具である三味線の皮を破るなんて言語道断。弦の糸1本すら切らないように演奏していたんです」と語るのは孫の高橋哲子氏。現在の津軽三味線の奏法の指向は“弾き”と“叩き”に二分されるが、柔らかく切なく上品な竹山の音色は、ボサマ時代に必然として育まれた“弾きの妙”によるものとも言える。その後竹山は、興行で巡業する一座などに伴奏者として求められながら“生きるために”三味線の技術を磨いていった。

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【写真の説明】三味線を弾く絶頂期の竹山。「仕事の道具と割り切っていたのか、家ではほとんど三味線を弾きませんでした。それよりも、好きで吹く笛の方が印象的。何よりじっちゃの嬉しそうな顔が記憶に残っています」(哲子氏)

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