やまと新聞の秘密
の記事で、“現在のやまと新聞”は“明治のやまと新聞”とはまったく別物だと、国会図書館の資料を引いて説明した。
“明治のやまと新聞”は、昭和19年休刊時点では“児玉誉士夫”氏が経営していた。
戦後戦犯に問われた児玉氏が、一時経営から遠ざかった後、変遷を経て「東京スポーツ」になった。 一方、「帝都日日新聞」は、過激な右翼新聞だった。 だから、終戦後もGHQの目が厳しく、占領時代には復刊できていない。 ようやく、野依秀市氏の手で復刊できたのは昭和30年(GHQが去った後)のことだった。 その後も過激な活動を続けたが野依氏の死とともに、立ち行かなくなり、”児玉グループ”に身売りすることとなった。 そして昭和44年に、児玉グループの手で、「帝都日日新聞」は“やまと新聞”へと改名した。 このことを簡略に図で示すと・・・右下、虫メガネ印をクリックで拡大します。
(ちなみに最下段の「やまと新聞HP」は、現・やまと新聞の主張通りに図表にしてみたものです。 裏付けは取っていません。)
つまり、「児玉誉士夫氏が、明治のやまと新聞と現在のやまと新聞を繋ぐ役割を果たした」とあえて解釈すれば、“やまと新聞”は、明治から平成へと一本で繋がっていると言って言えなくもないだろう。 現在のやまと新聞関係者の間ではたぶん、そういう認識で「一本だ」と言っているのでしょうかね?
そういうことですか?ねずきちさん。 しかし、あえてそう解釈をするならば、やまと新聞編集部が書いていることは解せない。 >やまと新聞社と児玉誉士夫の関係はよくわからないというのが実情です。詳細な資料は焚書により手元からは離れてしまいましたし、児玉誉士夫の文字が確認できるのは当時の株主名簿だけです。現実に終戦後のやまと新聞はほんの数名の社員が記事を作り国会内で手配りするのがやっとの状況でしたので、児玉誉士夫の影響など大きな力はないと思います。(編集部)
http://www.yamatopress.com/c/18/161/1805 「やまと新聞社と児玉誉士夫の関係はよくわからないというのが実情です。・・・児玉誉士夫の影響など大きな力はないと思います。」と書かれている。
キーマンの児玉先生との関係を論じることを抜きには、やっぱり、どう解釈してもどう足掻いても、「一本」にはなりませんよ。 結局、振り出しに戻ってしまう。
なぜ、“現在のやまと新聞”が“明治のやまと新聞”と繋がるのでしょうか?という問いに・・・。 ウソにウソを重ねて、”嘘の自縄自縛状態”ですか? やまと新聞関連の記事です。
日心会問題は、下記にまとめています。
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