津上俊哉著『岐路に立つ中国――超大国を待つ7つの壁』(日本経済新聞出版社、2011年2月)
本書は2003年に『中国台頭』を書いて、中国経済の分析を踏まえた日中経済協力のあり方について具体的な提言を示して話題となった著者の第2作である。前著を発表した当時、著者は北京大使館勤務を終えて、古巣の経済産業省付属の経済産業研究所研究員、すなわち官庁エコノミストの身分であったが、その後、中国流にいえば「下海」して、「東亜キャピタル株式会社取締役社長」となった「起業」組だ。官庁エコノミストとして見る中国経済とベンチャー起業(育成)家として見る中国経済は、その姿が異なって当然だが、それにも増して『中国台頭』の中国イメージと『岐路に立つ中国』のそれとは、大きな変化がある。評者はこの着目点に共感し、新作の問題意識を前著よりも優れていると評価したい。
この点をわかりやすい一語で説明しよう。前著の出たあたりまでは「下海」という新語がまだ使われていたが、いまはほとんど死語に近い。より待遇のよい職場を目指してあっさり職を替わることを意味する「跳槽(ティアオ・ツァオ)」は今も変わらず、中国人の機敏さを示すが、いま中国の人々に聞いたら誰もが異口同音に答えるのは、「職を選ぶならば、やはり官僚」だというものに違いない。著者のようにエリート官僚の地位を捨てて「下海」する者は、既得権益を捨てる愚か者であり、普通の中国人には理解できない行動なのだ。
著者は本書で「7つの壁」という課題を提起して、それらの壁を中国が巧みに乗り越えるならば、望ましい未来が待っているが、そこでつまずくならば、中国の未来は危ういと警告している。「7つの壁」のうち、第3の壁が評者の最も重視したいポイントである。すなわち「国退民進」から「国進民退」への逆行を止められるか、という難題である。
「『国進民退』への逆行」とは、「計画経済から市場経済へ」の過程を歩んでいた中国経済が、「計画経済への逆流」にも似た様相を呈していることを批判する言い方である。この逆流は、まさに『中国台頭』の出版前後から際立って進行し始めたものであり、ここに着目する著者の着眼ポイントを評者は高く買うのだ。その中身は本書の中見出しから一目瞭然である。
曰く、(1)「官の官による官のための経済」。非効率な国有企業システムが資源配分と使用の浪費をもたらす。人々の生活向上に役立っていない経済システムを改めて、「民のために、民が努力する経済」へ、移行することが経済改革の目標であった。にもかかわらず、いまやこの目標とは逆に、「役人天国の経済」になっているのではないか、という疑問が示される。
(2)「官偏重の所有・分配構造が成長を阻害する」、(3)「国有企業の富を『民』に移転せよ」。この点は過去10年にわたって、労働分配率が10ポイント激減した公式統計が端的に物語る。一部は工業センサスに基づく下方修正によるものだが、労働分配の激減という事実は、ここでは説明を省くが、奇妙な貯蓄統計とも符合する。評者はこれらの統計に驚愕して「春闘という成果配分のメカニズムなき経済成長の帰結」と評したことがある(小著『中国力』)。過去20〜30年、中国経済の高度成長は何人も否定できない明らかな事実だが、そこでは高度成長期の日本で見られたような「春闘」が欠けていたために、所得配分が著しく不公平なものとなり、労働者や農民、すなわち勤労階級への配分は極度に抑えられ、政府や資本家の側に手厚く配分された。これは経済成長によって増えたパイの分け前、フローの側面だ。
実はストックの面でも重大な政策ミスが行なわれた。毛沢東時代に「計画経済を目標とした」ことは、別の言い方をすれば、民の「生産手段を集団化、国有化すること」であった。こうして改革開放の出発当時、大部分の生産手段は「国有・公有」制であった。市場経済への移行過程において、これらの生産手段の民有化・私有化が始まったが、これら「事実上の没収資産」は本来の所有者に返還するか、あるいは社会保障の原資とするなど活用方法に智恵をしぼるべきものであったが、実際にはそれらを管理する(所有する、ではない)官僚の恣意的な判断に委ねられた。市場経済の前提となる生産手段の私有化・民有化を指すprivatizationは、中国では官僚とこれに結託する御用商人によって、私物化された。その典型が土地ころがしである。都市部の土地は大部分が市当局の管理下にあり、固定資産価値はゼロとされていたが、再開発してマンションや工場団地・オフィスビルを建てた場合、その開発利益のほとんどを政府と開発業者が山分けしたのである。
このような中国流列島改造が官僚による公有資産の私物化を促し、その過程で行われる贈収賄が権力の腐敗を招いた。そして腐敗した政治権力は、ますます政治改革を脅えるようになった。
たとえば、胡潤百富の長者番付を見ると、北京、上海、広東など大都市の長者のかなりの部分が不動産開発業者である。これらの開発業者は、官僚と結託してただ同然で開発許可を得て公有地を再開発し、その不当所得を業者と官僚が山分けしたわけだ。たとえば上海市党委員会書記陳良宇のスキャンダル失脚は、「公有の再開発地」を「社会保険基金という民の資金」を用いて開発する許可を悪徳業者に与え、膨大な賄賂を得たものである。陳良宇のボスが黄菊(元上海市書記)であり、黄菊のボスが江沢民(元上海市書記、国家主席)である事実から判断すれば、これが決して個別の例外ではなく、むしろ中国共産党官僚資本主義の原始的蓄積の核心とみなしてよいことが理解できよう。
評者自身は、中国の高度成長のカゲにこのような負の側面を見てきたが、にもかかわらず数年前までは、市場経済化への大きな波がこのような汚職をも浄化する可能性に賭けてきた。しかし、近年顕著に暴露され始めた「国進民退」現象を見て、これはもはや後戻りできない官僚主義経済化への進展と見る判断を強めているときに、著者の新著に接した次第である。
むろん、著者の認識と評者の認識には異なる部分も多いと思われるが、(4)「『官製資本主義』の膨張は止めなければならない」、という危機意識においては、評者は著者の呼びかけに満腔の賛意を表明したい。というのは、(5)「このままでは中国経済は行き詰まる」からにほかならない。かつて「下海」が流行語になったのは、一方で効率の悪い国有企業があり、他方で効率のよい外資との合弁企業や改革開放期の新しいニーズに呼応して生まれた私営企業の躍進が目立ち、両者の市場メカニズムを通じた競争が注目された。非効率な国有企業は、効率的な民営企業によって駆逐されることが期待されていた。ところがゾンビにも似た国有企業は、政治権力を利用して巧みな生存術を画策した。一部の資産を活用して外資との合弁企業を設立し、上場し、市場に顔を分けた企業のイメージを作りながら、他方で安全保障の見地から基幹産業の国営化堅持をイデオロギーとしした企業集団作りを進めた。すなわち一方で市場経済に伴う利益を享受しつつ、他方で国有企業としての保護措置をさまざまな国家の政策から引き出してきた。主管官庁の役人と国有企業のトップとは、いずれもノーメンクラツーラという高級国家公務員のリストから、中共中央組織部が選ぶ制度で結ばれており、この人事制度は、改革開放期においても、不変であった。
市場化を指向する経済とノーメンクラツーラに象徴される政治制度の矛盾は、前者の進展に合わせて、後者を改革することが期待されていたが、江沢民2期10年、胡錦涛2期10年の中国共産党指導部は、政治改革を一切封印した。その帰結が「国進民退」にほかならない。すなわち「国進民退」とは、政治不改革がもたらした、市場経済への逆流なのだ。これは私見によればWTO加盟直後から始まっていたが、2008年のリーマンショック以後、西側経済システムへの懐疑が深まる過程で一挙に拡大した。
その構造を著者は、こう特徴づけた。(ア)政府および国有企業が多くの経済資源と成長の果実を支配・所有している。(イ)資源配分をコントロールする審判としての政府に、広範かつ強力な許認可権限、莫大な予算、土地の配分権など、他の国に見られない強力な権限が集中している。(ウ)政府は審判だけでなく、プレイヤーでもあり、金融ほか多くの基幹産業を国有企業が独占している。(エ)以上の3要素が絡み合い、「官の経済実権」がますます増殖している(本書77〜78ページ)。
顧みると、中国当局は、1992年に「市場経済」というコンセプトを認知して、93年の14期3中全会で、「市場経済への50カ条プログラム」を採択した。この市場経済化プログラムは2000年のWTO加盟までは堅持されたが、その前後から「世界経済の軌道に合わせる市場経済化」という目標は換骨奪胎され、官僚型経済にねじ曲げられ、次第に著者のいう「官製資本主義」に変わり果てた。
評者自身は、これを「国家資本主義」、あるいは「共産党官僚資本主義」と名付けている。前者は国家統制の色彩の強い資本主義の意であり、一般的な呼称だ。後者は、49年革命以前の旧体制が「国民党官僚資本主義」と呼ばれた構造と対比したものだ。つまり、中国共産党は旧体制としての国民党官僚資本主義を打倒して、新たな経済システムを模索したが、その帰結は、旧体制の旧モデルに合わせて自らを改造したという話である。いいかえれば、政治革命を通じて社会経済体制を革命することに失敗し、政権与党が旧社会構造によって「逆改造された」という見方である。このような疑問をかねて抱いてきた評者からすると、著者の次の警告は、まことに我が意を得たり、である。「官がこのまま肥大を続けると、中国経済は効率と活力を失っておかしくなる」「少数者にますます経済力が集中するいまの姿は、市場経済のあるべき姿から離れていくようにしか見えない」「いま改革を怠ると、中国にとって何より大事な『安定』がもっと大きな形で将来に損なわれる(102ページ)。
著者は後半で、楽観シナリオと悲観シナリオを示している。それぞれに興味深いが、評者の最も危惧するのは、以下の記述である。「2010年以降の中国で、最も存在感を高めたのは解放軍だ。現役軍人の論客がメディアに登場して、強硬なナショナリズムをぶつ現象はますます一般化し、いまやスター級と言われる著明将官・佐官が20名は下らない」(201ページ)。その通りである。敢えてどぎつく言おう。朱徳の外孫・朱成虎がそのチャンピオンだ。解放軍は、軍内太子党にハイジャックされたのではないか、と。
(2011年2月、矢吹晋)